15. 塩と甘さの間で
霜月六日。
昨日の騒ぎを遠くに追いやったように、休憩室は湯気と紙の匂いに包まれていた。
ジークは背もたれに肘をかけ、ライゼルは椅子を半歩引いて壁を背に、メルシェは窓辺の光から半身を外す位置を選んで座っていた。
「午前は静かだな」
ジークが欠伸を飲み込み、湯のみを片手で回す。
「午後は動きます。……昨日の“整え直し”の連絡が、順次、窓口へ」
メルシェは淡々と答え、卓上の紙片を重ね直した。角がそろう音が小さく鳴る。
その時、窓の外を伝令の靴音が駆け抜ける。
一瞬だけ室内の湯気が揺れ、——街の緊張はまだ収まっていないことを知らせた。
*
扉が小さく二度ノックされる。
「失礼しまーす! ローゼン商会のティモさん、お連れしました!」
顔をのぞかせたカンナが、元気よく手を振る。
背後に、灰色ベストの青年——ティモ。
やや緊張の面持ちで抱えた木箱を胸に寄せている。
それは、彼にとって盾のようでもあった
「案内だけで失礼します! 書類の束が私を呼んでいるので!」
カンナはぴしっと敬礼して、風のように去っていった。
ジークが挨拶がわりに片手を上げると、ティモは小さく会釈し、木箱を卓の上へ。
「昨日は色々とありがとうございました。……それで、えっと、今日は会長からの差し入れをお届けに来ました。昨日は甘味を召し上がっていただいたので、今日はべつのタイプの物になります。」
蓋を外すと、薄紙に包まれた四角い薄焼きが幾枚も整然と重なっていた。表面には細かな穴、ところどころに豆の粒が顔を出し、乾いた香草と胡椒の匂いがふわりと立つ。
「別のタイプ?」
ジークの眉が、わずかに楽しげに跳ねる。
「干し肉と豆を練りこんだクラッカーです。塩味は疲労回復に良いですし、豆は腹持ちも良いだろうから、とのことでした。タカ豆は最近、この国に入ってきたばかりでして。粉にすると甘い香りが出るので、塩味でも“満足感”があるって、会長が」
ライゼルが軽く鼻先で香りを確かめる。
「初めての香りだ。見た目も良い」
一枚を取り、光に透かす。薄さは均一、縁の焼き色がわずかに濃い。
ジークも一枚つまむ。
「ほう……音がいいな」
続けて一口。
ザク、と乾いた小気味よい破砕音。頬の内側で砕ける生地に、干し肉の旨味が遅れて広がる。豆は粗挽きで、噛むと小さく砕けて香ばしい。
「……悪くない。いや、うまい。脂が重くないのが助かる」
ライゼルも一枚手に取り、丁寧に半分へ折ってから口に運ぶ。
「塩が浅い。後を引かないように、という意図ですね。胡椒の立ち方が少し遅れるぶん、香草が先に来る……長距離移動の途中で食べても喉が渇きにくそうだ」
穏やかな評価に、ティモの肩がわずかに下りる。
「……歯応えが“持ち歩きの安心感”になってる」
もう一枚を無意識に手に取ってから、ジークは口角を上げる。
「ただ、馬車揺れで食うには、もう半分薄くしてもいいかもな。あと、酒が欲しくなる」
「まだ業務中です」
メルシェが短く釘を刺したのち、彼女も一枚を手に取った。
指先で縁を撫で、表面のざらりを確かめる。
「塩は粗め。粒が残っているので、摂取タイミングが分かりやすい。……干し肉は細かく、豆は粗く。歯応えの差で、満腹感の持続を“錯覚”させる意図でしょう」
噛む。小さく一度、二度。
喉を通る瞬間、彼女の瞳がわずかに細くなった。
「油分は控えめ。指の汚れが少ないのは、現場での利点です」
ライゼルは黙ってメルシェの言葉を聞き、もう一枚を割る。彼は自分の湯のみを半分ほど傾け、隣に置いてあった水差しを彼女の側へ自然な所作で寄せた。
メルシェは一拍だけ視線を上げ、素直に湯のみを受けた。
「ありがとうございます」
「気に入っていただけたなら、良かったです」
ティモは胸をなで下ろし、準備してきた言葉を続ける。
「保存性や携帯性にも優れています。豆を普通のものに変えればコストも抑えられるので、任務の際に持って行くのにもお勧め、との事でした」
ジークがにやりと口角を上げた。
「抜け目ねぇな、あの人は。労い半分、商機半分って顔が目に浮かぶ」
「そ、そんな、顔までは……でも、はい。たぶん、その通りです」
困ったように笑うティモに、メルシェがもう一枚を静かに割ってやる。
「供給の安定が確保できるなら、ギルド売店での扱いも検討に値します。粉の比率と穴の配列を一定にできれば、焼成むらは減ります」
「穴の……配列……」
ティモは慌ててメモを取り、穴の数を数え始めた。隣でジークが肩を震わせる。
「豆を替えて単価を落としても、塩加減と薄さで“目的物”は維持できるだろう。……携行食の選択肢として、悪くない」
ライゼルの言葉にティモがほっと肩を落とした。
「それと、えっと……これは私から、です」
ティモが木箱の底から、別の包みをおそるおそる取り出した。
包みを開くと、親指ほどの小さな焼き菓子が並んでいた。形は不揃いだが、表面の割れ目から蜂蜜が薄く光り、刻んだ胡桃がところどころ顔を覗かせている。
「自作か?」
ジークの口元が、明らかに面白がっている。
「硬かったら、クラッカーの罪を割り勘にするからな」
「硬くは……ないはずです!」
ティモは顔を赤くして両手を差し出す。
「蜂蜜と、手に入ったばかりの“タカ豆粉”を少し。胡桃を刻んで、香り付けに――」
「説明は後でいい。食べた方が早い」
ジークが先に一つ摘み、噛んだ。さく、と軽い音のあと、蜂蜜の甘さが穏やかに広がる。
「……お、ちゃんとしてる。素朴で、俺は好きだ」
メルシェは迷いなく一つ取り、割面を見てから口へ。
瞬間、ほんのわずかに、表情が緩んだ。二呼吸の間だけ。
すぐに淡々と戻って、彼女は評価を置く。
「……水分を奪いすぎません。蜂蜜で保水している。胡桃は細かいので、歯に残らない。甘さは“後を引く”ではなく“消える”寄り。疲労時に向きます」
ライゼルは一呼吸置いてから、菓子を選んだ。
彼は何となく、メルシェが手を伸ばさなかった形のものを指で転がし、皿に残る砕けの少なさを確かめるようにしてから口へ運ぶ。
「香りが上手い。胡桃が先ではなく、蜂蜜の後ろから来る」
「やった……!」
ティモが分かりやすく顔を輝かせる。
「実は焼き物が好きで、時々、帳場のみんなに配ってるんですけど、プロの人たちに出すのは初めてで」
「プロの人って誰だよ」
ジークが笑う。
「まあ、“うまいかまずいか”は、現場の舌が一番厳しいぞ」
ライゼルは湯のみを半ばほど残し、視線を静かにメルシェにだけ流す。彼女が二つ目に手を伸ばすのを見て、わずかに目元を緩める。
「合うようだ」
メルシェは小さく頷いた。
「……糖分の補給は、体調変数を安定させます」
「相変わらずの言い方だ」
ジークが肩を揺らす。
「“うまい”でいいんだよ。“うまい”で」
メルシェは一瞬だけ考え、微かな間の後に言い直した。
「……うまい、です」
ジークは横目でライゼルを見やり、彼が小さく視線を逸らすのを確かめると、わざとらしくにやけて肩を揺らした。
その言葉に、ティモはほとんど反射のように背筋を伸ばした。
「で、伝言はまだあるか?」
ジークの言葉に、ティモはほとんど反射のように背筋を伸ばした。
「ええと……“気に入っていただけたら、量産体制の相談を。粉は市内の二軒に声をかけています。豆は等級を下げ、干し肉は部位を変えてコストを落とします。携帯箱はギルドの規格に合わせます”——だそうです」
「箱まで合わせる気とは、周到だな」
ジークが愉快そうに笑う。
「ギルドの棚にそのまま差せる寸法、ってことだ。ほんと、抜け目ねぇ」
「現場が助かるなら、こちらも利があります」
ライゼルはさらりと受け、ティモに視線を戻す。
「味は現場での反応がすべてだ。——今日の三人の感想を持ち帰って、次に繋げるといい」
「はい。ありがとうございます」
ティモは姿勢を正し、深く頭を下げた。緊張の膜が一枚剥がれたのか、笑みが年相応に明るい。
「それと」
メルシェが自分の空いた皿を示す。
「この甘味は、業務外の“励まし”として適切です。……ありがとうございました」
「——!」
言葉をもらったティモの耳が、はっきり赤くなる。
ジークが肘で軽くつつく。
「よかったな。これで“趣味”も堂々と続けられる」
「は、はい! ただ、焼きはまだ勉強が必要で……」
「必要なのは、型紙と焼き時間の統一。あと、冷ます前に並べ方を揃える」
メルシェが淡々と指折る。
「それで七割、改善します」
「七割って即答がすげぇんだよなぁ」
ジークが肩を揺らし、休憩室の空気はすっかり柔らいだ。
窓の外では、鈍い風が旗布の影を床に泳がせている。
「では、そろそろ戻ります。伝言は以上で——あ、最後に」
ティモが思い出したように付け加える。
「“これが評判なら、いずれは窓口横に『任務携帯食・本日の品』を置かせてください”って。……『売店の方と競合しない価格に調整します』とも」
「本気で棚を取りに来てるな。……よし、窓口とは相談しておく」
ジークが笑い、ライゼルは「価格帯が喧嘩しなければ、悪くない」とうなずいた。
メルシェは短くまとめる。
「任務前の栄養選択の幅が広がります」
ティモは何度も頭を下げ、木箱と空き袋を丁寧にまとめる。
「本当に、ありがとうございました。——あ、メルシェさん、その……甘味、また、作ってきてもいいですか」
「業務に支障がない範囲なら、いつでも」
一拍の間。
「……推奨します」
「はいっ!」
箱を抱える手が小さく震え、包み紙の端が卓に滑り落ちた。
慌てて拾い上げる指先が赤くなり、耳まで熱を帯びたまま廊下へと駆け出していく。
扉が閉じる寸前、廊下の奥から誰かの声が響いた。聞き取れぬ短い呼びかけ。
ティモが反射的に振り返りかけるが、次の瞬間には足音が遠ざかっていった。
*
「いい子だな。まっすぐで」
ジークが言えば、ライゼルが穏やかに応じる。
「現場は、ああいう真面目さに救われる」
ジークが大袈裟に伸びをして、椅子の背に腕を引っかけた。
「しかし、甘いのも塩っけも補給できて、しかも商会は売り場を狙ってる。……やっぱり世の中、腹が減ってるほうが回りがいいな」
「空腹は判断を鈍らせます。……満たされた上での合意は、長持ちします」
メルシェの返答に、二人の口元が同時に笑いの形になる。
その笑いの余韻の裏で、窓外を過ぎた兵士二人の足取りが急いでいた。
小さなざわめきが、この後の動きを予告しているかのように。
卓上には、塩の香りと蜂蜜の余韻。
休憩の時計は、まだ余白を残している。
束の間のやりとりに過ぎないのに、妙に心に残る余韻となった




