最大の愛を込めて
あたり一面に広がる緑。
青い空には小さな雲がいくつか浮かんでいた。
広い草原の真ん中には大きな桜の木があり、彼女は木の下に寝そべって空を見ていた。
「やあ、こんにちわ。」
私は寝転がる彼女の顔を覗き込む。するといつも通りふわっとした笑顔を向けてくれた。
「こんにちわ。そろそろ会いに来るかななんて思っていたよ。」
起き上がる彼女の横に座り、髪に付いている葉っぱを払う。
「少し昔でも振り返ろうと思ってさ。色々持ってきたんだよ。」
目の前にはたくさんの本が積まれていた。
そのうちの一つを手に取って、ゆっくりとページをめくっていく。
彼女も一冊の本を手に取った。
「もう夜は怖くなくなった?」
「あなたがいてくれたおかげで。すっかりねぼすけだよ。」
小さい頃、ベッドに入り込むと闇に包まれてしまう気がして眠れなかった。
泣き疲れて寝ると、彼女は必ず会いに来てただ黙って私を抱きしめてくれた。
「じゃあもう夢で会いに行かなくていいね。」
一冊の本だったそれは、私の手のひらの中で月の欠片に変わっていた。
彼女も手にした本を開く。
「見てみてこれ。懐かしいねぇ。初めて私に聞かせてくれたお話。」
彼女は表紙を撫でながら、私に笑いかける。
自分で初めて創った人魚姫の話を、私は彼女に聞かせた事があった。
笑われるかもと怯える私に彼女は真剣な眼差しで、時には涙を流して話を聞き続けてくれた。
「恥ずかしいってば、そんなジロジロみないでよ。」
「いいじゃん。好きだったなぁこれ。」
彼女から目を逸らすと、手には本の代わりに貝殻が。
そしてまた一つ本を取る。
私が手にした本には、とある街の観光名所がずらりと並んでいた。
「清津峡、綺麗だったなぁ。」
「もう吹っ切れたの?」
彼女が心配そうに私の目を見る。
とある男性と付き合って、寒い土地に越したことがある。
暮らしこそ辛い毎日だったけれど、住む土地には沢山の自然があった。素敵な人たちにも囲まれていた。
「いい思い出だけどね、でももう前に進んだから。」
手のひらにある小さな雪の結晶は、私の体温でじんわりと溶けて消えていった。
「この山積みの本、どうしようか。」
「ああ、私が持っていくよ。もう必要ないでしょ。」
パンパンッと手を払って、彼女は立ち上がり背伸びをする。
「この桜の木も、いつの間にかこんな大きくなったねー。」
大きな木の幹に触りながら、彼女は私に向き直る。
「この桜はずっと成長していたよ。毎日ゆっくり、一つずつ成長していた。だから不安にならなくていいんだよ。この木はここに残しておくから。だからたまに木漏れ日でも浴びにきなよ。」
この草原は、最初はただの広い広い土地だった。
そこに彼女と私で、小さな桜の木を植えた。
彼女はずっとここにいて、いつでもこの木の下にいた。
時には傷だらけになりながら、私が書いた作品を愛おしそうに読んでいた。
私かそこに行けば、お日様のような柔らかい笑顔で私をそっと抱きしめてくれた。
でももう、それはできない。
彼女が真っ直ぐに私を見つめる。
「私はもう代わりに傷を受けてあげられない。手を繋ぐこともできない。肯定することも否定することもできないよ。これからは1人で歩いていかなくちゃいけない。いいね?」
「うん、わかってる。」
覚悟はしていたはずなのに、堪えていた涙が溢れてしまう。
ぽろぽろと頬を伝う涙を、彼女が困ったような顔で拭ってくれた。
お別れの言葉を言いたいのにうまく言葉にできず、止めどなく涙が溢れる。
「大丈夫だよ、この十数年ずっとみてきたんだから。傍にいたんだから。」
「ごめんなさい、うまく言えないの。」
「最後に見るのは泣き顔なんだろうなってなんとなく思っていたけど、やっぱりそうだったね。」
彼女は笑いながら涙を拭ってくれた。
そうして一冊の本を渡される。
「さあ、栞を抜いて。」
私は涙でぼやける視界の中、ゆっくり本を開く。
桜の押し花の栞を手に取って、パタンと本を閉じる。
その瞬間、私達をたくさんの桜の花びらが包み込む。
「最後にひとつだけ。」
「愛してる。
これからも、ずっと見守ってるからね。」
私の手を取り、彼女は一筋の涙を流した。
桜の栞はゆっくりと地面に落ちて、それと同時に彼女の姿は無くなっていた。
先程まであった山積みの本も消え、そこに残っていたのは白い本が一冊。
本を手に取ると、中にはまだ何も書かれていない。
私は持っている本に桜の栞を挟み、両腕でしっかりと胸に抱く。
「ずっと傍にいてくれてありがとう。さようなら。」
足の底に生い茂る草の感覚を感じながら、広い青空の下で歩みを進める。
あなたへ、最大の愛を込めて。




