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21. 黒衣の影、窓口の笑い

霜月十日、正午前。

会議室の空気は昨日の続きのまま、張りついていた。


紙の角は揃えられ、端末水晶に淡い光。

誰も余計な音を立てない。


メルシェは正面。

記録端末を開いたまま、背筋は真っ直ぐ。

指先だけが微かに待機の位置で止まっている。


ライゼルは斜め後ろ。

窓の光を背に、視線は低く、場の全体を見ている。


ジークは対面。

腕を組んだまま、机の下で足の力を抜く。

軽口は喉で止めた。


カイルは背筋を伸ばし、静かに待つ。


扉が二度、控えめに叩かれた。

音は小さいが、部屋の温度が一段下がる。


黒衣が二名、もう一人は灰の外套。

襟に細い銀線で“律”の文字。

名乗らない。名札もない。


先頭が一歩出る。

顔の影は薄い。声は平板だ。


「監査部。——入室、許可願います」


ライゼルが短く頷く。

それだけで通る。


三人は音を立てずに入った。

足音は石の上で消え、空気だけが締まる。


「立会人、確認」

先頭が視線だけで卓を一巡させる。

「ギルド側——3名。

 商会側——当主、カイル・ローゼン。……一致」


カイルは立って頭を下げる。

潔い角度。言葉は短い。

「協力は全面的に。記録の閲覧、移管、承認——同意します」


「協力意思、確認。」


灰の外套が布袋を開ける。

封緘札、赤い紐、鉛の錘。

無音で机上の証拠束が封じられていく。


封緘札が置かれるたび、張りつめた気配が机を越え、廊下にまで染み出していく。

見えないはずの“規律”が、部屋を越えて広がっていくようだった。


「——提出資料、受領」

メルシェが端末で受け、記録をつける。

「受領、記録」


「——照合、完了」

「照合完了、記録」


「——押印重ねの痕、認定」

「認定、記録」


「——端末ログの無断使用、確定」

「確定、記録」


「——筆跡混入、同一人物と合致」

「合致、記録」


「——帳簿の不整合、存在」

「存在、記録」


ジークが横目でメルシェを見る。

メルシェは頷かない。頷く必要がない。

ただ淡々と打鍵を続け、その横顔は氷のように静かだった。


黒衣の視線がカイルを一度だけ掠める。

「——協力意思、確認済」

「はい」

カイルは短く応じる。

礼も、言い訳も、足さない。


黒衣は続きを淡々と積む。

封筒を滑らせる袖口がわずかに揺れただけで、会議室の空気がさらに冷えた。


「——内部への聞き取り、通告済」

「——関係部署、立入予定」

「——資料の保存命令、発出」


メルシェが間髪入れず追従する。

「通告、記録」「立入予定、記録」「保存命令、送信」


端末の光が規則正しく点滅し、音は最小限。

会議室の空気だけが、確実に冷える。


ジークが椅子を少し引く。足音は出さない。

「……人間味、どこに置いてきたんだ」

黒衣は応じない。

沈黙のまま次の封筒が卓を滑る。


「——虚偽提出は“偽装”へ分類」

「分類、記録」


「——臨時印“R”の使用権、停止」

「停止、記録」


「——端末“S-7”、一時封鎖」

「封鎖、記録」


カイルがわずかに顎を引く。

「異議はありません」

黒衣は頷かない。

紙を一枚、裏返すだけ。


「——現場確認は本日中。同行は不要」

ライゼルが短くだけ言う。

「案内は用意できる」

黒衣は視線を上げない。

「——不要」

それで終わる。


ジークが片眉を上げた。

「問答無用ってやつか」

「——手順です」

初めて、黒衣の一人がこちらを見た。

瞳は淡色。温度がない。

それでも、嘘ではないと分かる目だった。


ジークが小さく口を開く。

「確認だけだ。商会の営業は止めないでいいんだな?」


「営業は継続。——ただし、我々が現場に入った際にはこちらを優先。」


カイルが立ち上がる。

外套の裾を整え、深く頭を下げる。

「以後の出入り、妨げません」


黒衣は紙を一枚、滑らせただけだった。

「——協力意思、再確認」


カイルが問いかける。

「質問、二点。——監査の間、商会側の内部調査は制限対象ですか?」


「制限。接触ログ、提出義務。」


「関係者聴取の同席は?」

「不可。必要時のみ、呼出。」


冷たい水が落ちたような声。波紋は生まれない。


ジークが目を細める。

「……人間味ゼロだな。信頼度は満タンだがな。」


メルシェが端末から目を上げ、一瞬だけ視線を監査員へ向ける。

灰の外套は反応しない。


メルシェが口を開く。

「監査移管書、最終承認。——送ります」

送信音は、ほとんど聞こえない。

だが、空気が切り替わる。


黒衣が封筒を閉じる。

「——監査部、掌握」


会議室の温度が確定した。


ジークが喉の奥で笑う。

「始まっちまったな」

ライゼルは視線を落とす。

「ここからは、彼らの領分だ」


メルシェが端末を閉じる。

軽い音。

それが合図になったように、黒衣は同時に向き直る。

入ってきた時と同じ速度、同じ歩幅。

扉の蝶番がまた、音を立てない。


残るのは、空の椅子と、冷たい封筒。

窓の外の光だけが柔らかい。


ジークが息を吐く。

「……怖ぇ連中だ。」

「恐れるのは、規律ではなく逸脱です」

メルシェの声は静かだ。

「——逸脱を、止める仕組み」


カイルがその言葉に小さく頷く。

「任せます」

それだけ言って、身を引いた。

潔さは、盾にもなる。


ライゼルが扉の方へ視線を送る。

もう誰もいない。

「通達は行き渡った」

メルシェが短く答える。

「受領印、全件確認。……反応待ち」


窓の外では陽光が揺れていた。街のざわめきは変わらない。だが見えない波は、静かに底を広げていた


沈黙。

机上の蝋片が、光に淡く透ける。

それは、もう証拠ではなく、過程の欠片になった。


ジークが立ち上がる。

「外、見てくる。列が伸びる時間だ」

ライゼルも頷く。

「俺は通路を整える」

二人が扉へ向かう。


カイルが最後に一礼し、静かに続いた。

メルシェは一瞬だけ視線を落とし、端末に短い文を打つ。

『監査開始・通告済/関連記録・凍結/窓口周知・最小限』


指先が止まる。

深呼吸。

「——再開します」

独り言のように、しかし会議室全体に届く声で。


外の鐘が遠くで一度鳴った。

旗布が風に擦れ、微かな音だけが残る。

日常は動き出す。

その下で、別の歯車が、音もなく噛み合った。



鐘の余韻が消えるころ、受付前は冒険者たちで賑わっていた。

革袋の音、紙をめくる気配、ざわめき——日常は何事もなかったように戻っている。


だが先ほどの光景は、多くが目撃していた。

黒衣の一団が石床を無音で進み、通路の人々が反射的に道を空けたことを。

誰も理由は知らない。ただ「怖い」とだけ、空気に刻まれていた。


そんな中、ジークとライゼルが奥から姿を現した瞬間——


「——あっ!! ジーク!」

アメリアが目ざとく見つけて、駆け寄ってくる。

「さっきの黒い人たち何!? 無音でスーッて歩いて、超怖かったんだけど!? あれ夢に出るやつだよ!」


ジークは片手を振って制す。

「監査の人間だ。……だが詳細は言えねぇ」


ライゼルが淡々と補足する。

「心配はいらない。必要な場面だけだ」


「えぇーっ! 絶対気になるやつ! だって影みたいだったんだよ!? 心臓バクバクなんだけど!」

アメリアが大げさに胸を押さえると、列に並んでいた冒険者たちがくすくす笑った。


「夢にまで持ち込むな」ジークは肩をすくめた。

「……怖いなら、早めに寝ろ」


「すぐに寝ちゃったら余計に見るじゃん!」アメリアは抗議する。


そこへ、遅れてメルシェが姿を見せた。端末を閉じ、淡々とアメリアの前を横切る。


「ここは通路です」


「無視しないでっ!私トラウマ相談してるのに!?」

アメリアが叫ぶと、列の後方からまた笑いが起きる。


メルシェは立ち止まり、ちらりと視線を寄越した。

「“トラウマ”は長期的な後遺症に用いる言葉です。

 日常生活では、“驚いた”と表現するのが妥当かと思います」


「……真面目か!」

アメリアががっくりと肩を落とすと、冒険者たちの間に失笑が広がった。


ジークがそこで、わざとらしく腕を組み直す。

「ま、軽く体を動かせば睡眠も深くなるだろ。……ギルドの階段でも登ってこい。夢なんて見なくて済むぞ」


「はあ!? そんな理屈ある!? ていうかギルドの大階段、絶対100段あるでしょ!?

 今日3回登ったら足終わったんだけど! 誰か数えた!?」


「98段です」

間髪入れず、メルシェが答える。呼吸も挟まず、当たり前のように。


アメリアは口をぱくぱくさせる。

「……え? 本当に数えたの!?」


ジークは頭を抱えて笑いを堪える。

「お前、真面目に数えてどうすんだよ……!」


「正確さは必要です」メルシェは涼しい顔で言い切った。

「先日、通過時に記録しました」


「なんでそんなとこまでデータ化してんの!?」アメリアが両手を振り上げると、窓口の列から笑いがこぼれる。


ライゼルが淡々と補足した。低い声に、場のざわめきが自然と収まっていく。

「……98段。間違いない」


「二人して真顔で即答!? やめてよ!」

アメリアの悲鳴混じりの声に、場はすっかり和んでいった。


後ろから「俺もこの間数えたぞ!」と声が上がり、笑いがまた広がる。


「なんでみんな数えてんの!? 私だけバカみたいじゃん!」

アメリアの叫びで、場の笑いはさらに弾けた。


ジークは肩を震わせて笑いを噛み殺しながら、書類を片手に戻っていく。

「ほら、窓口が詰まる。雑談はそこで打ち切りだ」


「えぇ〜! 絶対今日帰りに数えてやるからな!」

アメリアの声が背に飛んでくる。


メルシェは端末を開き直し、淡々と呼びかけた。

「次の方、どうぞ」


彼女の横顔はいつも通り整然としていた。

けれど“98段を数えた”という一点が、妙に印象を残していた。


冒険者たちの笑いはまだ尾を引き、受付前には軽い熱気が漂っていた。


重さは姿を消した。だが、見えない歯車は確かに回り始めている。

誰も気づかぬまま、その音は街の底に染みていった。

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