19. 監査の幕開け
霜月九日、昼下がり。
窓口の列が一段落し、帳面を繰る音と、人いきれがゆるく波打っていた。
紙と革の匂い。
裏の扉が開き、ジークが姿を見せる。書類を片手に、視線をすばやく走らせる。
「——あっ! ジーク!」
アメリアがぱっと顔を上げ、駆け寄ってきた。
「なにしてるの? 私がそろそろ来る頃だと思って 私に会いに来たの?」
「自意識過剰だ。来客の予定だ」
ジークは眉をひそめ、肩をすくめる。
「えー、冷たい〜。……じゃあ来るまで質問タイム! “締切厳守”って同じ依頼票に三回も書いてあるの、なんで? そんなにみんな忘れるの? ていうか私なら一回は忘れる自信ある!」
「胸張って言うな。三回書いてんのは、三回忘れた奴らがいたからだ」
「えぇ〜! 三連敗ってこと!? じゃあ今度私が忘れたら“四回目”になるの? そんなのネタにされちゃうよ!」
アメリアは目をまん丸にして、両手で四本の指を突き出す。
「安心しろ。“薔薇色の四連敗”って名前が残るだけだ」
ジークが笑うと、後ろの新人たちがくすくす笑いをこぼす。
「やだやだ! 絶対忘れない! あっ、でも報告する時に緊張で噛んだらどうしよう……」
「噛むのは別件だろ」
アメリアは唇を尖らせる。
——そのとき、石床に規則正しい靴音が落ちた。
陽光を背に、黒衣の男がまっすぐ歩いてくる。背筋は伸び、歩調に寸分の乱れがない。
ジークの待っていた相手が現れた。
「……ローゼン商会の当主」
「貴族みたいだな、でも商人なんだろ」
囁きが列に広がり、足音が一拍遅れた。
アメリアが目を丸くする。
「“当主オーラ”ってほんとにあるんだ……」
「声に出すな。窓口で騒ぐな」
ジークがアメリアの肩を軽く押し戻し、腕を組み直す。
誰も咳払いをしないまま、列が静止した。
黒衣の男——カイルは一礼だけを置き、表情を崩さずジークの前に歩み寄る。
「約束の刻限です」
「奥を用意してる。——静かにやるぞ」
ジークは短く告げ、二人は扉の奥へ消えた。ざわめきが、境目で切り離される。
*
ギルド本館の会議室は、昼の喧噪から切り離された静けさに沈んでいた。
長机の上には端末水晶と数枚の書類。窓は半ばまで覆われ、差し込む光は淡い。
壁際の燭台は消えているのに、空気は張り詰めていた。
メルシェは机の正面、記録用の端末に向かって座っている。背筋は真っすぐ、指先は整然と並んだ紙片の上に軽く添えられていた。
彼女の視線は正面を外さない。静かに場を制御している気配だけが漂っている。
ライゼルは背後寄りに位置を取り、窓越しに外を一瞥してから視線を戻した。
光の差す角度を背に、整った立ち姿が影を落とす。
無言のまま机上を俯瞰し、その姿勢だけで場に均衡を保っていた。
扉の外に足音が二つ。
重い扉が静かに開き、ジークとカイルが並んで入室した。
ジークは机の反対側へ腰を下ろし、腕を組む。
カイルは灰青の外套を整え、深く一礼した。
「お時間をいただき、感謝します」
声は穏やかだが、張りがある。
場を和らげるような笑みは見せない。代わりに、眼差しにだけ揺るぎのなさを宿している。
メルシェは端末を開いたまま、淡々と告げる。
「——報告を」
ジークは口角を上げかけて、すぐに消した。
「さて、どんな“裏どり”を持ってきたかだな」
独り言のような呟きが、会議室の静をわずかに揺らした。
ライゼルは黙って席を譲るように一歩横に動き、カイルが机の端に資料を置けるようにした。
その仕草はあくまで自然。だが、視線は正面から外さない。
カイルは卓上に革表紙の帳簿を置き、指先を軽く揃えた。
「三日の猶予を頂きました。……本日、その成果をご報告に参りました」
カイルが卓上に薄紙を一枚、静かに差し出した。
「まずはこれを。十三日の調査で見つけた蝋の残りかす……その後、成分を精査しました」
光を受けた欠片は、ごく小さな黒ずみ。だが表面には、不自然な光沢の層が二重に走っている。
「…押印のやり直し痕と判定できます」
メルシェは端末に指を添え、即座に打ち込む。
「——意図的改竄の証跡」
ジークが肘を組み替え、鼻を鳴らす。
「偶然の垂れじゃねぇな。面倒隠そうって腹だ」
ライゼルが蝋片をひと瞥し、短く結んだ。
「この一点だけで、偶発ではないと断じられる」
カイルは頷き、次の紙束を広げた。
「二つ目。押印の上に補記された筆跡についてです」
紙面には走り書きがいくつか並ぶ。角度も筆圧も微妙に違っていた。
「同じ日の記録に、二種類の筆跡が混在していました。本来、担当者が交代した形跡はない。——つまり、一部が“別人の手”で記されたものです」
メルシェは即座に目を細める。
「筆圧が浅い。紐を右回しで結ぶ担当者の運筆とは考えにくいです」
「裏付けは取ってあります」
カイルはもう一枚、照合票を差し出す。南倉庫の副補助“セリン”が過去に残した署名と、補記の文字が並んでいる。
「払いの角度、曲線の戻し方。複数が一致。……さらに、当日は“休み扱い”となっていた。記録上は不在のはずの人間の筆跡が、ここにある」
ジークが鼻を鳴らした。
「へぇ。休みの日に勝手に筆が走ったか。……妙な偶然だな」
ライゼルは静かに補った。
「“虚偽の休暇”と“記録改竄”。二重の疑義が重なった」
視線が紙面に沈む。
カイルは小箱を開き、摩耗した印章と依頼票を並べた。
「三つ目。臨時印“R”の不審使用です」
紙に押された印影はどれも潰れて滲み、輪郭が揃わない。
「使用者は名簿に残るはずですが、当日の名簿には“登録外”が一名。さらに端末“S-7”も貸出記録がないまま使用されていました」
メルシェが無機質に告げる。
「印面の磨耗が異常です。通常二週間では縁に微かな丸みが出る程度ですが、これは角が欠けている」
「加えて」
カイルは端末の写しを掲げる。
「南倉庫の端末ログ。“S-7”が該当時刻に使用されていますが、その時間帯、貸出記録は空白のまま。——つまり無断使用」
ライゼルは視線を鋭くして結んだ。
「“臨時印の乱用”と“端末の不正使用”。組み合わされば、計画的な偽装以外に説明できない」
最後の資料を置き、カイルは声を低めた。
「四つ目。倉庫補助セリンに関する矛盾です」
「搬送を手伝っていたラドの証言。“内回しで紐を締めていた手”を見たと。……この“癖”は倉庫補助のセリンに特有のものです」
カイルはそこで一拍置き、書類をめくった。
「ただし、この時点では“偶然似ているだけ”とも取れました。」
一呼吸置き、カイルが続ける。
「同日、別部署の小口精算の帳簿に“昼に補助が一名、小銭を受け取った”と記録が残っていました。名前の記載はなく、通常なら見過ごすようなものです。ですが、経理担当に確認したところ“セリン本人だった”と証言が得られました」
さらに資料を重ねる。
「加えて、昼刻に詰所で“セリンを見た”という同僚の目撃も取れました。——帳簿では休み扱いの人物が、実際には現場にいた。この事実が確定しました」
カイルは書類を閉じた。
「休みであったはずの日に、彼は現場にいた。……帳簿と行動の矛盾が確定したのです」
ジークが腕を組んだまま低く笑った。
「記録上は休み、実際は現場。……隠してたってわけか。休み扱いの奴が、勝手に印を押し、貸されてもいない端末を叩いた。……どんどん真っ黒じゃねぇか」
カイルは深く息を吐いた。
「三日間の裏取りで、ここまで確定しました。
これは偶発ではありません。内部に協力者がいた可能性が排除できません」
ライゼルが視線を上げる。
「——意図的な偽装、と確定したのだな」
「はい」
カイルの声は澄んでいた。
ジークは椅子の背に深く身を預け、天井を仰いだ。
「……裏どりは十分だな。偶然の一言で逃げられる筋じゃねぇ」
その場に居合わせた誰もが、次の言葉を待った。
会議室に、数呼吸分の沈黙が落ちた。
窓の外から差す光が、帳面の角を淡く照らす。蝋の残滓と証言記録が積まれた束は、どれも重みを帯びて見えた。
「ここから先は、商会だけで裁定すべきではない」
カイルの声は低く、しかし曖昧さがない。
「ギルドの監査を仰ぎたい。街の信頼を守るためにも——外部の視点を必要とします」
机に積まれた紙の束に視線を落としたまま、ジークが鼻を鳴らす。
「隠蔽を疑わせないための処置ってわけか。……さすが大手商会の切れ者当主だな」
皮肉混じりの声音だったが、口端にはわずかな笑み。
「遠慮なくいかせてもらうぜ。商会のためにも、この街のためにもな」
カイルはそれを正面から受け、短く頷いた。
「承知しています」
ライゼルが、机上の証拠束を順に見やり、ゆっくりと息を吸う。
彼の声は低く、だが会議室を確かに引き締めた。
「証跡は確定し、商会側からも承認が出た。——監査部を動かし、そして責任の所在を明らかにする」
メルシェが即座に補足する。
「記録は整理済み。提出と同時に監査部へ移管可能です。……監査の進行中、商会側は関連部署への介入を控えてください」
「もちろんだ」
カイルはすぐさま応じ、肩を落とすこともなく背筋を正した。
「ここから先は、私が口を挟むべきではない。商会の名を守るためにも、透明性を優先する」
メルシェがカイルに視線を向け、短く結んだ。
「では——監査に移します」
ライゼルの声がその後に続いた。
「ギルドも全力で臨む」
重苦しい空気の中に、一つの結論が落ちた。
蝋の匂いが微かに残る。
鐘の余韻だけが窓の縁でほどけた。
重さは卓上に残したまま——ギルドは次の一歩へ。




