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2. 窓口の初日

「……本日付で配属になりました。メルシェ・フィリーネです。必要書類をお持ちしました」


よく通る静かな声。


列の空気が一拍だけ止まる。

カンナは口を開けたまま固まり、ベテラン冒険者は背筋を伸ばし、治安隊員が咳払いをした。


レイチェルは目の端だけでカンナを見やり、小さく苦笑して受領印を落とす。

「受領。配属は特務係。最初の三日は窓口・裏方・現場のローテ。——カンナ、案内を」


「は、はいっ! メ、メルシェさん、こちらへ!」

慌てて立ち上がったカンナの声は裏返った。


その声につられて商人が振り向く。メルシェを目にした途端、思わず背筋を正す。

若い冒険者は半歩前へ出かけて、慌てて足を戻した。

後方の治安隊員は唐突に咳払いをして誤魔化す。


メルシェは軽く会釈し、カウンター脇を一定の歩幅で抜けた。最短の導線をなぞるように。



最初の客は大きな背嚢の行商人。寝不足の目で紙束を差し出し、彼女を見た瞬間、言葉が途切れる。


「えっと……この依頼票、期日を一日延ばしたいんだが」


視線が彼女の顔に揺れ、慌てて書類へ落ちる。耳まで赤い。


「確認しました。依頼主印はそのまま。期日は三日後に。こちらが控え。差し替えは奥で回します。——次の方どうぞ」


列がすぐに流れた。後ろから「え、早い」の声。肩が自然に整列していく。


二人目は治安隊員。無精髭に隈、書類を投げ出しかけて正面で手が止まる。


「巡回報告……控えは、そっちで……」


「受領。経路と時刻は一致。異常なしで記録。ご苦労さまです」


抑揚を作らないリズム。隊員は短く礼を言い、足取りを軽くして去った。


三人目は浅黒い冒険者。古傷を見せて、いきなり吠える。

「報酬が安すぎだ! 危険度の割に子どもの小遣いだろ!」


空気が震え、後列が一歩退く。舌打ちも混じった。

男の目が彼女の顔に触れた瞬間、息が詰まる。


「危険度再査定は受理します。ただし完了までは既定額。申請はこちら。三か所署名。所要三分」


淡々と切り返す。押し返さず、下手にも出ない。必要最小限の圧だけ。

荒くれの眉が揺れ、仲間が背中を叩く。「なにビビってんだ」

くすくす笑いが走り、列は戻る。


——騒ぎから静けさへ。

その落差が、彼女を際立たせた。



「番号札七番の方、こちらへ」


古い礼装の従者が進む。視線は高く、息を止めてすぐに咳払い。


「領の納入証。記録の更新を——」


「納入量、搬入路、車列台数、記録済みです。印はこちら。……筆記具をお使いください。——どうぞ」


筆記具の太さを相手に合わせて変える。

従者は一瞥し、筆圧を強めた。


背後で老婆がぽつり。「彫像みたいだね」

ざわめきが小さく広がる。


次は薬屋の娘。瓶が小刻みに鳴る。

「試薬の搬入許可、もう一件追加で……ご、ごめんなさい」


見入って遅れた舌。


「成分表はお持ちですか。——はい。毒性等級は二。保管庫は冷暗。鍵の管理者名をこちらに。……申請は通ります」


娘は胸に手を当てて安堵。頬が色づいた。

カンナが囁く。「今の、不備、見て気づいたんですか?」


「書式の端が擦り切れてた。過去票の写しをそのまま。——対応は適切」


レイチェルの声は低い。評価は事実だけ。



列の後ろでざわめき。遠慮の押し合いではない。

視線が一瞬止まり、呼吸が揃う。

華やかさに引かれ、直後に実務で帳消しにされる。


一定の間隔で同じ収束。混乱は起きない。群衆は彼女のリズムに合わせて動く。


「落とし物の届出、こちらです」

「依頼取消は本人確認が必要。身元票をご提示ください」

「控えはこの色の紙。色で区別できます」

「急ぎ便は左の窓口。連携しますので印だけこちらで」


声は一定。余計な飾りはない。

客の目は「顔」から「手元」へ。ペンの角度、紙の重ね方、番号札の置き位置。

視線の導線まで整って見える。


最初は見惚れ、次に効率に呑まれる。帰り際は「やりやすかった」。

その繰り返しが列を支配した。



「すみません、通ります——」


短剣の鞘を斜め掛けした少年が駆け込む。息が上がっていた。


「落し物の報告! 路地で拾った指輪、依頼者の印章が——」


メルシェは頷き、用紙を三枚。

「拾得物。刻印の写し。返還同意。三件同時に処理します。署名はここ。刻印は私が写します。……手はここに。動かさないで」


「お、おう」


耳が赤い。緊張か、それ以外か。

刻印を写し、別窓口へ合図。ベルが一度。照合台帳が滑る。


「一致。返還先はこの住所。あなたの手柄として記録します。ありがとう」


少年の顔が明るくなり、走り去る。結び目が揺れた。


「手柄、残すんですね」とカンナ。

「ルールですから」と即答。声色は変わらない。



昼前。荷車が二台。空気が押される。


肉屋の親方が顎で紙束を示す。

「振り分け書を、ええと……」


正面を見て言葉が止まる。強面が素に戻る。


「三番棚の冷蔵庫分と街道沿いの屋台分で分けます。重量はここ、配分はこの欄。印は最後に。列の後ろで書いてください。呼び出します」


「お、おう……」

ぶっきらぼうでも、指は言われた通りに動く。


もう一方は香辛料商。強い匂いをまとい、視線を泳がせる。


「裏書きの相手方、ここに。舶来品は別票。——こちら」

「あ、ああ、こ、これか」

「瓶の口は布か紙で封を。蝋は不可。香りが移ります」

「おお……」


肩が落ち、筆が安定する。周囲にも伝わった。



「すみません……」


微細な欠けの魔道具。若い職人の手が震える。

認識の瞬間に、指が一拍遅れた。


「修繕申請です。刻印は裏。付与は照明で……」


「魔道具は破片の保全が重要。欠片は袋へ。——はい。術式番号はここ。損傷部位は図のここに印。緊急度は低でよろしいですか」


「え、あ、はい。……あの、目を合わせてくれないんですね」


「書き間違いを防ぐため、手元を見ています」


淡々。視線は常に手元。

職人は笑って頷き、肩の力を抜いた。



列の端で老人が小銭袋を逆さにする。端数が合わない。


カンナが出る前に、メルシェが一歩進む。


「お預かりします。——合計は一二七ルー。端数は……」


指先が寸分だけ止まる。

端数に弱い“ズレ”が刃の欠けのように光った。

すぐに計算札を取り出し補助。


「不足は三ルー。——この紙を持って左の両替窓口へ。戻られたら先頭にご案内します」


老人は何度も頭を下げる。


「暗算で気づいたんですか!?」とカンナ。

レイチェルが小さく頷く。


(弱点を見せても、補助線で即収束——)



昼。鐘が一度。短い休憩。


カンナが水差しを運ぶ。声を落とす。

「メルシェさん、すごいです。みんな最初は“わっ”ってなるのに、すぐ“仕事の人”の顔に戻る。初めて見ました」


「お世辞は不要です」

「お世辞じゃなくて……」


カンナは縁を撫でる。

メルシェはグラスを口に運び、視線は帳面。

レイチェルは黙っている。


“見惚れ→収束”の反復。列は乱れない。今日の窓口は良いテンポで回っていた。



午後。風に雨の気配。扉の明るさが揺れる。


「達成報告の受け取りは——」

「印はこちら。傷薬は無料分の請求が可能。票に記載を」

「荷受けを早められるか?」

「現場と連絡。——夕刻一刻前なら可。番号札は保持を」

「紹介状、読み方が……」

「私が読みます。必要箇所に線を引いて返します」


用件は切れない。

それでも声は一定で、動きは端的。


最初の驚きはもう遠い。

彼女の周りだけに、淡いレールが敷かれているかのように流れが安定していた。



夕刻前。少年使いが駆け込む。

「緊急連絡! 南門で荷馬が横転、通行止め、振替の指示を——」


ホールがざわつく。目が合う音。


カンナが立ちかけた瞬間、メルシェは手を止めず声の向きを広げただけ。

「南門は通行止め。振替は西門。——続きは伝令を」


静かな声が広がり、ざわめきを切った。

別の受付が「列を詰めないように!」。伝令係が走る。


混乱は小さく収束し、窓口は途切れない。


メルシェは次の票へ視線を落とす。

声を張らず、命令せず。必要な情報だけを必要な幅で。


「……本当に、レベルが違う」とカンナ。


レイチェルは印を押しながら横目で観る。

(対等主義。地位で態度を変えない。手が止まらない)

ここで働く者が最も信じる資質だ。



依頼票が次々と差し出される。

指は無駄なく、視線は要点だけをなぞる。

必要な情報を一瞥で抜き、確認は端的。


「内容を確認しました。受付番号はこちらです。——次の方どうぞ」


淀みはない。

まるで何年もここに立っていたかのように自然。


だが群衆の反応は自然ではなかった。

顔に引き寄せられる。気づけば態度が緩む。

言葉がつかえる。視線を逸らす。ざわめき、ため息、未遂の呼びかけ。

別列の若い冒険者が背伸びをして覗き込み、肘で小突かれる。


美貌が生む小さな乱れ。

それを無視するかのように動作は一定。


端的で正確な応対に呑まれ、列は滞らない。

華やかさを掻き消す効率。

揺れても最後は「やりやすかった」だけが残る。



終業の鐘が近い。最後の一団が抜け、空気が軽くなる。


「初日でこれ、明日からどうなっちゃうんでしょう」とカンナ。

「同じでしょう」とメルシェ。余韻は作らない。


レイチェルは看板を返し、帳面を閉じる。

「本日の窓口、滞りなし。誤記ゼロ。対応時間は平均より短い。——以上」


淡々とした総括。その下にある評価を、カンナだけが拾った。


立ち位置は朝と同じ。空気は朝と違う。

“見惚れ”は“やりやすかった”に置き換わり、雑音は仕事の速度に馴染んだ。


夕色が廊下に差し込み、遠くで笑い声。短い礼の声。

カウンターの木目は変わらない。


目に見えない導線が、一本増えていた。


メルシェは端末を定位置に戻し、最後の書類を揃えて一礼。

最初の一歩と同じ動き。


仕事を終える人の呼吸だけがある。


——窓口の一日は静かに閉じ、明日へ備える。

この日の出来事は、今夜、掲示板の小さな噂になる。

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