『小さな世界~今日もまた、事務所は平常運転~』
『小さな世界~今日もまた、事務所は平常運転~』
イノベーション大作戦
ここは静岡市の外れにある、ちょっと古びた三階建ての雑居ビル。看板には立派に「株式会社まるまる事業開発」と掲げてあるけれど、その実態は――管理職三人に職員六人、あとは私ひとりの事務員という、寄り合い所帯である。
私は奈緒子、事務員歴二十余年。タイムカードを押す音と一緒に始まる毎日。紙とパソコンを相手に、静かに戦うのが仕事……のはずなのだけれど。
実のところ、私の一番の関心事は「この事業所の人間模様」である。
いや、好奇心だけが理由じゃない。観察していないと、やっていられないのだ。
ここには働き方改革も、DXも、すべて"概念"のまま埃をかぶっている。FAXは現役、決裁は紙、会議は長く、結論はぼんやり。
だけど、それが悪いとも言い切れない。
こういう場所だからこそ、人の“にじみ”が見える。
効率や成果では測れない、「不器用なやりとり」や「心の隙間」が、机と机の間に漂っている。
まるで社会の縮図を、小さな瓶に詰めたような世界。
今日も、私の机の引き出しにそっと忍ばせたメモ帳に、ひとつ物語を刻むとしよう――
ちょっと笑えて、ちょっと切ない、そんな日々の断片を
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朝九時。静岡市の片隅にある「株式会社まるまる事業開発」に、いつものように職員たちが三々五々と出社してくる。
「おはようございます〜」
颯爽と現れたのは**水沢理沙(33歳)**。シングルマザーの令和型サバイバル女子である。時刻は九時四十三分。保育園の送迎を理由にした遅刻は、もはや芸術の域に達している。「え、私ですか?ちょっと保育園に…」で華麗に早退を決める技術は神の域だ。
「あ、水沢さん、おはよう」
振り返ったのは**中田克巳主任(38歳)**。小太りの承認欲求モンスターである。「やっぱ俺ってさ、頼りにされると燃えるタイプなんだよね」と自己申告するが、誰も頼りにしていない。気分の浮き沈みが激しく、落ち込むと机に突っ伏す癖がある。
理沙は華麗にスルー。まるで透明人間を見るかのような無視っぷりに、中田の肩がガクッと落ちる。
「俺って、やっぱり存在感ないのかな…」
机に伏せる中田を横目に、私・奈緒子は今日も観察記録を開始した。
春。窓を開けると、隣の空き地に咲いた菜の花が、風に揺れていた。
そう、季節は春――けれど、事業所の中では違う花が咲く。コピー用紙の上に、怒りの赤ペンが咲いたのだ。
朝のことだった。新入りの職員・稲葉圭太くんが提出した報告書を見た中田克巳主任が、目を丸くして言った。
「これ、読んだ人に何が言いたいのか伝わらんよ。まず“目的”がない。主語と述語も合ってないし、文末が“です・ます”と“だ・である”混在してる。これじゃ、読む人の頭の中がぐっちゃぐちゃだよ、圭太くん!」
主任の声は静岡平野に響き渡る雷鳴のごとく、事務室の空気を震わせた。
圭太くんは、目を泳がせ、視線の置き場に困っている。斜め後ろでは姉の真帆さんが、眉間にしわを寄せて無言の圧力を放っている。
職場は静かなる戦場である。
私はコーヒーをひとくち含みながら、ふと思う。
――これで三日連続だ。誰かが、報告書で叱られている。もはや、春の風物詩だろうか。
そして、怒りの赤ペンが咲いた紙たちは、今日もまた、コピー室のゴミ箱にひっそりと散っていく。
午後。赤ペンで修正された報告書を何度も見返す圭太くんが、ぽつりと私に尋ねてきた。
「奈緒子さん、仕事って……何が正解なんですか?」
私は彼の手元にある紙束を見て、少しだけ笑う。
「正解なんてないわよ。ただ、“読む人がどう感じるか”だけ。それがすべて。あなたが書いた文章は、中田さんには伝わらなかった。でもね、それでいいの。失敗の分だけ、上手になるものよ。」
圭太くんはしばらく黙って、うなずいた。
――菜の花は、踏まれてもまた咲く。
コピー用紙の上でも、人は何度でもやり直せる。
今日のメモ帳には、こう記しておこう。
『報告書の正解なんてない。だけど、心はきっと、文末ににじむ。』
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事件1:西村副場長のデジタル革命
「皆さん、ちょっと集まってください!」
手をパンパンと叩いて招集をかけたのは**西村昇平副場長(60歳)**。関西出身の自信満々おじさんで、「ウチかて、イノベーション起こしたいんや!」と言いながら、書類をラミネート加工して役所に持ち込む天然ぶりが持ち味。園田場長のイスを狙って日々圧をかけ続けているが、空回りが基本スタイルだ。
「今日はですな、大事な発表があります。ウチもついに、デジタル化を推進するんや!」
「デジタル化?」
眉をひそめたのは**佐伯トミ(71歳)**。元県庁職40年の大ベテランで、「前例は?」「手続きは?」が合言葉。「あたし、来年はやめるから」を3年間言い続けている"やめるやめる詐欺"の達人である。
「それ、稟議通ってるの?」
「稟議? いや、まあ、これからですけど…」
「じゃあダメよ。手続きが先」
トミの即答に、西村の顔が一瞬引きつる。
「ま、ここはひとつ…ね?」
仲裁に入ったのは**園田英一場長(61歳)**。職場のセピア色フィルターで、「ま、ここはひとつ…ね?」が口癖だが、結局何も決めない優しさの権化。トラブルが起きても「一度落ち着こう」とだけ言って、あとは皆の顔色を見ながら風向きを探る職人だ。
「で、何をデジタル化するんですか?」
無表情で尋ねたのは**稲葉真帆(26歳)**。中田の紹介で入社した"幻の即戦力"。「え、私に関係ありますか、それ?」で全てを切り捨てる無表情の女王である。本部の期待と現場の現実のギャップを体現する存在だ。
「それや! まずは書類の電子化から始めるんや。そして、全部ラミネート加工してからスキャンして…」
「それ、意味なくないですか?」
真帆の一言で、会議室に沈黙が流れる。西村の額に汗がにじむ。
「え、私に関係ありますか、それ?」
追い打ちをかける真帆の無慈悲な発言に、西村は完全にフリーズした。
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事件2:篠崎参事の植物王国
昼休み。
篠崎参事の書類要塞の奥で、観葉植物に向かって、ひとり静かに語りかける声が聞こえた。**篠崎和彦参事(58歳)**である。
机の上の書類の山は今日もさらに成長しており、新たに到着した書類が既存の山脈に加わって、もはや地層のような様相を呈している。山の間から顔を覗かせる観葉植物だけが、この紙の世界で呼吸をしているように見える。
「君たちは良いなあ。人間関係というものがなくて」
書類の隙間から篠崎の声が響く。まるで洞窟の奥から聞こえる声のようだ。
その様子を見た**稲葉圭太(22歳)**が、おそるおそる声をかける。真帆の弟で今年の新人。「あ、すみません、たぶん…いや、違うかも…」とおどおどしながらも、最近中田主任の胡散臭さに気づき始めた純真な青年である。
「あの、篠崎さん…書類の件で質問が…」
「では、そちらの意向を踏まえ、検討"しておいたふう"にしておきます」
「え? まだ質問してないんですけど…」
「以上です」
篠崎は再び観葉植物と対話モードに戻った。圭太は困惑しながら、書類の山を迂回して姉のところへ向かう。途中、篠崎参事の書類要塞の前で道に迷いそうになったが、なんとか真帆の席に辿り着いた。
「姉ちゃん、篠崎さんが何言ってるのかわからないんだけど…」
「そんな報告の仕方じゃ本部にバレるでしょ!」
「何が?」
「とにかくダメ!」
理不尽に怒られた圭太の目に、うっすらと涙が浮かぶ。
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事件3:大惨事!ラミネート書類が役所で大炎上
午後二時。
突然、事務所の電話が鳴り響いた。
「はい、まるまる事業開発です」
電話に出た奈緒子の顔が、見る見る青ざめていく。
「え? ラミネート加工した書類を? それで市役所が?」
全員の視線が西村副場長に集まる。
「あー、それはですな…」
西村が冷や汗をかいていると、電話の向こうから怒号が聞こえてくる。
「どうして受理できないかって? 当然だろ! 公文書をラミネート加工したら、訂正も追記もできないじゃないか!」
どうやら西村は、重要な契約書をラミネート加工して市役所に持参したらしい。しかも、裏表逆向きに。
「それでお役所の人が書類を剥がそうとして…」
奈緒子の報告に、全員が固唾を飲む。
「ラミネートフィルムが途中で破れて、書類が真っ二つに…」
「ぎゃー!」
中田主任が椅子から転げ落ちる。
「さらに、破れた書類を修復しようとして、セロハンテープで…」
「うぇー!」
今度は圭太が頭を抱えた。
「結果、書類が読めなくなって、市役所が大混乱に…」
「ウチ、潰れるん?」
西村の顔が土気色になる。
「大丈夫! 大丈夫やから! 俺が責任取るから!」
中田が謎の責任感を発揮するが、彼に責任を取る権限はない。
「ま、ここはひとつ…ね?」
園田場長が例のセリフで場を和ませようとするが、今回ばかりは誰も笑わない。
「あたし、来年はやめるから関係ないわ」
トミが恒例の発言をする中、篠崎参事だけが観葉植物と相談していた。
「君たちならどうする?」
植物は答えない。当然だ。
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事件8:水沢理沙の神業的フェードアウト(再び)
その時、理沙が立ち上がった。
「あ、すみません! 保育園から緊急連絡が…」
完璧なタイミングでの早退宣言。まるで事態を予知していたかのような神業である。
「え、私ですか? ちょっと保育園に…」
お決まりのセリフを残して、理沙は颯爽と退場。
「ちょっと待って! こんな時に!」
中田が慌てて呼び止めようとするが、理沙は既に事務所を出ていた。
「さすが…」
奈緒子は心の中で拍手を送る。
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事件7:中田主任の知ったかぶり大惨事と奈緒子の神対応
「圭太くん、社会ってのはさぁ〜…」
圭太の直球質問で沈黙していた中田だったが、すぐに復活して新たな説法を始めた。
「情報管理っていうのは、オープンにするのが時代の流れなんだよ」
「え?」
圭太が首をかしげる。
「だから、顧客情報も積極的に共有していかないと! 透明性が大事なんだ!」
その時、中田のパソコン画面には顧客リストが表示されていた。そして何を思ったか、中田は「みんなで情報共有!」と叫びながら、顧客の個人情報が満載のExcelファイルを、なんと取引先企業10社にメールで一斉送信してしまった。
「あ…」
中田の顔が青ざめる。
「中田さん、今何を…」
私が確認しようとした時、既に手遅れだった。送信済みボックスには「【緊急】顧客情報共有のお知らせ」というタイトルで、氏名、住所、電話番号、年収まで記載された顧客リスト300件が、取引先に送られていた。
「あー!!!」
中田が絶叫する。
「や、やっぱ俺ってさ、頼りにされると燃えるタイプなんだよね…でも、今回はちょっと燃えすぎたかも…」
その30分後、事務所の電話が鳴り響いた。
「おたくの会社は何を考えているんですか!」
怒号が受話器から漏れ聞こえる。情報を受け取った取引先から、苦情の電話が殺到していた。
「個人情報保護法違反で訴えますからね!」
「弁護士と相談します!」
「コンプライアンス体制はどうなってるんですか!」
電話は鳴り止まず、中田は机の下に隠れてしまった。
「奈緒子さん…助けて…」
涙目の中田が私に懇願する。
「ま、ここはひとつ…ね?」
園田場長が例のセリフを言うが、今回ばかりは「ひとつ」では済まない。
「検討"しておいたふう"にしておきます」
篠崎参事も植物に相談しているが、植物も困った顔をしているように見える。
「あたし、来年はやめるから関係ないわ」
トミが恒例の発言をするが、今回は本当にやめたくなっているようだった。
その時、私は立ち上がった。
「私が対応します」
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奈緒子の神対応タイム
私は冷静に状況を整理し、まず社内で緊急対策会議を開いた。
「皆さん、慌てても仕方ありません。まず事実確認をしましょう」
私は中田の送信履歴を詳しく調べ、送信先と送信内容を完全に把握した。
「幸い、送信先は既存の取引先のみで、不特定多数への流出ではありません。また、センシティブな個人情報(クレジットカード番号等)は含まれていません」
次に、私は各取引先に電話をかけ始めた。
「お忙しい中、申し訳ございません。まるまる事業開発の奈緒子と申します。先ほどの件でお電話いたしました」
「まず、今回の件について心よりお詫び申し上げます。ただし、パニックになる前に、一度冷静に状況を整理させていただけませんでしょうか」
私は理路整然と説明を続ける。
「今回送信されたデータは、貴社との取引に関連する顧客情報でございます。法的には、正当な業務目的での情報共有の範囲内と解釈できる可能性があります」
「もちろん、手続きに不備があったことは認めます。しかし、悪意ある第三者への流出や、営利目的での不正使用ではございません」
「個人情報保護法第23条の第三者提供についても、業務委託の範囲内での情報共有として整理できるかと存じます」
電話口の相手が少しずつ冷静になっていくのがわかる。
「つきましては、該当データの即座な削除をお願いするとともに、当社からも再発防止策を徹底いたします」
「また、影響を受けたお客様への対応についても、貴社と連携して適切に進めさせていただきたく存じます」
私の説明に、取引先の担当者も納得し始めた。
「なるほど、そういう整理であれば…」
「確かに、悪意があったわけではないですし…」
「データは責任を持って削除します」
一件、また一件と、怒りの電話が理解の電話に変わっていく。
最後の電話を終えた時、私はほっと息をついた。
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中田主任の涙と感謝
「奈緒子さん…」
中田が机の下から這い出してきた。目には大粒の涙が浮かんでいる。
「ありがとうございました…本当に、ありがとうございました…」
中田は涙を流しながら、深々と頭を下げた。
「俺って、やっぱりダメなんだ…知ったかぶりばっかりして…」
「でも、奈緒子さんが助けてくれて…俺、一生忘れません…」
しかし、涙を拭いた中田は、なぜか急に元気を取り戻した。
「やっぱ俺って、こういう時に頼れる人を見つけるのが得意なんだよね!」
「…はい?」
私は耳を疑った。
「奈緒子さんという最強の味方がいるから、俺はもっと大胆に行動できるよ!」
「ちょっと待ってください…」
「やっぱ俺ってさ、頼りにされると燃えるタイプなんだよね! 今度は奈緒子さんに頼りにされるよう頑張るぞ!」
私は深いため息をついた。
*(この人、全然懲りてない…)*
圭太が小声で呟く。
「あ、すみません、たぶん…いや、中田さん、やっぱり違うと思います…」
圭太の成長が止まらない。
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事件9:篠崎参事の謎の解決法
その時、書類の山の奥から篠崎参事の声が響いた。
「この件につきましては、先方の意向を踏まえ、検討"しておいたふう"にしておきます」
「いや、もう起こってしまったことなんですけど…」
西村が困惑する。
「では、起こってしまったことを、起こらなかった"ふう"にしておきます」
「それ、できるんですか?」
「検討しておきます」
書類の山の奥から声だけが聞こえ、篠崎参事の姿は完全に書類に埋もれて見えなくなった。
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終幕:小さな世界の大きな教訓
結局、西村副場長は翌日市役所に謝罪に行き、なぜか「書類のラミネート加工の先駆者」として伝説になった。
中田主任は「やっぱ俺ってさ、頼りにされると燃えるタイプなんだよね」と言いながら、誰にも頼りにされていない現実に気づき始めた。
圭太は着実に成長し、真帆は相変わらず無表情だが、なぜか本部の評価は上がり続けている。
トミは「あたし、来年はやめるから」と言いながら、実はこの騒動を一番楽しんでいた。
理沙は翌日、何事もなかったかのように出社してきた。
そして篠崎参事の観葉植物だけが、全てを知っていたかのように静かに手を振っていた。
奈緒子はメモ帳に今日の記録を書き込む。
*『本日の珍事録:
- ラミネート書類で市役所業務停止事件
- 篠崎参事、現実を"なかったふう"にする技術を開発
- 中田の個人情報流出大惨事と奈緒子の神対応
- 中田の涙の感謝からの秒速手のひら返し
- 圭太の覚醒と中田の迷走継続
- 理沙の神業的危機回避能力
- やめるやめる詐欺48回目
総評:今日も平常運転…だったのか?小さな世界は、今日も予想を超えて小さく、そして大きく揺れている。そして私は、なぜか中田の"最強の味方"認定を受けてしまった…』*
明日もまた、この小さな世界では、どんなとんでもない事件が待っているのだろうか。