2. 窓口の初日
「……本日付で配属になりました。メルシェ・フィリーネです。必要書類をお持ちしました」
よく通る静かな声。
列の空気が一拍だけ止まる。
カンナは口を開けたまま固まり、ベテラン冒険者は背筋を伸ばし、治安隊員が咳払いをした。
レイチェルは目の端だけでカンナを見やり、小さく苦笑して受領印を落とす。
「受領。配属は特務係。最初の三日は窓口・裏方・現場のローテ。——カンナ、案内を」
「は、はいっ! メ、メルシェさん、こちらへ!」
慌てて立ち上がったカンナの声は裏返った。
その声につられて商人が振り向く。メルシェを目にした途端、思わず背筋を正す。
若い冒険者は半歩前へ出かけて、慌てて足を戻した。
後方の治安隊員は唐突に咳払いをして誤魔化す。
メルシェは軽く会釈し、カウンター脇を一定の歩幅で抜けた。最短の導線をなぞるように。
*
最初の客は大きな背嚢の行商人。寝不足の目で紙束を差し出し、彼女を見た瞬間、言葉が途切れる。
「えっと……この依頼票、期日を一日延ばしたいんだが」
視線が彼女の顔に揺れ、慌てて書類へ落ちる。耳まで赤い。
「確認しました。依頼主印はそのまま。期日は三日後に。こちらが控え。差し替えは奥で回します。——次の方どうぞ」
列がすぐに流れた。後ろから「え、早い」の声。肩が自然に整列していく。
二人目は治安隊員。無精髭に隈、書類を投げ出しかけて正面で手が止まる。
「巡回報告……控えは、そっちで……」
「受領。経路と時刻は一致。異常なしで記録。ご苦労さまです」
抑揚を作らないリズム。隊員は短く礼を言い、足取りを軽くして去った。
三人目は浅黒い冒険者。古傷を見せて、いきなり吠える。
「報酬が安すぎだ! 危険度の割に子どもの小遣いだろ!」
空気が震え、後列が一歩退く。舌打ちも混じった。
男の目が彼女の顔に触れた瞬間、息が詰まる。
「危険度再査定は受理します。ただし完了までは既定額。申請はこちら。三か所署名。所要三分」
淡々と切り返す。押し返さず、下手にも出ない。必要最小限の圧だけ。
荒くれの眉が揺れ、仲間が背中を叩く。「なにビビってんだ」
くすくす笑いが走り、列は戻る。
——騒ぎから静けさへ。
その落差が、彼女を際立たせた。
*
「番号札七番の方、こちらへ」
古い礼装の従者が進む。視線は高く、息を止めてすぐに咳払い。
「領の納入証。記録の更新を——」
「納入量、搬入路、車列台数、記録済みです。印はこちら。……筆記具をお使いください。——どうぞ」
筆記具の太さを相手に合わせて変える。
従者は一瞥し、筆圧を強めた。
背後で老婆がぽつり。「彫像みたいだね」
ざわめきが小さく広がる。
次は薬屋の娘。瓶が小刻みに鳴る。
「試薬の搬入許可、もう一件追加で……ご、ごめんなさい」
見入って遅れた舌。
「成分表はお持ちですか。——はい。毒性等級は二。保管庫は冷暗。鍵の管理者名をこちらに。……申請は通ります」
娘は胸に手を当てて安堵。頬が色づいた。
カンナが囁く。「今の、不備、見て気づいたんですか?」
「書式の端が擦り切れてた。過去票の写しをそのまま。——対応は適切」
レイチェルの声は低い。評価は事実だけ。
*
列の後ろでざわめき。遠慮の押し合いではない。
視線が一瞬止まり、呼吸が揃う。
華やかさに引かれ、直後に実務で帳消しにされる。
一定の間隔で同じ収束。混乱は起きない。群衆は彼女のリズムに合わせて動く。
「落とし物の届出、こちらです」
「依頼取消は本人確認が必要。身元票をご提示ください」
「控えはこの色の紙。色で区別できます」
「急ぎ便は左の窓口。連携しますので印だけこちらで」
声は一定。余計な飾りはない。
客の目は「顔」から「手元」へ。ペンの角度、紙の重ね方、番号札の置き位置。
視線の導線まで整って見える。
最初は見惚れ、次に効率に呑まれる。帰り際は「やりやすかった」。
その繰り返しが列を支配した。
*
「すみません、通ります——」
短剣の鞘を斜め掛けした少年が駆け込む。息が上がっていた。
「落し物の報告! 路地で拾った指輪、依頼者の印章が——」
メルシェは頷き、用紙を三枚。
「拾得物。刻印の写し。返還同意。三件同時に処理します。署名はここ。刻印は私が写します。……手はここに。動かさないで」
「お、おう」
耳が赤い。緊張か、それ以外か。
刻印を写し、別窓口へ合図。ベルが一度。照合台帳が滑る。
「一致。返還先はこの住所。あなたの手柄として記録します。ありがとう」
少年の顔が明るくなり、走り去る。結び目が揺れた。
「手柄、残すんですね」とカンナ。
「ルールですから」と即答。声色は変わらない。
*
昼前。荷車が二台。空気が押される。
肉屋の親方が顎で紙束を示す。
「振り分け書を、ええと……」
正面を見て言葉が止まる。強面が素に戻る。
「三番棚の冷蔵庫分と街道沿いの屋台分で分けます。重量はここ、配分はこの欄。印は最後に。列の後ろで書いてください。呼び出します」
「お、おう……」
ぶっきらぼうでも、指は言われた通りに動く。
もう一方は香辛料商。強い匂いをまとい、視線を泳がせる。
「裏書きの相手方、ここに。舶来品は別票。——こちら」
「あ、ああ、こ、これか」
「瓶の口は布か紙で封を。蝋は不可。香りが移ります」
「おお……」
肩が落ち、筆が安定する。周囲にも伝わった。
*
「すみません……」
微細な欠けの魔道具。若い職人の手が震える。
認識の瞬間に、指が一拍遅れた。
「修繕申請です。刻印は裏。付与は照明で……」
「魔道具は破片の保全が重要。欠片は袋へ。——はい。術式番号はここ。損傷部位は図のここに印。緊急度は低でよろしいですか」
「え、あ、はい。……あの、目を合わせてくれないんですね」
「書き間違いを防ぐため、手元を見ています」
淡々。視線は常に手元。
職人は笑って頷き、肩の力を抜いた。
*
列の端で老人が小銭袋を逆さにする。端数が合わない。
カンナが出る前に、メルシェが一歩進む。
「お預かりします。——合計は一二七ルー。端数は……」
指先が寸分だけ止まる。
端数に弱い“ズレ”が刃の欠けのように光った。
すぐに計算札を取り出し補助。
「不足は三ルー。——この紙を持って左の両替窓口へ。戻られたら先頭にご案内します」
老人は何度も頭を下げる。
「暗算で気づいたんですか!?」とカンナ。
レイチェルが小さく頷く。
(弱点を見せても、補助線で即収束——)
*
昼。鐘が一度。短い休憩。
カンナが水差しを運ぶ。声を落とす。
「メルシェさん、すごいです。みんな最初は“わっ”ってなるのに、すぐ“仕事の人”の顔に戻る。初めて見ました」
「お世辞は不要です」
「お世辞じゃなくて……」
カンナは縁を撫でる。
メルシェはグラスを口に運び、視線は帳面。
レイチェルは黙っている。
“見惚れ→収束”の反復。列は乱れない。今日の窓口は良いテンポで回っていた。
*
午後。風に雨の気配。扉の明るさが揺れる。
「達成報告の受け取りは——」
「印はこちら。傷薬は無料分の請求が可能。票に記載を」
「荷受けを早められるか?」
「現場と連絡。——夕刻一刻前なら可。番号札は保持を」
「紹介状、読み方が……」
「私が読みます。必要箇所に線を引いて返します」
用件は切れない。
それでも声は一定で、動きは端的。
最初の驚きはもう遠い。
彼女の周りだけに、淡いレールが敷かれているかのように流れが安定していた。
*
夕刻前。少年使いが駆け込む。
「緊急連絡! 南門で荷馬が横転、通行止め、振替の指示を——」
ホールがざわつく。目が合う音。
カンナが立ちかけた瞬間、メルシェは手を止めず声の向きを広げただけ。
「南門は通行止め。振替は西門。——続きは伝令を」
静かな声が広がり、ざわめきを切った。
別の受付が「列を詰めないように!」。伝令係が走る。
混乱は小さく収束し、窓口は途切れない。
メルシェは次の票へ視線を落とす。
声を張らず、命令せず。必要な情報だけを必要な幅で。
「……本当に、レベルが違う」とカンナ。
レイチェルは印を押しながら横目で観る。
(対等主義。地位で態度を変えない。手が止まらない)
ここで働く者が最も信じる資質だ。
*
依頼票が次々と差し出される。
指は無駄なく、視線は要点だけをなぞる。
必要な情報を一瞥で抜き、確認は端的。
「内容を確認しました。受付番号はこちらです。——次の方どうぞ」
淀みはない。
まるで何年もここに立っていたかのように自然。
だが群衆の反応は自然ではなかった。
顔に引き寄せられる。気づけば態度が緩む。
言葉がつかえる。視線を逸らす。ざわめき、ため息、未遂の呼びかけ。
別列の若い冒険者が背伸びをして覗き込み、肘で小突かれる。
美貌が生む小さな乱れ。
それを無視するかのように動作は一定。
端的で正確な応対に呑まれ、列は滞らない。
華やかさを掻き消す効率。
揺れても最後は「やりやすかった」だけが残る。
*
終業の鐘が近い。最後の一団が抜け、空気が軽くなる。
「初日でこれ、明日からどうなっちゃうんでしょう」とカンナ。
「同じでしょう」とメルシェ。余韻は作らない。
レイチェルは看板を返し、帳面を閉じる。
「本日の窓口、滞りなし。誤記ゼロ。対応時間は平均より短い。——以上」
淡々とした総括。その下にある評価を、カンナだけが拾った。
立ち位置は朝と同じ。空気は朝と違う。
“見惚れ”は“やりやすかった”に置き換わり、雑音は仕事の速度に馴染んだ。
夕色が廊下に差し込み、遠くで笑い声。短い礼の声。
カウンターの木目は変わらない。
目に見えない導線が、一本増えていた。
メルシェは端末を定位置に戻し、最後の書類を揃えて一礼。
最初の一歩と同じ動き。
仕事を終える人の呼吸だけがある。
——窓口の一日は静かに閉じ、明日へ備える。
この日の出来事は、今夜、掲示板の小さな噂になる。