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【短編小説】ビターな関係[日常]

「すみません、アイスコーヒーまだですか?」土曜の午後、カフェ「Cafe Log」は満席で賑わっていた。店内にはコーヒーの香ばしい香りが立ちこめ、マグカップがぶつかる音やお客の話し声が飛び交っている。カウンター内では、早川綾音が忙しくドリンクを作っていた。右手でミルクピッチャーを振りながら、左手でメモを取り、頭の中では次のオーダーを整理している。「すぐにお持ちします!」と声を張り上げ、綾音は慌ただしくアイスコーヒーを用意しようとしたその時——「なんか忙しそうだな」


不意に聞き覚えのある声がした。顔を上げると、そこには幼なじみの相沢悠人が立っていた。カジュアルなTシャツ姿で、手にはスマホを握っている。「見てわかるでしょ」と、つい冷たい口調になった。「まあ、こんなに混んでりゃな」と悠人は苦笑しつつ注文を済ませた。ところが、その次の一言が綾音の神経を逆なでにした。「こういう時はさ、メニュー絞った方がいいんじゃない? ラテアートとか後回しにしてさ」「素人が口出さないで」


思わず言い返した。悠人は目を丸くしたが、すぐに顔をしかめる。「心配して言ってんのに、なんだよその態度」「だったらもう来なくていいよ!」「言われなくてもな!」悠人は怒って店を飛び出した。綾音はその背中を見送りながら、胸の中に重たいものが残るのを感じた。「なんであんな言い方しちゃったんだろう…」ついさっきまでの喧騒が遠のき、カフェの空気がどこか冷たく感じられた。


夕方になり、店の忙しさもようやく落ち着いてきた。カウンター越しに外を見やると、陽が傾き始め、ガラス窓にはオレンジ色の光が差し込んでいた。けれど、綾音の心は晴れなかった。「……だったらもう来なくていいよ、か」あの言葉を思い出すたびに、胃の奥がチクリと痛んだ。確かに悠人の言い方も無神経だったけれど、だからといってあそこまで突き放さなくてもよかった。「……アイスコーヒー、お待たせしました」ようやく運んだアイスコーヒーのグラスは、結露でべたべたになっていた。テーブルに置いた瞬間、客の女性が困ったように笑い、「大変そうですね」と声をかけてきた。「……すみません」頭を下げながら、綾音はどんどん自己嫌悪に陥っていく。悠人の「心配して言ってんのに」という言葉が、頭の中に何度もこだました。


閉店後、片付けをしていても気が乗らない。いつもならさっさと終わらせる作業が妙に手間取った。カウンターを拭く手が止まり、ふと悠人の言葉を思い出す。「……こういう時はメニューを絞った方がいい、か」悔しいけれど、あの指摘は正しかったかもしれない。忙しい時間帯に、丁寧なラテアートにこだわるのは、確かに効率が悪かった。けれど、それを指摘されると意地になってしまう——そんな自分の頑固さが恥ずかしかった。


「……明日、謝ろうかな」そう思ったものの、「でも、あっちも悪かったし」と意地が頭をもたげる。綾音はため息をつき、スマホを取り出した。「ごめんね」と打ったが、すぐに消す。「……なんで素直に言えないんだろ」その夜、綾音はなかなか寝つけなかった。枕に顔をうずめると、悠人の最後の言葉が耳にこびりついたままだった。


翌朝、目が覚めると、ベッドの横に無造作に置かれたスマホが目に入った。綾音はぼんやりとそれを手に取り、通知を確認する。悠人からの連絡はなかった。「……まあ、来るわけないか」寝不足のせいで頭が重い。それでもカフェの準備のため、渋々ベッドを抜け出した。顔を洗って鏡を見ると、目の下にはうっすらクマができていた。「……最悪」気分が晴れないままカフェに着くと、開店準備に追われるうちに気が紛れた。だが、営業が始まると、ふとした瞬間に昨日の出来事が蘇ってくる。「だったらもう来なくていいよ!」「言われなくてもな!」怒った悠人の顔が頭にちらついて、落ち着かない。


「綾音、砂糖入れ忘れてるよ」先輩に声をかけられ、慌ててハッとする。確かに、客のカップの脇には砂糖がない。「……すみません」ぼんやりしていたせいだ。悠人のことばかり考えているせいだ。「……なんであんなこと言っちゃったんだろう」そう思いながらも、「いや、でもあっちが先に……」と、自分を正当化する言葉が頭をよぎる。その繰り返しだった。


夕方、カフェの営業が終わった後、綾音は帰り道の途中で缶コーヒーの自動販売機の前で立ち止まった。「……あいつ、こういうの好きだったよな」思わず缶コーヒーを買い、その場でプルタブを引いて一口飲んだ。苦い。こんなに苦かったっけ? 口の中に残る苦味が、昨日の出来事の後悔をさらに濃くさせるようだった。「……明日こそ、ちゃんと謝ろうかな」そう思いながら、綾音はゆっくりと家へ向かって歩き出した。


その夜、綾音はベッドに寝転がり、スマホを手にしていた。SNSを眺めても心が落ち着かず、何度も悠人のアカウントを開いては閉じるのを繰り返す。「……何やってんだろ、私」ため息混じりにスマホを枕元に置き、天井を見つめる。思い返せば、悠人とは昔からこんな感じだった。子どもの頃、ケンカした後はどちらかが折れて「ごめん」と言い、その後は何事もなかったかのように笑い合っていた。「……でも、今回は向こうも悪いし」そう思いかけた瞬間、昨日の悠人の言葉が脳裏にこびりついた。


「心配して言ってんのに、なんだよその態度」あの時の表情は、確かに本気で心配してくれている顔だった。「……やっぱり、私が悪かったのかな」スマホを再び手に取り、「ごめんね」と打ち込む。指が送信ボタンの上で止まった。「……いや、あっちから謝ってくるかもしれないし」そう思い直し、メッセージを消した。


布団に潜り込むが、目を閉じても考えが堂々巡りする。謝ろうか、もう少し待とうか。言葉にするなら、どんな言い方がいいだろうか。「……明日、カフェに来てくれたらいいのに」そんな淡い期待を抱きつつも、悠人の頑固さを思い出して苦笑する。「……あいつ、こういう時に限って意地張るんだよな」結局、考えはまとまらないまま、綾音は眠れない夜を過ごした。枕の下のスマホは、結局一度も鳴ることはなかった。


翌日、カフェの開店準備をしていると、綾音の胸には妙な期待があった。(もしかしたら、悠人が来るかもしれない)そう思うと、昨日までの重苦しさが少しだけ和らいだ。来てくれさえすれば、あとは自然に「ごめん」と言える気がした。しかし、昼を過ぎても悠人は現れなかった。「……やっぱり、意地張ってんのかな」気持ちは焦るのに、表には出さないようにしながら仕事に戻った。


夕方、綾音が豆の補充に出ようとカフェの扉を開けたその瞬間——


「あっ……」目の前の歩道に悠人の姿があった。けれど、目が合ったのも束の間、悠人はすぐに顔をそらし、そのまま人混みに紛れて行ってしまった。「……あいつ、ほんとに意地っぱりなんだから」追いかけるべきか迷ったが、仕事中なのを理由に踏みとどまる。だが、その後も心は落ち着かず、仕事に身が入らなかった。


「綾音、またミスしてるよ」気づけば、作ったカフェラテのミルクがこぼれ、カウンターがびしょ濡れになっていた。「……ごめんなさい」何度も謝りながら、心の中では悠人の姿が離れなかった。


(……もしかして、私が謝らないと、もうずっと話せないかもしれない)そう思うと、じわりと胸が苦しくなった。「……今日の帰り道、探してみようかな」そう考えながら、綾音はカウンターを黙々と拭き続けた。普段なら香ばしいコーヒーの香りが心を落ち着かせるのに、今日はやけに苦く感じられた。


その日の営業を終えた帰り道、綾音は周囲を気にしながら歩いていた。(どこかで悠人に会えないかな)そんな期待が心の片隅にあった。いつもの帰り道をわざと遠回りしてみたり、悠人がよく行くコンビニの前を通ってみたり。けれど、彼の姿はどこにも見えなかった。「……そう簡単には会えないか」ため息をつき、駅へ向かおうとしたとき、自動販売機の前で立ち止まった。「……昨日と同じか」気がつけば、また缶コーヒーに手を伸ばしていた。


「……なんでこれなんだろ」無意識に悠人の好きなものを選んでいる自分に、思わず苦笑する。プルタブを引いて一口飲むと、やっぱり苦かった。そのとき——「……綾音?」驚いて振り返ると、数メートル先に悠人が立っていた。


「悠人……」思わず声が詰まる。昨日、悠人が無視して立ち去った時と同じ、気まずそうな顔だった。「……あのさ」勇気を振り絞って言いかけた瞬間、悠人がぼそっと言った。「……カフェ、味落ちたんじゃない?」「……は?」思わず声が裏返った。悠人はふっと笑って「まあまあ、冗談だよ。でも……昨日よりはマシかもな」「あんた、ほんとに——」怒りの言葉が喉まで出かかったが、悠人の笑顔を見た瞬間、その気が失せた。


「……うるさいな。今度は最高のコーヒー淹れてやるから」そう拗ねたように言うと、悠人は「楽しみにしてるよ」と言い残して、歩き出した。缶コーヒーの苦味がまだ舌に残っていたが、綾音の胸にはほんの少しだけ、温かいものが広がっていた。


日曜の午後、綾音は近所の商店街を歩いていた。カフェは定休日で、久しぶりの休日だったが、昨日の悠人との会話が頭から離れず、心は落ち着かなかった。「……ちゃんと謝れなかったな」冗談混じりのやり取りはできたけれど、肝心の「ごめん」が言えなかったのが、ずっと引っかかっている。(もう一度会えれば、ちゃんと……)そんなことを考えながら歩いていると、ふと視界に見覚えのある後ろ姿が入った。


「……悠人?」彼は商店街の端にあるベンチに座り、缶コーヒーを片手にぼんやりしていた。(……今なら話せるかも)胸の奥がざわついた。悠人の気まずそうな顔が頭に浮かぶ。昨日のように、あっさり流されるかもしれない——それでも、このままでは終わらせたくなかった。意を決して歩み寄り、声をかけた。


「……ねえ」悠人は驚いた顔で振り向いたが、すぐに「……おう」と気の抜けた返事をした。「何してんの?」と綾音が尋ねると、悠人は苦笑しながら缶コーヒーを軽く振った。「……別に。気晴らし」「……そっか」気まずい沈黙が流れた。何を言えばいいのか迷っていると、悠人が缶コーヒーを口に運び、「……昨日のコーヒー、苦かったな」とぽつりと言った。


「は?」「お前のコーヒーの方がうまいわ」綾音の目が大きく見開いた。「……それ、フォローのつもり?」「さあな」悠人は悪びれた様子もなく笑った。その無防備な表情に、綾音の肩から力が抜けた。「……今度、もっと美味しいの淹れてやる」「楽しみにしてる」缶コーヒーの苦さが舌に残りつつも、綾音の胸はどこかほっと温かくなっていた。


「……でさ、昨日の帰り道、あんたのこと探したんだから」そう言いながら、綾音は悠人の隣に座った。「え? なんで?」悠人は驚いたように目を丸くする。「いや、昨日ちゃんと謝れなかったから……」そう言いかけて、言葉が詰まった。「……いや、なんでもない」「なんだよ、それ」悠人は肩をすくめ、残った缶コーヒーを一口飲む。


「それよりさ、あんたの方こそ昨日の態度、なんなの? 心配してたなら、もっと素直に言えばいいのに」「は?」「だから、あの時の『メニュー絞った方がいいんじゃない?』ってやつ。もっと言い方あったでしょ」悠人は少しバツが悪そうに目をそらした。「……まあ、悪かったよ。お前、あの店で頑張ってんのはわかってるからさ」その言葉に、綾音は思わず顔を上げた。悠人は照れくさそうに、缶コーヒーのプルタブを指で弾いていた。「……そういうの、最初から言ってくれればいいのに」「お前が先にカッとなるからだろ」「……それはあんたの言い方が悪いからでしょ」そう言いながらも、綾音の頬は自然と緩んでいた。


「……ま、もういいけど」「だな」悠人の声には、少し安心したような響きがあった。「それにしても、さっきの缶コーヒー、あんたのより苦かったわ」「そりゃそうでしょ」綾音が拗ねたように言うと、悠人は「確かに」と笑った。その笑顔を見て、綾音の胸の中に残っていたわだかまりがすっと消えていくのを感じた。「……次は絶対、最高のコーヒー淹れてやるから」「おう、楽しみにしてるよ」二人の笑い声が、日曜の午後の穏やかな空気に溶け込んでいった。


数日後、カフェ「Cafe Log」に悠人がふらりとやってきた。「お、いらっしゃいませ」綾音が明るく声をかけると、悠人は小さく手を上げてカウンターの隅の席に座った。「今日はちゃんと最高のコーヒーを淹れてやるから」綾音は得意げに宣言し、豆の袋を取り出した。悠人は「おう、頼むわ」と気の抜けた声を返しながら、スマホをいじり始める。


普段の客なら「普通のブレンドでいいや」と言いそうなところを、悠人が来たからには話は別だ。綾音は慎重に豆を計り、グラインダーで挽いた。その音が心地よく響く。ドリップポットから注がれたお湯が、コーヒー粉の上でふわりと膨らむ。「……よし」いつもより丁寧に抽出したコーヒーをカップに注ぎ、カウンター越しに悠人の前へ差し出した。「はい、特製ブレンド。今日は最高の出来だから」悠人は「へぇ」と言いながらカップを手に取った。


「……どう?」綾音が身を乗り出して尋ねると、悠人はゆっくりと一口飲んだ。そして、静かにカップを置き、真顔で言った。「……まあまあかな」「は?」一瞬、何を言われたのか理解できず、綾音は固まった。「いや、冗談。うまいよ」悠人はニヤリと笑った。


「ほんっとに感じ悪い!」「お前がハードル上げるからだろ」「最高の出来なんだから、最高って言いなさいよ!」拗ねたように言いながらも、綾音の顔は笑っていた。悠人も「まあまあなら良かった」とつぶやき、二人は目が合って、ふっと笑い合った。その瞬間、綾音は思った。——ああ、やっぱりこの関係がちょうどいいんだ。そう確信できるほど、カフェの空気は穏やかで心地よかった。


「……まあまあなら良かったって、あんた、ほんとに性格悪いよね」綾音が呆れたように言うと、悠人は「悪いかよ」と肩をすくめた。「でもさ」悠人はカップを指先でくるりと回しながら、ぽつりと続けた。「カフェには、お前がいないとダメだな」「……は?」思わぬ言葉に、綾音は一瞬、動きを止めた。


「いや、前にさ、他のバリスタさんが淹れてるのも飲んだんだけど……なんか違うんだよな。味がどうこうっていうより、店の空気がさ。お前が声張り上げて、バタバタしてるのが、あの店には合ってんだよ」「……褒めてるの?」「うん、まあ、褒めてる」悠人は照れくさそうに鼻をこすりながら言った。「……へぇ」綾音はカウンターの内側で、そっと顔を伏せた。心の奥がじんわりと温かくなる。


「……ありがとう」小さな声でそう言うと、悠人は「ん?」と聞き返してきた。「……なんでもない」綾音は誤魔化すようにカップを片付け始めた。「次も絶対、最高のコーヒー淹れてやるから」そう言うと、悠人は「じゃあ、また来るわ」と軽く手を上げ、カフェを出て行った。ガラス越しに見える彼の背中は、もう昨日までのような気まずさはなかった。


「……また来る、か」ぽつりと呟いて、綾音は笑った。店内には、コーヒーの香ばしい香りが心地よく漂っていた。——私のカフェには、やっぱりあいつが必要だな。綾音はそう思いながら、次のコーヒー豆を手に取った。



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