虹を作る
ミウは虹を作る仕事をしている。雨が上がった後、すばやく空に登って七色の水彩絵の具を均等なアーチ型にすべらせていくのだ。七本の筆を同時に操るのは難しく、ミウはまだ空の半分しか彩ったことがない。
「無理するなよ、適当でいいんだからさ」
赤いジャージを着た男の同僚が言った。この人はミウと同じ時期に働き始めたが、七色の制服をどうしても着たくないと言い、虹作りから下ろされてしまった。今は毎日赤いジャージ姿で、はしごの上げ下げやぞうきんがけをしている。
ミウははしごを登るのが得意だ。雨粒がついていても怖くない。さっと駆け上がり、弾みをつけて空へ飛び出すと、あとはもう足場がなくても走れる。広い空に魚を泳がせるように色を乗せるのも好きだ。いつか空の向こう側まで、完全なアーチを描けたらいいと思った。
「ミウ、オレたちいつからここで働いてた?」
「え? ずっとよ。私たちはずっとここで虹を作ってるわ」
初めてここへ来た日のことは覚えている。この男と一緒に面接を受けて、どちらも高いところを怖がらなかったのですぐに合格した。それより前のことは覚えていない。だからずっとここで働いているのと同じだ。
「ミウと一緒で良かったよ」
「そうね。あなた一人じゃ虹が作れないもの」
それでも男は役に立った。他の作業員のように虹色の服を着ていないので、戻りたくなったら男の赤い服を目印にすればいい。はしごのある場所にいつも立っていてくれるので、足元が見えにくい時も安心だ。
「それじゃ、今日も行ってきます」
「よく働くね。オレは適当にやってるよ」
雨上がりの空は綺麗だ。お菓子を散りばめたようにきらきらとして、懐かしいような寂しいような色をしている。そこに虹の七色を乗せると、空が笑うように光を返す。つい夢中になって走りすぎると、空が暗くなって警告してくれる。手元が狂う前にはしごへ戻るため、ミウは空の色と虹の色を見比べながら筆を走らせていく。
今日は一段と空が冴え渡り、どこまでも描けそうな気がする。ミウは手の力を適度に抜き、七本の筆の間隔に注意しながら走った。このまま綺麗な半円を、いやひょっとしたら正円を描けてしまうかもしれない。
「ミウ!」
呼び止められても、最初は止まりたくなかった。それほど今日は調子が良かったのだ。
「ごめんなさい。私急いでいて」
「ミウ。今日は雨が降りますよ」
振り向くと、そこにいたのはとても小さな少年だった。人形のような、妖精のようなほっそりした姿で、薄い雲を足場にして立っている。
ミウは一瞬で頭の中身を全部こぼしてしまったような気がした。そして、飲み慣れたミルクを注がれたような気がした。
「マユキ……先輩」
どうして忘れていたんだろう。毎日会っていたのに。わたあめと戦ったり、グラタンから逃げたり、スミレネズミに占拠された学校で一緒に生き残ったり、たくさんの冒険をともにしてきたのに。
「久しぶりですね」
マユキ先輩は言った。初めて会った時と変わらない、風のように澄み切った声だ。
* * *
ミウが小学校二年生、マユキ先輩が三年生の時に二人は知り合った。学校の庭でイクラを育てているマユキ先輩は、変わり者だけれどいつも優しかった。アザラシ先輩やウサギ先輩と、三人で喧嘩をしたりいたずらを共謀したり、時にはミウを助けてくれたりもした。
「そう、私は小学生……なのよね」
マユキ先輩は三月で小学校を卒業し、今は中学一年だ。つまりミウは六年生ということになる。でも、学校はどこにあるのだろう。
「そんなのどうにでもなりますよ。それより今日は雨です」
「でも私、学校に戻らなきゃ。アサちゃんやケイタが待ってる。リネンくんも、もしかしたら来てるかも」
友達の顔が次々に浮かんだ。不登校で何年も会っていないクラスメイトのことまで。
マユキ先輩は首を傾げた。
「僕はここで気象予報士をしてますけど、何も問題ないですよ」
「えっ。中学は?」
「戻ろうと思えば戻れるでしょう。それよりもうすぐ雨が降ります」
マユキ先輩は、今はあくまでも気象予報士らしい。ミウは学校への道を思い出そうとした。空をたどっていけば戻れるだろうか。学校にはまだ、マユキ先輩の作った池があるだろうか。
足元の空がくすんでいく。ミウの描いた虹が薄れ始め、じわじわと暗い色に侵食されていく。
「いけない!」
雨雲が近づいてくる。雨に当たると、ミウは空にとどまれなくなる。虹もはしごも見失い、雨の一部になって落ちてしまう。
「こっちです」
マユキ先輩が手を引いてくれた。そこには白い雲の道があり、まだ走ることができた。ミウは絵筆を握りしめ、雨雲の重い気配を背中に感じながらマユキ先輩に続いた。
「学校に戻れば……」
学校は安全だ。落ちても受け止めてくれる。雨もしのげる。わからないことは教えてもらえる。友達と笑い合える。そうだ、学校へ行けばいい。
ミウが顔を上げると、黒い影が頭の上まで迫っていた。
「ミウ!」
マユキ先輩に引っ張られ、ミウは白い道に屈んだ。大きな影が張り付くように近づいてきて、おい、と言った。
「そんなとこで丸まってると食われるぞ。俺に」
* * *
中学の制服を着た、大柄な少年だった。声には凄みがあるが、目のぱっちりした顔には愛嬌もある。雨雲ではないとわかり、ミウは心からほっとした。
「またサボりですか、アザラシ」
マユキ先輩が呆れたように言った。アザラシ先輩は大きく口を開けて笑い、息が突風のようにミウとマユキ先輩に吹きつけた。
「お前に言われたくねえよ。今日の給食つけめんだったぜ」
「つけめんっ! ……いえ、それはどうでもいいです。アザラシは働いてないんですから、学校に居なきゃだめですよ」
「あーやだやだ。ますます理屈っぽくなって、だからモテないんだよ。ミウだってお前なんか」
ざざざ、と不吉な音が二人の声を遮った。雨雲が襲ってくる。白い道を消し去りながら、ミウたちにどしゃぶりの雨を浴びせかけようとしている。
「アザラシ先輩! 雨を曲げてください!」
「は?」
「ああ、それがいいですね。お前の馬鹿力が役に立ちますよ」
雨が頬すれすれに迫り、舌のようにかすめる。お願い、とミウは叫んだ。
アザラシ先輩が雨煙に包まれ、大きな灰色の姿に変わる。大きな目に長い髭、ぺったりとしたひれ足を持つ、恐ろしげなアザラシの姿だ。
アザラシ先輩は両手を広げて雨を受け止め、遠くに投げた。……ように見えたが、つるりと腹が滑り、雨の塊をミウたちのほうへ投げつけてしまった。
「バカー! なんでもっと腹を引っ込めておかないですかー!」
とてつもない圧力で後頭部を押され、もんどり打って倒れながら、ミウは思わず笑った。マユキ先輩とアザラシ先輩の言い合いを見るのは二人の卒業以来だ。
その声も雨に包まれ、聞こえなくなる。耳にも目にも雨が流れ込み、自分の中でも雨が降っているようだ。空を転がり、流され、導かれるように体が移動していく。落ちていくのだろうか。もう戻れないのだろうか。
ミウの頭に浮かんだのは、学校ではなく、空の端から端まで彩る大きな虹だった。
そうだ。虹が描きたい。落ちる前にもう一度、虹が描きたい。
握りしめた絵筆が水玉の傘に変わった。雨を浴びて大きく膨らみ、ミウとマユキ先輩を乗せてふわりと浮かび上がった。
「ミウ、あそこ」
マユキ先輩が空の一角を指差した。暗い空の中にぽつんと赤い光が灯っていた。
* * *
赤いジャージの男はミウとマユキにバスタオルを渡し、すごい雨だな、と言った。はしごを降りると、雨は余計に激しかった。
「帰ってこれてラッキーだったじゃん。普通なら落ちてるぞ」
ありがとう、とミウはタオルで髪を拭いた。二つに結ったシニヨンがほどけかけてしまったが、絵筆は七本とも無事だ。
マユキ先輩は黙ったまま、男の顔をじっと見た。
「ミウ。こいつ、最初からこんな顔でしたか」
ミウは絵筆から男の顔に目線を移した。当たり前のようにずっと見てきた顔だ。つかみどころがない表情で、時々いたずら気味に笑う、切れ長の目をした魔法使いのような男。
この人を知っている。ここで働くよりずっと前から。
「ウサギ先輩……?」
違う。ウサギ先輩は赤いジャージなんて着ない。でもこの顔は確かにウサギ先輩だ。手品のように物を出したり消したり、時には人から奪ったり、自分のウサギ穴に仕舞い込んだりする、マユキ先輩やアザラシ先輩の悪友だ。
「また人のものを盗んで!」
マユキ先輩に詰め寄られ、ウサギ先輩は鼻で笑った。
「盗まれるほうが悪いんだよ。オレじゃ面接受からないし、こうするしかなかったんだ」
「本物はどうしたんですか。まさかアザラシの餌にしたんじゃ」
「人聞きの悪いこと言うなよ。素っ裸にして捨てておいたからとっくに連行されてるだろ」
「なお悪いです! ミウの知り合いになりすますなんて、お前はどこまで……」
あの、とミウは二人の間に入って言った。
「よくわからないけど、ウサギ先輩は私の同僚なんですね? そしてマユキ先輩はこの近くで働いてるんですよね。アザラシ先輩も時々来るから、またみんなで会ったりできるんですね」
「そうですよ。残念ながら」
やった、とミウはつぶやいた。
「やった……やったー! また会えた……また会えたんだ、やった!」
「大袈裟ですね。僕たちなんていつでもいるじゃないですか」
「そうだよ。まあマユキは小さすぎて見づらいけど」
ミウは二人の手を取り、くるくると回った。いつの間にか雨が止み、ミウの描いた虹の切れ端が夕空のすみに光っていた。
* * *
「どうした、ミウ」
同僚の男に声をかけられ、ミウははっと顔を上げた。雨が止むのを待っているうちに、すっかり夕方になってしまった。はしごはまだ少し濡れているけれど、今から虹を描きに行っても間に合うだろう。
「無理するなよ。途中で曲がったり間があくと厄介だからな」
赤いジャージを着た男は、黒々とした鋭い目でミウを見た。そうだ、この顔だと思い出す。この目の光と赤いジャージを目印に、いつもミウははしごまで戻ってくるのだ。
「夢でも見てたのか」
「ううん、そういうわけじゃ」
「慌てなくていい。明日にしたっていいんだ」
ミウは首を振った。つかみかけたものを離してしまったような、探していたものを忘れてしまったような、妙な気分だった。
「私……もう戻れないのかな」
「はは、大丈夫だ。お前はいつでも戻ってきたじゃないか。俺のはしごに」
男の言葉が心強いような、どこか違和感があるような気もした。
ミウは空を見上げた。
虹を描きたい。空一面を覆い尽くすほど大きな虹を描いて、会いに行きたい。忘れてしまった大切な人たちに、もう一度。