第三話
ウォルムはその日も朝から酒場の一角に陣取り、ひたすら酒を呷っていた。酩酊するまで胃に酒精を納め、死なない程度に食事を口にする。
既に一年間繰り返した。ゆっくりと心身が腐っていく。酒を飲んでいる間は現実や自己嫌悪、祖国に関する忌まわしき記憶を濁らせていてくれる。ウォルムが縋る対象は神などという傍観主義者では無く、意識を朦朧とさせてくれる酒と煙草だけだ。
テーブルには酒瓶が並べられていく。何本目の蒸留酒を空けた時だっただろうか、不意に目が霞んだ。違和感に眉を顰め目蓋を押さえるが、止まるどころか、それは痛みに変質していく。
「う、っう゛、ぁあ」
遂には両眼が焼け付くような痛みに襲われた。
「っ、ぁあ、眼、がッぁ」
握り込んだ机の縁が軋み、激しく吐息が吐き出される。熱した五寸釘で眼球を掻き混ぜられる様な耐え難い痛み、そして激痛はかつての記憶も呼び覚ました。同種の痛みは過去にも経験している。忌まわしきダンデューグ城の記憶の中にそれはあった。見ない様にしていた《大暴走》の惨劇が脳裏に過っていく。
「おい、大丈夫か?」
朝の為、他の客の気配は無く、慌てて厨房から飛び出した亭主のガングートが呼び掛けてくる。
「問題な、い」
余計な手間を掛けさせまいとしたウォルムであったが、ガングートはそれを否定した。
「どう見ても大丈夫じゃない。眼が痛むのか」
ウォルムの眼を覗き込んだ亭主が息を飲むのが分かった。グラスに反射した瞳孔はかつての戦場の様に縦に細められ、まるで生き物のように好き勝手に揺れ動いている。
「い、今すぐ教会の治療院に行って、治療魔術師に診てもらった方がいい」
亭主であるガングートはウォルムを宥め賺す様に言った。一年の付き合いだが、面倒見が良く善意で言ってくれているのが分かる。
「あ、っう、分かった。場所は、何処だ?」
ウォルムの行動範囲は小さく、この一年間、寝床程度の矮小な貸部屋、生活必需品を買う雑貨屋、そして酒を呷る為の酒場しか行き来していない。治療院の場所など知らなかった。
「大通りだ。街の中心地に向かえば見えてくる。目立つ青のステンドガラスの建物だ」
「ありが、とう」
揺らぐ視界の中で足を進める。年季の入った床が僅かに軋む。
「一人で大丈夫か?」
「子供じゃないんだ。病院……治療院くらい一人でいけるさ」
ウォルムが久しい冗談を放ち、薄い笑みを浮かべると亭主の顔が引き攣った。そんなにくたばり掛けに見えるのだろうか――。
扉を押し開けると、鬱陶しくも眩い太陽がウォルムを出迎える。白昼、それも大通りを歩くなどいつ以来か、記憶を探るが答えは出ない。
まるで吸血鬼になったかの様に、眼球が眩い陽を拒絶した。アンデッドの如き足取りで進むウォルムをすれ違う通行人が避けて通る。病人相手に良い心遣いだとウォルムは自嘲した。
「ハハ、遠い、な」
一キロメートルも無い道が、まるで万里の長城の如き長さに感じる。乱れる呼吸を落ち着かせながら、時折民家や塀に手を掛け進む。
酒場の亭主ガングートの言う通り、治療院は遠目からでも判別が付いた。白を基調とした建物で、陽光を取り入れる為に青のステンドガラスがふんだんに用いられている。
断続的に眼の痛みが押し寄せてこなければ、ウォルムは寄り付きもしない建物だった。敷地内には戦傷者の無縁墓地や銅像が建っていた。飾り気が強い門を潜り、建物の扉を押し開ける。
天井にはドーム状にステンドガラスが張り巡らされている。純粋に建物を鑑賞するのであれば、感嘆に声を漏らす者もいるだろう。だが今のウォルムには目障りな光が差し込む照明器具にしか感じなかった。カウンター越しに若い女性が腰掛けていた。受付であろう。むさ苦しい中年男性よりも見栄えが良い。
「どうされましたか」
受付の女性がウォルムに尋ねた。
「眼が痛むんだ」
ウォルムは足を引き摺り、女性に眼を向ける。
「ひっ、あ……」
受付嬢が息を飲むのが分かる。
「め、眼ですね。今、先生に確認を」
二人いた片割れが、パタパタと奥へと消えていく。ウォルムは目に付いた椅子に深く腰掛けると、背中を預ける。痛みは和らぐ事なく増していく。
「ふっ、ぅぅ、うう゛」
悩ましく息を漏らしたウォルムは腰のスキットルに手を伸ばそうとして、慌てて静止した。こんな時まで酒に頼ろうとしている。酒はそこまで万能薬ではない。
「どうぞ、先生がお待ちです」
背に受付嬢の視線を受けながらウォルムは案内された部屋に足を踏み入れる。部屋の中には古ぼけた本や瓶詰めの標本、薬草や用途不明の液体が所狭しと並べられている。その間に挟まる様に治療魔術師が鎮座していた。
「そこに座ってくれ、眼が焼け付くように、痛むそうだね」
ウォルムは指し示された椅子に座り込み答えた。
「ああ、溶けるように痛むんだ」
「どれ、さっそく」
前のめりになった治療魔術師は眼を覗き込んだ。年相応に弛みや皺が刻まれた肌が目立つ。治療魔術師は、僅かに震えると言葉を絞り出した。
「これは、まさか魔眼か? 何をしたんだ、君は一体」
今更隠す必要も無い。ウォルムは正直に答えた。
「戦争中、両眼を失って、大鬼の王、その眼を移植した」
「大鬼王の眼を? そんな馬鹿な話が」
唖然とした治療魔術師は言葉を失った様に押し黙ると長考を始める。
「まず生きているのが有り得ない。適合したのか、いや、この充血と流れ出る魔力と鮮血は、完全に適合してるとは思えない。拒絶反応で一日と持たず死ぬはずだ。それを無理やり馴染ませるなんて」
治療魔術師は思考の海に潜り込み戻ってこない。業を煮やしたウォルムは結論を求める。
「それで、治るのか」
「それを、私が? とても無理だ」
長たらしく回答を得られると想定していたウォルムだが、治療魔術師は短く治療は不可と明言する。セカンドオピニオンが必要かもしれないが、都合よく何人も治療魔術師は居ない。ウォルムが治療魔術師を、不信感を露わにして見据える。
「お、落ち着きなさい。私にはだ。魔眼を移植した治療魔術師はどうしたんだ」
ウォルムを癒した少女はダンデューグで没している。既にこの世には居らず、彼岸の向こう側に渡り、冥府へと誘われた。
「戦争で、死んだよ」
多くの言葉は要らなかった。察した治療魔術師は、小さくため息を吐くと落胆する。
「戦争か、魔眼の移植を成す治療魔術師と会ってみたかったが、既にこの世に居ないか」
治療魔術師は小さく手で祈りの動作を取った。
「その方が居れば症状の抑え込みも、もしかしたら適合も叶ったかもしれないが……」
「打つ手無しか」
「結論を急いで貰っては困る。これでも老練と呼ばれる程度には人を癒し生きてきた」
ウォルムの自嘲混じりの諦めの言葉に治療魔術師は反発した様だ。
「そこでだ。どれほど金は持っている」
世の中、金無しでは生きていけない。ダンデューグ城やハイセルクを離れる際に、現世で不必要となった者から物資や貴重品も回収した。ウォルムは魔法袋から硬貨が詰まった袋を取り出すと、机に広げる。
「たまげた。意外と持ってる」
金貨や魔法銀貨を数えると席を離れ、厳重に施錠された棚を開け放つ。中には怪しげな物品しか詰め込まれておらず、毒沼の様に濁り切った液体や七色に光沢を放つ軟膏まであった。
「あー、何処だったか、ああ、これだ」
治療魔術師が取り出したのは、赤い液体が詰まった瓶だ。
「なんだ、それは」
「目薬だよ。ヒュドラの毒までとは言わないが、大抵の毒は中和せしめ、軽度の欠損すら癒す。大森林同盟印入りの正規品だ」
「幾らだ?」
「このぐらいだ」
20年は安酒を浴びる程、飲み続けられたであろう硬貨袋から次々と硬貨が抜かれていく。
「冗談だろう」
「足元は見ていないぞ。今は亡き治療魔術師の腕と魔眼の半適合者に賞して、値引きしているくらいだ。他の都市じゃ、硬貨袋ごとでも買えんぞ」
「……信用する。痛みをなんとかしてくれ」
治療魔術師は小瓶に分けると、ウォルムの眼に液体を点眼する。あれほどウォルムを苦悩させた焼け付く痛みが嘘のように引いていく。
「正直言うと疑っていた」
副次的な効果かもしれないが、濁っていた思考も落ち着きを取り戻す。
「エルフが作った薬品だぞ。効きもする。問題はこれが抜本的な治療じゃないということだ」
「そう都合良くないか、この世界は」
「一週間に一度、目薬は一年程度は持つだろうが、症状が悪化すれば、更に短くなる。強力な魔力の消費は眼にも負担を掛ける。使用を控えてくれ」
「どの程度だ?」
「……そう聞くということは、何か持ってるな。傭兵か冒険者か知らないが、上位と呼ばれる魔法やスキルは悪化させかねない。職業柄、避けられない時もあるだろうが、覚悟して使う事だ」
「ああ、覚悟して使うさ」
敗残兵となり飲んだくれの生活に身を堕としたウォルムには鬼火の広範囲攻撃など無縁だ。街中で使えば何人の市民が灰塵と化すか分からない。
「他には抜本的に癒す方法は無いのか」
「三大国の大森林同盟には、更に効き目のある薬品があるかもしれないが、あの国の物は流通量が極端に低い。この街では手に入らないだろうな。後はあるにはあるが——」
「何か問題が?」
「癒しの三秘宝と名高い奇跡の結晶。欠損や万病ですら治癒するが、王族や大貴族ですら手に出来ぬ。迷宮都市の深層主から現れる真紅草、世界樹の樹液から精製されたエルフの妙薬、製作者も産地も分からない生命の水。万病に効き、欠損すら癒す至高の品だ。どれもまず手に入らない。聞くだけ無駄だよ」
「そうか」
神話に登場する代物という訳だ。現実的には現状維持が精一杯、一年分の目薬で持ち金の大半を消費した。同等の目薬が手に入れなければ眼から再び光が失われる。
「それから治療魔術師としてもう一つ、私も酒は好きだが、君のは度を越している。体臭が酒精そのものだ。程々にしなさい」
「安心してくれ、自棄酒するほど余裕もなくなったよ。診察ありがとう」
ウォルムは小さく笑い部屋を後にした。受付嬢が遠巻きにウォルムの様子を窺っていた。小さくウォルムが頭を下げると、受付嬢は引き攣った笑みで返答する。
「お大事にして下さい」
皮肉にも不治の病を告げられた今の方が周りが見えていた。ステンドガラス越しに青味が掛かった光が室内に差し込んでいる。
霧が掛かったかの様に混濁した意識は、薬により吹き飛んでいる。祖国を失ってから充分すぎるほど自堕落な生活を送った。これが最後の機会であるのは疑いようも無い。これからどう生きるか、真剣に考える必要がある。
実に皮肉だった。酒や煙草に溺れたウォルムを動かしたのは、愛や友情、祖国といった耳心地の良い物ではなく、耐え難い魔眼の苦しみによる物なのだ。相変わらず自身の軽薄さには反吐が出る。外は太陽が燦爛と輝き、人々は忙しなく通りを往来する。
「眩しいなぁ」
元来の性格と軍隊生活により、与えられた任務や仕事を忠実に熟すのは得意と言っても差し支えはないだろう。それが無理難題だとしても集中できる。
それが自発的に、自由に生きろと言われるとウォルムは途端に不自由になる。退廃的な生活を捨て、嫌でも前に進まなければならない。
敷地内に目を向ければ、古ぼけた慰霊碑が突き立っていた。傍には兵士と魔物が刺し違える銅像があり、かつて群島諸国による魔領の削り取りで殉職した兵士を讃えるものであった。
暫く手入れがされていないのか、ヒカリゴケが群生していた。ウォルムはスキットルを取り出すと揺らして中身を確かめる。蓋を開け放つと濃厚な酒精が虚空へと漂い、鼻腔を刺激した。
「名もなき先人へ、俺の奢りだ」
物言わぬ銅像に中身を垂れ流していく。一種の決意を示す決別であった。暫く酒は必要ない。撒き終えたウォルムは静かに歩き始めた。




