フィリップ王子
……まるで、遠い空で静かに輝く月のようだ。
それが私のレティシアを見た第一印象だった。
このファルシオン王国のたった1人の王子として育ったフィリップは、10歳で婚約者が出来た。
その婚約者はこの王国の筆頭公爵でありこの王国で1番財力を持つ最大派閥の令嬢レティシア スペンサー。
国王夫妻である両親からは彼女を一生大事にしなければならない、そうすればお前は国王として一生平穏に過ごしていけるだろうと言われた。
この王国の将来の国王である私が、公爵令嬢1人を大事にしなければこの先の人生が成り立たないというのか?
両親の言う事に少々首を傾げながらも『貴族や国民に慕われる国王になれ』という教えのもと、とりあえずそれを受け入れた。
……15歳から学園に通う頃には高位の貴族ほど喜怒哀楽を表に出さないようにするものと理解したが、それまでの私は婚約者の事は冷たい理解の出来ない存在としか思えなかった。後から思えば、レティシアは幼い頃から王妃教育を施された完璧な淑女だったのだが。
そしてこの王国のたった1人の美しき王太子である私にはたくさんの令嬢達が近づいてくる。そんな私が『婚約者の事を理解出来ずに悩んでいる』と漏らせば、彼女達は私を心身共に癒してくれた。
「フィリップ殿下。……あまりにお遊びが過ぎますとお立場を悪くされます。最近はスペンサー公爵閣下の殿下に対する視線がかなり厳しいものになっております」
当時14歳の王太子たる私にそう苦言を呈して来たのは、学園を卒業して間もない伯爵家の五男アレク。伯爵家の後継になり得ないだろう彼は幼い頃から身体を鍛え私付きの護衛の1人となっている。
「……分かっている。父上からも言われたよ。スペンサー公爵家を決して怒らすなとな。……全く、父上も公爵家程度に怯えて気を遣ってどうするのか。最大派閥だというのは分かっているがそれならばその反対派閥にでも力を与えてやれば良いだけの話ではないか」
実は私は国王たる父にも同じ事を注意されたばかり。王家に楯突く貴族など力を取り上げてしまえば良いではないか。……全く、父上は甘いのではないか?
その後もアレクは何か言っていたが、私はスルーした。婚約者には最低限の礼儀を以て対応すればいいのだろうと。
そんなある日私は定例の婚約者とのお茶会に行った。
私はその日のレティシアを見て何やら違和感を感じた。いつもは冷たいながらも微笑みを浮かべているのに、今日はそれがないのだ。だが私はいつものように当たり障りのない会話をした。……するといつもは冷たい笑顔で私の話を静かに聞いているだけだった彼女が無表情で言った。
「フィリップ殿下。私にそれ程気を遣わなくて宜しいのですよ。気がお乗りにならないのならこのお茶会もやめて良いのです」
……私は自分の心を言い当てられた気がしてヒヤリとした。そしてレティシアを見ると、静かに冷たい目でこちらを見ている。……これはまるで軽蔑の眼差しではないか? 私はまるで雷にでも撃たれたかのような衝撃を受けていた。
「気乗りしないなど……そのような事、あるはずがないではないか。私はこの時間を楽しみにしているのだから」
私は少し動揺しながらもいつも令嬢方に慰めて貰う時の、可愛い男を演じながら言った。
「ふふ、いつもつまらなそうにしてらっしゃるのにお口が上手くていらっしゃること。……それではこちらから申し上げますわ。自分がつまらないと思っている相手も同じくらいつまらない思いをしているという事。……とりあえずお顔も合わせましたしこれで今回の目的は果たせましたわよね? ……それでは失礼いたします」
そう言ってレティシアは実に美しいカーテシーを披露した後立ち去って行った。
私はレティシアの姿が見えなくなっても茫然とその方向を見ていた。
……え。
これはなんだ?
私は、軽くあしらわれ置いて行かれた、という事なのか?
しばらく理解が追いつかずレティシアの去った方向を見たまま固まっていると、後ろから声がかけられた。
「……殿下。ですから申し上げましたでしょう。ご婚約者様は大層お怒りだという事ですよ。これに懲りましたらこれからは……」
護衛の1人、アレクだった。
しかし私は茫然自失となりながら、ポツリと呟いた。
「…………素敵だ……。なんと……素敵なのだ……。彼女に、レティシアにもっと詰って欲しい。あぁ、その冷たい目で私を見つめながら先程のように私をキツく叱りつけてくれ……!」
「…………は?」
私の呟きに、アレクは驚き医者を呼んだ。
それからの私は、もうレティシアに夢中だった。それ以来彼女に向けられる冷たい視線や刺すような言葉はむしろ私の喜び。レティシアの全てが私の心を鷲掴みにした。
もっと。もっと彼女に詰られたい。あの冷たい目で見詰められ詰られるとゾクゾクする。
しかしあれ以来余り私と会おうとしてくれないレティシアに会う為には、彼女やスペンサー公爵家に認められなければならない。それで私は帝王学や王太子としての仕事にも真剣に取り組むようになった。両親や周囲の者達は大層喜んだ。
そんなある日、私はある侯爵令嬢に声をかけられた。
「フィリップ殿下! ……お助けくださいませ……! 我が侯爵家は今危機に瀕しているのです」
……以前、私を慰めてくれた事のある令嬢だった。聞けばあれからスペンサー公爵家に目を付けられ家業の商売は悉く行き詰まり、侯爵家は火の車状態だそうだ。
「……きっと、レティシア様の差し金ですわっ! 殿下と私の仲を妬いているのです!
……ねぇ、殿下? お願いでございます。我が侯爵家を苦しめるあの女に鉄槌をくらわせてやってくださいませ!」
侯爵令嬢は私が彼女の侯爵家を助けると信じているようで上目遣いで私の手を取りそう言った。
「……それは大変だったね。しかし私が婚約者に鉄槌? なぜそんな事をしなければならない?」
私が淡々と言いながら手を少し乱暴に払うと侯爵令嬢は「え」と言って固まった。
「家の商売の事は、お父上の商才が無かったとしか言いようが無い。これから家族力を合わせて取り組むしかないね。……では頑張って」
「ま……ッ! お待ち下さい! だって私達は……、恋人、でしょう? あの日、殿下は私の手を取ってくださったではありませんか……!」
「何を言っている? 以前慰められた事はあったが、恋人などと……。しかも私に婚約者がいる事は貴女も初めから知っていただろう?」
「そ……そんな……。酷い……酷いですわっ! ッ! ……私、他の方に言いますわよ? 皆に言いふらしてやりますわッ!」
「自分は婚約者がいる王子に声を掛け捨てられたと? 私に婚約者がいる事は周知の事実。周囲は貴女が私に振られた腹いせで言っていると思う事だろう。そんな恥知らずな事を言う令嬢はこれから先婚約者を探すのも苦労するだろうね」
「……! ……だから、お父様は王子に夢を見るなと……。これ以上スペンサー公爵家を怒らせてはいけないと、そう仰ったのね……」
侯爵令嬢は絶望した様子でその場に崩れ落ちた。
……それから、その侯爵令嬢を社交界で見かける事は無かった。
「アレク。お前に頼みがあるのだが」
私はレティシアが逆恨みされてはいけないと思い、私の護衛の1人であるアレクをスペンサー公爵家が持つ商会に潜入させた。近くでレティシアを守りそして愛する彼女の様子を報告させる為だ。
アレクは意外にも商会の仕事が合っていたらしかった。目立たないようにしているにも関わらずレティシアの目に留まり彼女が始めた小さな商会の責任者に任命された。私としてはレティシアのより近くにアレクを置く事が出来、詳しく彼女の様子も聞けてとても満足していた。
それから2年が過ぎ、私達は王立学園の学生となった。私は相変わらずレティシアの冷たい態度に惚れ込んでいたが、どうにかしてもっと冷たく詰って欲しい欲求が高まっていた。
アレクからの報告でレティシアに商売の才能があると聞いていた私は、商売に関する勉強もするようになっていたのだが……。
そこで見つけた、ある子爵家の不正。
その子爵家の娘は同じ学園の生徒で、王子である私に色目を使ってきていた女生徒の1人だった。
……その時、私は閃いたのだ。
この子爵家の令嬢と付き合うフリをしていれば、レティシアはヤキモチを焼き私をあの冷たい目で見ながら詰ってくるのでは無いか? そして最終的にその子爵家の不正を暴き、娘にはその為に近付いただけで愛しているのは貴女だけだと説明すれば、レティシアは私のその手腕と愛に惚れ直すのではないか、と……。
実際最初はこの作戦は功を奏し、私はレティシアに冷たく詰られるという念願を何度も叶えた。……ああ、私を見詰めるあの冷たく美しい空色の瞳が堪らない……。
私はそんなレティシアを見たいが為に、レティシアや周囲から忠告を何度もされたにも関わらずあの子爵令嬢と更に仲良くし続けた。あの子爵令嬢がレティシアに何かを仕掛けては倍返しにされるのをゾクゾクしながら見ていた。
私はそれがレティシアが私を愛して妬いているからだと考えていたが、反対にどんどん彼女の心が離れていっているなどとはその時は考えてもいなかったのだ。……そして愚かにもその子爵令嬢との危うい関係にも溺れていた。
……そう、その時の私はそれが愚かな行動だという事を全く分かっていなかった。
まるで上流で降った大雨のように知らぬ間に大きく川の流れが変わってきている事に、王子たる私や国王夫妻は気付いてはいなかった……。