「予定変更」
「本日、落命のご予定はございますでしょうか?」
「ありません。ごめんなさい。本当にありません」
日も落ちた会社の帰り道。人けの無い、線路の高架下を歩いていたら急に後ろから声を掛けられた。
それもモノ凄く物騒なことを。
驚いて咄嗟に素っ頓狂な返答をしてしまう。
声は張りのある若い女性の声だった。振り向くとスラリとスタイルが良く、長い黒髪をポニーテールにまとめている、僕と同じくらいの身長の女性が一人。
が、顔には翁の能面。真っ白な一枚だけの白装束に木製の下駄。しかも腰には日本刀を携えてる。
(え? 何…? 怖っ…!?)
とは頭で考えながらも、その女性の胸元は開けており下着も着けておらず、その豊満さが見てとれる。
足元の着物の隙間からは美しい白い脚がチラチラと姿を見せる。
(すんごくエロい…、って! 思ってる場合か!!)
どこをどう取っても危険に巻き込まれる予感しかしない!
即座に踵を返して、女性とは逆方向に全力ダッシュをする。
(【落命】って! 死ぬってことかよ! 僕を殺す気か!?)
ドタドタと鞄を抱えたまま、普段通勤に使っている高架下の道を走る。
それと呼応するように、
カコカコカコ、と小気味よい下駄の音が追いかけてくる。
(ま、マジかよぉぉ!!)
音が全然離れていかない。男の僕の全力疾走に、何のことなく軽快に後ろを付いてくる。
さすがに息が上がり、スーツの下のYシャツと肌着を汗で濡らしながら走りのペースを落とし、とうとうその場で止まってしまった。
さて、あの女性は。
思った通り、僕の後ろにまたその姿を晒していた。
呼吸を整えてる素振りも無く、さっき会った時と同じような落ち着きで、
「落命のご予定は?」
と、可愛げに小首を傾げながら問い質してくる。
被っている翁の能面は、すっごく不気味なのだが。
「ありません! ありませんよ! 僕は、こんなとこで死にたくない!」
走った疲れも合わさり、息も絶え絶えに声を上げる。
「…ご予定は、無いと」
スルリ、と腰の日本刀が抜かれる。
刀身は遠くからの照明を反射し、キラリと光を放つ。
その姿の造形美に、見惚れてしまう。
長く流れる黒髪。儚げな白装束。そこから覗く綺麗な白い肌。女性らしい身体の輪郭。
加えての日本刀の曲線美と、死を連想させる凶暴性。
表情をお面で隠しているのも、神秘的な雰囲気を醸し出す。
そんな妖艶な容姿を見つめていたら、カカコッ、という下駄のリズムと合わせて、一気に僕との間合いを詰めてきた。
スッ、と日本刀が目の前を過ぎると、首から垂れたネクタイの結び目から下が、ポトリと落ちる。
――――【死】。僕は今、死地にいる。否応無しにその現実が突き付けられる。
力なく立ち尽くしていた僕の身体は足を払われて、地面に背中から転がってしまう。
転倒の痛みを感じたが、その女性に胸倉を掴まれてお面を着けた顔の近くまで引っ張られる。
「もう一度。――――落命のご予定は?」
首元に日本刀の冷たさが走る。
しかしそれと同時に、彼女の揺れる胸元から溢れる艶っぽい香りが、鼻に突き刺さる。
押し付けられた太ももからは体温が伝わり、はだけた下半身から張りのある美しい脚と、女物の褌が視線を虜にする。
お面の隙間からは、ちらりと薄紅色の健康的な唇が見えた。
死を意識したことで湧き出る朦朧感と、性的な興奮からくる陶酔感が、脳をぐるぐると揺さぶる。
「あ、りませ、ん…。死にた、く、あり、ま、せん…」
理性が溶けてしまい、本能からの声が漏れる。
自分が言いたいことはこれなのか、もう僕には分からない。
首に当てられた日本刀の刀身に僕の体温が伝わり、冷たさを感じなくなった頃。
「そうですか」
と、あっさり手を離され、コンクリに頭を打つ。
(…痛い…)
感覚が鈍ってしまっていたのか、痛みは遅くじんわりと感じた。
そんな地面に大の字で転がる僕を余所に、立ち上がって腰の鞘に日本刀を納め、背筋を整え辺りを見回す。
「…あちらでしたか」
カコン、カコンと足元を鳴らしながら僕から離れていく。
「何だったんだよ…。あれ…」
布切れになったネクタイを首から外し、安堵の息を漏らすと同時に、
足が彼女の後ろを追ってしまう。
あれほどの恐怖に晒されたのに、あの女性の目的を知りたがってしまう。
殺されるかもしれないような目に遭ったんだ。
これぐらい許されないと割に合わない。
興味、関心、好奇心が、僕の中で帰宅を拒んでしまった。
もう少し進んだ先の、高架下の中ではさらに暗い、都市が落とす陰影のような場所に彼女はいた。
「本日、落命のご予定はございますでしょうか?」
また同じ質問をしている。
「”ラクメイ”? 何言っての、このお姉さん?」
数名の若者が、スーツ姿の中年男性を囲んでいた。
「今、ボクラ忙しいんですよぉ」
「というか、めっちゃエロくない? 何? 遊んでほしいの? ならもう少し待ってよ。このオジサンから、お小遣いもらっちゃうからさ」
ふてぶてしい態度の若者を無視して、中年男性の前に歩を進める。
そして再度質問を投げる。
「落命のご予定は?」
男性はすでに何度も殴られた跡があり、質問に答えられず地面に蹲っていた。
「ご予定は?」
痣ができた顔を覗き込む。
「助け、て…」
小さな声が上がる。
「おい、姉ちゃん! 無視してんじゃねぇぞ!」
若者の一人が彼女の肩に手を乗せる。
「――――予定変更。落命、執行決定」
抜刀の一閃が、若者の腕もろとも頭の鼻から上を斬り捨てる。
宙を舞った腕と頭の一部が別の者へと飛んでいき、肉塊としてぶつかる。
「う、うわぁぁぁ!!」
仲間の一人があっという間に斬り殺され、瞬時に動揺が伝染する。
それでも容赦なく返す刀が、また一人の首を刎ねる。
斬られた首の根元からは、ポンプのように血の噴水がブシュブシュと上がる。
「ひぃぃぃぃ!!」
「何だコイツ! おかしいぞ!」
「逃げろ! 逃げ」
背中を向けた者は心臓を一突きにされて地面に転がる。
残った二人の若者も、あまりの一方的な虐殺に腰を抜かしてしまう。
「落々命々」
何か呪文のように呟いて、へたり込んでいる一人の頭を刀で真上からパックリと開ける。
「やめてください! 助けてください! もうしません! 殺さないでぇ!」
助命の懇願をして残った一人が地面に頭を擦り付けている。
プスリ、と軽い音が鳴る。
首筋から喉へ、刀が貫通する。
「ご、ぶぇ…。が、がげごぉ…!」
死に至ることも出来ず、ただ血が溢れていく喉を押さえて地を這い回る。
返り血を浴びて真っ赤になった白装束の彼女が、声色を変えずに吐き捨てる。
「落命予定は、まだまだ先でした。命を粗末にするのはいただけません」
即死した者、死にゆき藻掻く者、割られた頭を戻そうと無駄な動きをする者。
地獄絵図。血煙と死臭が辺りを覆った。
そんな中、若者たちに囲まれていた男性が、痛めつけられた腹部を押さえながらフラフラと立ち上がる。
「あ、ありがとうございました…。いきなりあの連中に暗がりに引っ張り込まれて…」
「落命、執行」
負傷した中年男性を袈裟懸けに斬り付け、左肩から右の腹部までを両断してしまう。
「本日の落命のご予定は、貴方でした」
刀の血を振り払い、チキリと鞘に納める。
その一部始終を遠くからボンヤリと眺めてしまっていた。
(もしあの時、答えを間違えていたら…。変に抵抗していたら…)
彼女の周りの死体を見る。あれが末路だ。
背筋が凍り付く。
文字通り、首の皮一枚で繋がった命。
危ない橋を渡っていたと自覚し、心臓が締め付けられる。
ふと彼女に目を向けると、予備動作として腰を落とし、急に人間離れの跳躍をした。
あまりにも高く跳んでいってしまい、ビルの隙間にその姿が消えていく。
そして僕は、あるモノを目撃してしまったのだ。
「――――褌をした女の尻って、ああ見えるんだ…」
翌日の朝、彼女が暴れた現場に寄ってみたが、警察が来てる…なんてことは無かった。
何も無くなっていた。
あの凄惨な斬殺現場には死体も血の海もなく、薄暗がりが広がっているだけ。
その代わりに、後日になって若者の集団自殺が起こったと報道があった。
死亡推定時刻は、あの事件に出くわした日時。
その時間を境にして、交友関係があった若者が一斉に自殺をしたらしい。
首吊り、投身、自傷、薬物過剰摂取、溺死。
どれもこれも方法は違えどその時間は、ほぼ一致している。
加えてそれと同時刻に、あの場所から少し離れたところで交通事故もあり、中年サラリーマンが運転不注意のトラックに撥ねられて死亡したとのこと。
あの時、あそこで行なわれた殺刃舞台は虚空に消え、”皆んな最後は、同じ時間に死んでしまった”という結果だけが残った。
一体、何が彼らを死に追いやったのだろうか。
そんなものは決まっている。
あの女性だ。
運命立てられた命には、引導を。
そうでない命には、死を”捻じ込んでいく”。
言ってしまえば――――死神――――。
ありふれた呼び方がしっくりくる。
斬り伏せるという行為は、きっと命を刈り取ることへの暗示。
見えていたあの光景はいつもの高架下での出来事ではなく、あの世とこの世の混ざり合った風景だったのかもしれない。
けれど首に当てられた、あの鋭利な刀身の冷たさは…。
季節は夏へと廻った。
また僕は帰宅途中に例の高架下を歩く。
クールビズのノーネクタイ姿で熱帯夜の胡乱さを感じている。
どこかのコンビニで涼みたいとも思ったが、家で冷えたビールを喰らう様子を想像して、ぐっと我慢をする。
保存している冷凍食品の中からツマミになりそうなものを思い出していく。
(枝豆、餃子、焼売、唐揚げ、あとは――――、
カコン、と木製の音が鳴る。
身体がビタリ、と硬直した。
晩酌のメニューを考えていた空腹感と合わさった、固い唾を飲み込む。
そろりと自分の後ろを覗く。
いた。
彼女がいた。
服装は同じだが、今回は烏天狗の能面を着けている。
「本日、落命のご予定はございますでしょうか?」
心臓を締め付けられる。
暑気による汗だけでなく、当たり前のように冷や汗も流れてくる。
上半身は一瞬でぐっしょりとなった。
「…分かりません」
また僕は彼女を背中に走り出す。
肺が上ずって呼吸が難しい。
こんな状態ではすぐに追いつかれてしまう。
それでも全力で手足を振った。
脳への酸素が不足してか、目の前がチラチラする。
唾は粘液のように喉の奥に絡みついてくる。
この前身代わりになってくれたネクタイは、今日は無い。
意識を後ろに集中させると案の定、
カコカコカコカコカコカコカコカコカコ――――!
下駄の音が背後から響き渡る。
(くそっ! どうして! どうして――――!!)
自分の軽率さを心の中で罵倒する。
(イヤだ! 本当にイヤなんだ!)
走りながら、天の星を仰ぐ。
(…イヤなんだ! ――――この状況を愉しんでいる自分が――――!!)
口元に手を当てる。
醜く歪んだ口の端から涎が垂れている。
喉に流しきれない分が溢れて、首元まで伝う。
吐き出す吐息は、死への恐怖と、彼女への興奮で出来ている。
血流が下半身で沸騰している。
おかげで頭は真っ白だ。
だけど身体は生存本能に従って前進するのをやめない。
…死を感じれば、生も実感できることを知った。
…死の冷たさが、生の温かさを伝えてくれた。
…死の無機質さが、生の華やかな彩りを教えてくれた。
だけど、今ここで生と死の境界線を走っていることに、えも言えぬ愉悦を感じてしまっている!!
生存への執着が身体を突き動かしつつ、精神は死への甘美を欲している。
自分が走っているところは、いつもの暗がりの高架下か、生と死との綱渡りか、現世と常世との狭間なのか。
あれから帰宅の道をあえて変えなかったのも、きっとこの感覚を味わいたかったからだ。
後ろから軽快な下駄の音が聞こえる。
今度もきっと僕は組み伏せられて、首に伝わる金属の冷たさと、じわりと感じる体温と、魅入られる妖艶な肢体と、狂うような淫靡な香りを味合わされるのだろう。
今、僕は、人生の内で極上の快楽の中にいるんだ!!
「あぁ…、今日が、――――落命の予定でもいいや――――」
「少しエッチなホラーがあってもいいじゃない。それが自由と言うものだ」
カギ括弧で書くとどんな妄言でも何でも、歴史的な言葉に見えてしまいますな。
秋津島 蜻蛉です。
ちなみに見るからに自分好みの存在であったとしても、あんな物騒なモノに遭ってみたいと思います?
私はあんまり嬉しくないですね。
リビドーを目的にした行動は、大抵ロクなことになりませんし。
その意味でリスクを負ってまで行動に移す、電撃喰らうダーリンや女性にダイブする孫、モッコリ市街狩人には尊敬を禁じ得ません。
しかしまあ、エロイ場面を書いてる分には、大変楽しうございましたが。
(爽やかさ全開の満面の笑み)
皆さんも知らない人に、付いて行ったり、付いて来られたり、お互いに追いかけっこしたりしないよう注意してください。
では皆様、ご自身の精神の正常性を含めた身の回りの異変に、ご用心を。
【完結済み短編『辰巳 虚の”キョウセイ”捜査』も、ご賞味いただければ幸いです。】