湾の街と少女と依頼
潮騒が迫る。
轟轟と響くそれが私の左右から迫りくる。嵐の中にも似た感覚。でも私はそれを知覚していない。目の前の景色は滲んでいる。ぐらぐらしている。体に力が入らない。ここはどこで私は誰だろう。男なのか、女なのか。人間なのか、物なのか。
ぐらぐら、ぐらぐら。
波の音が止まない。
目が覚める。足の下から来ていた規則的な体の揺れが収まり、どこか遠くから男の声でアナウンスしているのが聞こえる。間もなく終着駅です、降車のご準備を。
長い長い旅もようやく一区切りを迎える。体を伸ばすと、ぱきぱきと体中が鳴った。ちょっと恥ずかしいが、どうせ周りの椅子席には殆ど客もいない。前の駅から4日も駅に停車していない。そんな長い時間を椅子席でというのはちょっとした苦行だ。実際、体中が痛い。ホームに降りたとき変な歩き方になっていそうだ。
列車は信号で止まっていたみたいで、動き出しても街はまだ見えなかった。長距離をはしる蒸気列車の駅は噴煙や騒音の関係で街の外縁にあることが多いから、まだ目的地の様子はよくは見えない。車窓はいくつかの甲柱を背景に街の遠景を映していた。
甲柱。長旅で色々な場所を巡って来たけれど、どうやらこの天まで届きそうな鉄塔たちはここにもあるらしい。世界中にあるこの壊せない塔は文字もない昔からあると言うが、ありがたみといえば高いところに物や建物を置きたいときに支えとして使えることくらい。古い御伽噺ではあの鉄塔たちは天上の世界を下から支える柱で、上の世界では神様や選ばれた英雄たちが住む黄金の国が広がっていたりするけれど、真実を確認した人はいない。
それはさておいて、この先の街、アルカスヴァレーは私の生まれたユーリカじゃない。国境は既に幾つか超えたけれど、外国の地に降りるのは初めてなので不安は募る一方だ。宿屋で言葉は通じる?食事は?駅から出た瞬間に追いはぎに遭ったりしない?
でも、そうだとしても。ぼくは行かなければならない。今の自分にはもうこの旅しか残っていないのだから。父も、サラももういない。
列車が駅に滑り込む。
重連の鉄塊が吐き出す蒸気で煙るホームは人で賑わっている。この駅は郊外にあるが、他のホームに出入りする列車は街の中を巡回するものもあるようで、私のような旅装の人間の方が珍しい。
あっちの一つだけ背の低いホームに停まっているのはトラムだろうか。行き先表示は、大丈夫。ちゃんと読める。あっちは港湾区経由の中央広場行き。向こうは遺跡跡。
ホーム端の改札口で切符と通行証が求められる。どちらもちゃんと用意してある。
「切符と通行証、もしくは身分証を拝見」
「どうぞ」
「アミリエ・エイダムさん。フム、ユーリカからか。随分遠いね。アルカスでの滞在目的は?」
「人に会いに」
「その人は親戚か何か?」
「父の知り合いです。わたしは父の代理で」
「なんと、遠くからご苦労さま!」
通っていいよと、人の好さそうな入場管理員の許可をもらってほっとする。滞在目的はすこし嘘をついてしまったけれど。
駅前広場まで出ると、街の地図が大きく描かれた看板があった。地形はかなりデフォルメされているが街全体の主要な道と施設は網羅してあるようで、目的地までの道のりも地区の名前、地番などは知っていたのですぐに見つけられた。よかった。道は続いているからここからは歩こう。お金は節約したいし、でも。
「お腹すいたなぁ・・・」
先に目的を果たさなければ。目指す先がどこなのかは地図看板を見てすぐに分かった。海岸線の更にむこう。この街は突き出た半島がふたつ、頭を突き合せたところにあるので、海岸線は半島に囲まれた内海のものと、半島から大洋を望むもののふたつがある。目的地は今いるのと反対側の半島にあるみたいだ。そこへは湾を跨ぐ巨大な橋を通って行けるようだけれど、距離はかなりある。目的地に着く頃には夕方になっているだろう。
だいじょうぶ。まだ平気。
幸い、荷物は着替えの入ったバックが一つだけ、疲れ果てる前に目的地には着くだろう。まずは坂の街並みを海に向かって下るところからだ。ほつれの目立つようになってきたコートを強い風が煽る。海風が寒い。顔を隠す意図でフードを目深に被っていたが、裾を手繰ってしっかりと羽織直した。
橋の入り口に辿り着くまでには足がくたくたになっていた。この街は正面に湾を見据えて、そこに下っていく斜面の上にある。さっきまでは斜面の上側から降りてきたずっと目的地の方向が見えていた。おかげで方向を見失うことはないのでありがたい。見下ろす、というよりは目の前一杯に広がる湾を一本の橋が貫いている。相当に長い橋のようで、橋の上には商店街を含む街までもが広がっているようだ。
歩く。歩く。歩く。歩く。歩く。
坂の街並みを下りきり、潮の匂いのする倉庫街と桟橋を抜け、大小の船が身を休ませる港を横目にする。橋の上は土産屋など商店街の並ぶ下層ではなく、上層の通過専用の車道の脇を進んだ。橋の半ばまで来た頃、街灯が点きはじめた。いそがないと暗くなってしまう。行き先の店舗の営業時間を知らないが、都合よく夜遅くまで開いているとは限らない。それに初めての街を夜一人で歩くのは唯々怖かった。
橋の上で今一度足に力を入れて進もうとすると、頭上の高いところで大きな音がした。飛行機。実は橋の渡りはじめの海岸のあたりから飛行機の出すエンジン音はよく耳にしていた。向かう先、つまり湾の外側を構成する陸地には大小6つ以上の空港があって、殆どが現役らしい。夜になれば流石に機数も減るのだろうけれど、少なくとも昼間の間は空を仰げば必ずどこかに航空機が飛んでいるのが見えた。
今、ぼくが見上げたのはその飛行機の出す音が特別だったから。タービンブレードの翅音は遠く響く遠吠えに似て聞こえた。逆光で黒く染まった機影はぼくを追い越して、高度を下げていく。主翼に一対のプロペラを後ろ向きに備えたその戦闘機のパイロットが私の探し人、のはず。
父の手紙にあった通りならば、彼の名前は――、
その看板――髑髏の横顔を抱く妖精の切り抜き細工の前に着く頃には、辺りは暗くなっていた。
木造やパステルカラーに調色された塗壁など多種多様な様式の並ぶ街並みに溶け込むようにしたレンガ造り2階建ての建物。ストリートに面する入り口は間口も狭く、とてもそうは見えないがこの街有数の傭兵商会だった。
鉄鋲のされた扉に取り付けられた覗き窓からは灯りが漏れている。意を決してノブを掴み、商会に足を踏み入れた。
外から見たほどに店内は狭くはなかった。エントランスは2階ま吹き抜けており、待合スペースの奥に受付がある構造だった。受付の壁にかけられている大時計は8時を回っている。でも、幸いなことに受付には人がいたし、他にもまばらだが依頼者と思われる人影も散見される。
「ご用件は?」
待つこともなく受付に私の番が回ってきた。
木製のルーバー越しに見えた受付係の人は大柄な黒い肌の男性だった。仄かに燐光を漏らす黄金の瞳が隙間から値踏みするような視線を投げかける。
「依頼で来ました」
「指名ですか?それとも当会所属の傭兵へ広く募集をご希望で?」
「指名でお願いします。此方にレーニィ・ブラックウッドという航空傭兵は在籍しておりませんか?」
傭兵の名前を出すと受付係は何かを素早く手元のメモ用紙に書き込むと、それを二つ折りにしてこちらに差し出してきた。
「右手奥の階段を降りると木製の扉があります。その先にある酒場のマスターにこの紙を渡して下さい。お探しの傭兵が今この空港に居ればすぐに席を手配してくれるでしょう」
「ありがとうございます」
メモ用紙を受け取り、指示された順路を辿って行くと落ち着いた灯りと食欲を誘う匂いのする部屋に辿り着いた。受付の人は酒場と言っていたが、バーレストランという方がそれらしいような気がする。カウンターとテーブルの席、どちらも半分ほど埋まっていた。当たり前だけど皆大人で、ぼくのような子供はいない。今一度顔を隠すようにフードの位置を気にして、カウンターに立つ壮年の男の人の前の席に座った。
「ご注文は?」
「えっと、少し待ってください。それとこれをお願いします」
メモ用紙を渡すと、その人は中身を一瞥すると顎鬚を一撫でしてから店の奥に向かって2,3言話した。間もなく来るからあっちで待つようにと、壁際のボックス席を指さした。
「依頼の話など、秘めやかに談じるときは皆あそこに座るのです。コーヒーをお出ししますよ。飲み終わる頃には彼も来るでしょう」
ボックス席は確かに、座ると少し高めに作られた衝立が周りからの視線を遮る。よほど大きな声で話さなければ会話の内容は空間に溶けて消えてしまうだろう。
ぼくは促されるままに席を移り、そして不意に意識を失った。