第一話
その男が酒場に入り浸り一年が経とうとしていた。無造作に伸びた頭髪は手入れが施されていない髭と繋がり、外見からは年齢の推察は難しい。
酒場の亭主であるガングートは長年様々な人間を見てきた。どうしようもない屑から、英雄譚から飛び出てきた様な冒険者。男を評価するのであれば燃え尽きた人間、それに尽きた。
朝から晩まで煙草を燻らせ酒をひたすら呷る。かと言って他の客とも会話を交わす事もなく、駆け出しや熟練の娼婦に誘われても拒絶の一言。一心不乱に酒を詰め込み、肺腑に紫煙を吸い込む姿は早死にを望むようにも、正気を失うのが目的の様にも感じてしまう程だ。
金は持っているのだけは間違いない。堕落ぶりと健康面を気にしてガングートが苦言を呈したのは数十回にも及ぶが、曖昧な相槌や譫言ばかりでまともな返事が返って来た例はなかった。
今もその男は専用席と化してしまった店内の片隅で、顔を俯けて蒸留酒を飲み干す。本来は少量を嗜むか、何かで割って飲むべき代物だ。喉を鳴らし、煙草を咥えながら虚な瞳で天井に眼を向けている。
ガングートの店は、貴族や権力者が通う様な高級店ではない。大衆店であり、日雇いの労働者や月数度の贅沢を楽しむ市民、己の腕を頼りに魔領や戦場に飛び込む冒険者が集う。当然、天井には絵画や天窓といった金の掛かる物は設置されていない。あるとすれば煙草の染みや喧嘩によって投げ出された料理の残滓が残っているぐらいなものであった。
ガングートが時折小言を呈し、ただただ酒と煙草が消費されていく。ここ一年間繰り返された光景であったが今日は一つ違った。酔いが回った冒険者の一団の中でもお調子者が男にちょっかいを出したのだ。
「なんで何時も一人で酒を飲んでるんだ、こっちに混ざるか」
「止めて、おく」
男は振り向きもせず言った。
「一人で、飲む酒なんか不味いだろう」
「それなり、だ」
「……毎日働かないで飲む酒は美味いか」
「ああ、それなり、だな」
最初は酒場に入り浸る男を揶揄う程度のものだったが、男の意に介さない態度に冒険者の怒気が膨らむ。ガングートはその様子に頭を押さえる。
「お前、舐めてるだろう」
「べつに、舐めて、いない」
亭主ガングートはBランクの冒険者だった。この群島諸国でも有数の迷宮で半生を捧げて生き残り、迷宮都市を離れ国境沿いの都市であるコペツクで店を構える事も出来た。一流と宣うつもりは無かったが、散っていった無数の冒険者達の事を思えば、成功した部類に位置するのは間違いない。
そんな死線を潜る生活の中で、幾つもの修羅場を潜り危機を感じ取る直感が鋭敏になるのは必然だった。それは引退して酒場の亭主になった今も変わらない。ガングートは助け舟を出した。カウンターから出て男と冒険者の間に割り込む。
「俺の店で揉め事を起こすな。酒の一杯でもサービスしてやる。大人しくしてろ」
「……ガングートさんが言うなら、わかったよ」
腑に落ちない態度を隠そうともせず、冒険者は席に戻った。喧嘩っ早く頭に血が上りやすい連中、かといって悪人とも言い切れない。冒険者らしいと言えば冒険者らしいそんな連中だった。
「助かった」
男は亭主に宣った。ガングートは男を救ったつもりなど無い。客であり、冒険者という括りの中で出来の悪い後輩に助け舟を出したに過ぎない。怒気を隠そうともせず、呑気にただ酒を飲んでいる。心底間抜けな後輩だった。
「別に構いはしない。この一年金を落として貰って助かってる。だが、もう少し社交的に振る舞えないのか?」
「そう、だな。……世話になってるアンタが言うんだ。気を付けるよ」
見上げた男の眼は、金色掛かった色彩の筈なのに、酷く濁って見えた。瞬間、衰えたとは言え身体が危険を察知して身構えてしまう。
「っ……良い返事が聞けて良かった」
時折見せる濁った瞳は、熟練の冒険者だったガングートの背筋を凍らせる事がある。普段は静かに大酒を飲み干す金払いの良い客ではあったが、かつての姿を知るガングートにとっては、刺激すれば何を起こすか分からない男だった。
初めて店に姿を見せた時に居た客はこの男を畏怖する事はあっても、誰一人として蔑む事や、見誤る事はない。ガングートは今でも鮮明に思い出す。外見こそ洗い流していたものの、決して拭う事が出来ない濃厚な死臭、武具に付いた無数の傷、不安定に濁り果てた眼に射られ、ガングートは言葉を絞り出すのに精一杯だった。
亭主は噂話には敏感だ。人が集まる酒場に身を置く関係上、確度は別にしても様々な情報が多面的に集まって来る。
男が流れてきた時期も考慮すると《炎帝龍》と《大暴走》により、フェリウス・旧カノア・ハイセルクが国崩れを起こした時期と大凡は一致する。
四ヵ国戦争と大暴走を生き抜きながらも、祖国が崩壊して群島諸国まで流れ着いた敗残兵、それがこの男の正体だとガングートは結論付けていた。事実、程度の差はあるものの、滅んだハイセルク帝国からの流れ者が多くいる。
ガングートは引き攣る顔を誤魔化しながら、劇薬を扱う様に店の片隅に男を押し込め、寝床や雑貨屋の紹介を依頼されてから既に一年が経とうとしていた。死臭は薄まり、危惧していたあの眼は潜まりつつある。
それなのに、それなのにだ。ガングートは理不尽な仕打ちに憤慨する。愚かな後輩共はあの眼を刺激して喧嘩に興じようとしている。喧嘩の勝敗などには興味はない。勿論喧嘩の範疇で収まるので有ればだが――あの濁り果てた眼を店内で呼び起こされるならば、忠告も酒の一杯も安いものだった。
「ご馳走様、会計を」
男は律儀に挨拶を済ませ店を後にする。酒代を受け取りガングートは見送る。
「足取りに気を付けろ。良い夜を」
「あ、ぁ」
ふらふらと店外へと出た男は腰袋からスキットルを取り出し、飲み直し始めた。近付く足音にガングートは店内へと目を戻し、溜め息を吐く。冒険者達もまるで男に続くかの様に、僅かに遅れて店を後にしようとする。偶然の筈は無かった。
「店の外だ……止めろと言っても聞かないだろう」
これから起こす行動を読まれた冒険者は、ぎくりと挙動を停止した。
「酒場に喧嘩はつきものかもしれん。それでも武器は絶対に使うな。ただの喧嘩だ。いいな」
冒険者達は間抜けな笑みを浮かべ、両開きの扉を押し除けて店の外に向かった。あの男の住居は、治安の悪いスラム街に近い。人気のない道もあるだろう。
「馬鹿な奴らだ」
止めはしない。子供同士ではないのだから、亭主はそこまで世話焼きではない。それでも願わくはあの壊れかけている男に慈悲と自制心がある事をガングートは祈った。
◆
冒険者は腹の虫が治まらなかった。普段の冒険者であれば追い回し喧嘩を売る事は無い。タイミングが悪かった。それに尽きる。今朝、冒険者の仲間が重傷を負った。荒ごとが多い冒険者にはよくある事、命があるだけ儲け物だ。気を紛らわす為に酒を浴びるほど飲み、一人寂しい男に声を掛けた。
それが舐め切った態度で返されては見逃す訳にもいかない。冒険者は舐められたらお終いなのだ。信用にも関わる上に、同業者狩りの標的にもされかねない。
一、二発殴り、詫びを入れさせたら冒険者は許してやるつもりだった。酒癖が悪く鈍った思考回路では、八つ当たりに等しい行為だと理解できるほど理性は残っていない。仲間も最初は諫めていたが、今では事の成り行きを見守る為についてきていた。どちらかがやり過ぎればストッパー役につける程度には後ろの彼らは理性が残っていた。
程なくして冒険者は男に追い付いた。裏路地からスラム街へと向かう道には深夜の人影は無い。愚かな酔っ払いや浮浪者が追い剥ぎに遭う程度には、治安が悪い地区であった。
男は、帰り道もスキットルに入れた蒸留酒を食道に流し込んでいた。濃厚なアルコールの臭いが冒険者の鼻腔を刺激する。いかれた酒飲みめ、冒険者は自身の事を棚に上げて男を嗤う。
「おい。テメェ、さっきの態度はなんだ」
冒険者の問いかけに、気怠そうに男は答えた。
「た、いど? 別に、何時も通りだ」
男は怒気を帯びた冒険者に目も合わせず、二本目のスキットルを取り出すと、喉を鳴らしながら胃に収めていく。瞬間、冒険者は怒りと酒精により顔が赤く染め上がる。
「酔ってんなら、冷ましてやるよ!!」
沸点を超えた怒りに冒険者は、地面を蹴り上げて男へと飛び掛かった。肘を畳んだ腕が伸ばされると拳が男の顎目掛けて吸い込まれていく。直撃をイメージした冒険者だが、手応えが得られない。
「なっ――」
捉えた筈の拳が空を切る。瞬間、腹部に強烈な痛みが生じ、溜め込んだ酒精が胃液と共に吐き出される。
「うぇ゛、あっう、う」
くの字に折れた冒険者を男は興味も見せずにただただスキットルを傾け続けている。起きた事象は単純であった。頭部を傾けるだけで拳を避けられ、助走の勢いを逆に利用して掌底で鎧越しに肝臓を叩かれた。
偶然では片付けられない。それだけで喧嘩慣れした冒険者は、目の前の男がただの酒狂いではない事を悟る。角度、タイミング、膂力が揃わなければカウンターは成立しない。急所である肝臓の位置、それも鎧越しに通す技量は、人間を壊し慣れている様にさえ感じる。
大した技量だった。酒場で腐った男とは信じがたい。分が悪いのは冒険者は自覚していた。それでも冒険者には矜持があり、見下す様な視線が戦意と怒りを刺激すると悪い形で作用する。
「上等だぁああ!!」
口に残った酸味を唾と共に吐き出し、冒険者は再び掴みかかった。左手で顔面へのフェイントを入れた冒険者は、足を組み替えながら下腹部を狙って右の拳を繰り出すが、男が瞬間的に間合いを潰すと肘で冒険者の顔を強打した。
鼻が折れ路地に鮮血が滴る。鈍痛に加えて冒険者の鼻腔内は大出血を起こし、息苦しさに口でしか呼吸が困難となる。
「てめぇ、っぇええ」
対峙しているというのに、冒険者に興味は無いと言わんばかりに、目の焦点はあらぬ方向を向いていた。まるで意にも介さない。冒険者という仕事柄、腕っ節には自信があった。暴力が物を言う世界だ。力の信奉者と言っても過言では無い。
それがだ。まるで冒険者が非力で相手にもならない塵芥と、そう突きつけられているかのようであった。忌々しくも未だにスキットルを手放そうともせず、中身を呷っている。激昂する冒険者とは裏腹に、客観的に様子を窺っていた仲間は背筋に寒気を感じる。まるで動きが見えなかった。
「その辺にしとけよ」
「もうやめろ」
「その眼を止めろ!! 止めろって言ってんだろ」
返事は無く男はスキットルの中身を傾けるのに勤しんでいる。冒険者の中で何かが弾けた。
「どこまでも舐めやがって」
激情した冒険者は、腰に手を回すと、鞘から勢い良くロングソードを抜いた。魔物も人も剣の前には平等であり、この一振りと共に冒険者は生きてきた。
「これでも余裕こいてられるか!! あぁ!?」
冒険者の仲間が制止に駆け込んでくる。仲間に止められるまでも無く殺すつもりは無い。ただ、何処までも舐め腐った男が態度を翻し、恐怖に慄く姿が見たかっただけであった。
「落ち着け、相手は丸腰だぞ。剣はまずい」
「街中で抜刀はやり過ぎだ」
「うるせぇっえ、引っ込んで――」
冒険者は言い終える前に口を閉ざした。臓腑が震え、うなじが逆立ち、拒絶する様に鳥肌が走る。冷え切っていた筈の路地裏の空気が熱を帯びていた。
「な、なんだってんだよ。それは」
感情が乏しかった男から可視可能な魔力が溢れ、死の気配が濃厚に放たれる。男の手には何時の間にか、血糊で薄汚れたロングソードが握られていた。冒険者としての経験で分かってしまう。虚仮脅しではない。明らかに実戦で酷使された剣に狼狽を隠し切れなかった。
焦点の合わない眼は冒険者を捉え、薄い金色の虹彩の筈なのに、酷く濁って感じられる。それだけでは無い。瞳孔がまるで魔物の様に縦に細められた。
触れてはいけない類の人種は存在する。目の前で対峙する男は、それに類する者であったと遅巻きながら冒険者は気付く。
「あ、ぁ、ああァ、戦争か? せん、そう。てきか、敵だ」
男は手放そうともしなかったスキットルを地面へと投げ捨てた。瞬間、男の身体が掻き消える。揺らめく刀身には魔力が練り込まれ《強撃》持ちである事は疑い様も無い。
冒険者は反射的に身を固め剣で急所を守る。頬と手に焼ける様な痛みが走った。斬られたと自覚した時には、冒険者の身体は地面に投げ出されている。殺される。脳が危険を高らかに叫び上げていたが、一向に身体は反応しない。身を動かそうにも、胴部を踏み砕かれて肺の空気を押し出されている。
「ああ、待て、やめろ、やめてくれっ」
「お願いだ。殺すなぁあ」
仲間の懇願と同時に、冒険者の喉元にロングソードが突き入れられようとしていた。




