第七十話 崩壊
ウォルムの目が覚めても、現実は何も変わっていなかった。変わると言えば、眼下の魔物の数が急増している事ぐらいであろうか。
「は、ァ、現実か」
ダンデューグ城には生きた人間が居ないことをウォルムは認めた。
鈍った思考を懸命に回転させる。これからどうする。既に命令を下す軍組織は崩壊、全てウォルムが考えなければいけない。
精神的磨耗を形だけは取り繕い、ウォルムは故郷への帰還を決めた。脱ぎ散らかした装備を集め、物資から押収した保存食を口内に押し込んで行く。
小麦、干し葡萄、油を押し固めた保存食は、唾液や水分をウォルムから奪い取っていく。水で流し込むが今度は胃が悲鳴を上げる。
「ぐっ、ごほっ、ぅウ゛」
胃液が逆流しそうになるのを懸命に抑える。口内に広がる酸味は、最悪な味だ。酒を呷りたくなるのを我慢したウォルムは部屋を後にする。
斧槍や短剣、武具の一部、硬貨を遺骸から探し集める姿は、屍肉を漁る魔物とそう大差はないとウォルムは自嘲した。物資を集め終えたウォルムは魔法袋に納めながら天守の屋根に登る。
山々を削り、谷を崩し、河川すら関係なく抉り取られ、巨大な一本の道が出来上がっていた。炎帝龍の仕業なのは間違いない。同時にあの道を辿れば祖国へ辿り着く。
道中では大量の魔物と遭遇する。本来であれば躊躇する選択肢であろうが、今のウォルムには小事だった。何かしていない時間は苦痛であり、殺し合いに興じていた方が何も考えずに済む。
武運拙く討ち死したとしても、孤独なハイセルク兵が誰にも看取られず果てるだけだ。実に分かり易く、敗残兵たるウォルムには似合いの末路だろう。守りきれなかった仮設城壁から外に降り立ち振り返る。
古城は血で染められ、繰り返された猛攻撃により朽ち果てようとしている。まるでハイセルクの末路を示しているようだった。
城内と異なり魔物はそう多くない。人口密集地に誘い出された魔物は疎らであり、1、2時間置きに数十体も斬り伏せれば、遭遇しなくなった。
皮肉にも炎帝龍が進行時に作った通路はウォルムの移動時間を短縮させた。迂回すべき山々や木々も等しく蹂躙され、谷や河川すらも焼き崩し関係は無い。地形さえ塗り替える歩く天災とはこの事であろう。
半日歩いたところで、小さな村へと辿り着くが、大暴走に飲み込まれた村は、人としての営みの残滓を辛うじて感じ取らせるだけだ。
家屋は全て倒壊、基礎が辛うじて残るのみ、人間どころか死体や血痕すら残っていない。無数の魔物の足跡が、魔物の蹂躙を受けた事を伝えるのみだ。
次に辿り着いた都市は規模相応に建築物は残されていたが、魔物と人間の死体が遠巻きからでも視認できる。守備隊と志願兵を中心に抵抗を繰り広げたようであったが、最終的に陥落は免れなかった。
「カノアも、駄目か」
目指す場所では無い崩壊した都市を避け、ウォルムは帰郷の足を進める。
炎帝龍の進路からずれた本国国境の関所は、これまでの戦場とは異なり、激しい抵抗が成され、城壁や空堀が魔物の死体で埋め尽くされていた。
オルトロスと相打ちになった兵士が絡み付く様に抱き合っている。双頭は腕と喉を噛み砕き、兵士は双頭狼の胸部をロングソードで貫いていた。
崩壊した側防塔はサイクロプスの死体と共に瓦礫で埋まり、人と魔物の手足が悲しく突き出ている。下手すればウォルムはこうなっていたであろう。崩れた防壁から国境を越える。
兵舎も指揮場も蹂躙されていた。崩壊した兵舎の壁と一体化する様に兵士が倒れ、指揮場では大量の魔物の死体の中で、大剣を持った将官が全身を裂かれて戦死していた。
その後もウォルムは関所の物色を続けた。屍肉を好む魔物が残されていたが、新しく魔物の死体が増えるだけに終わった。
周囲の魔物の掃討をすませ、半壊した物見櫓の上に寝床をウォルムは作り上げる。外気の遮断と灯りが漏れない様にマントを櫓の矢盾や柱に結びつける。
ダンデューグ城では、幾つかのマントを拝借してきた。中には血で多少汚れている物もあったが、今のウォルムには相応しい品だろう。
幾ら食欲が失せているとは言え、胃に食物を納めなければ、体力・魔力が落ちていく。小鍋を取り出したウォルムは水を満たすと魔法を使い沸騰させ、豆類、千切った干物、塩を詰め込んでいく。
味など感じず胃からの抗議が痛みを通して増す。ウォルムは無心でスープを啜り、ふやかした黒パンを噛み砕く。
腹が満たされたウォルムは吐き気を押さえ込み、意識を手放そうとする。睡眠と覚醒を繰り返しながら双子月が空から落ち始め、とうとう太陽に追い出される。ウォルムは寝床を片付けると関所を後にした。
強行軍とも言える速度で走る。羽虫の様に寄ってくる魔物を皆殺しにするが、心が晴れる事はない。
街道には避難民の死体が増えていく。力尽きた兵士が無数の鳥に啄まれ、虚空を見つめていた幼児の眼球が抉り出される。
追い払う気力は残されておらず、弔うにも手が足りない。ウォルムは無言のまま足を進める。
手入れの時間すら惜しいウォルムは放棄された武具を拾い使い捨てていく。槍が折れれば剣を、剣が折れれば戦鎚を振るう。日が落ちウォルムは大樹によじ登り、ダンデューグ城を抜けて3日目の夜を過ごした。
帰郷の道のりは残り僅かであった。記憶に鮮明に残る道をウォルムは息を切らして走る。脳裏に幼少期の記憶が蘇った。
近所の悪ガキや兄と日が暮れるまで遊び回った森、踏み固められた田舎道、目印にした岩や木々、村を離れ、短くも長くもあった気がする。兄と共に食べた甘酸っぱい木苺の酸味が浮かぶ。
村の入り口を走り抜ける。補修されていない柵もウォルムが村を出たそのままであった。
懐かしの我が家の門を潜り、ウォルムは口を開いた。
「……ただいま」
家族は出迎えてくれた。ウォルムの両眼からは涙が止め処なく溢れる。
「遅くなって、ごめん」
世界一良い家族だとはウォルムも宣う事はしない。それでも徴兵されるまでの間、共に過ごした家族だった。
裕福と言えない家だと言うのに、徴兵が決まった日にはウォルムがこの世界で生を受けてから、食べた事の無い御馳走がテーブルから溢れ出る程に並べられた。
腹がはち切れる程詰め込み、父や兄と記憶が無くなるほど酒を飲み合った。今思えば、あれほど本音で語り合った事は無かった。前世の記憶を受け継ぐウォルムが何処か距離を空けていたのも影響していただろう。ウォルムは後悔していた。兄の助言通り、もっと両親との時間を優先すべきだった。
両親は虚な瞳をウォルムへ向け、抱擁を渇望する様に両手を伸ばす。半開きの口に、食いちぎられた身体を引きずりウォルムへと迫る。
「俺、強くなったんだ。その辺の兵隊や魔物にだって負けない。竜種やクレイストの三英傑だって撃退した。なのに、戦友も、家族も、失いたく無いモノは何一つ守れなかったよ」
ウォルムは抱擁を受け入れた。その肌は酷く冷たい。血反吐がこびり付いた口腔が視界一杯に広がる。
「ごめん、ごめんっ、愛してる母さん、父さん」
下顎からロングソードを突き入れ、二度目の死を家族へと贈る。ウォルムは家の外に這い出ると胃の中身を吐き出した。
「う、げぇえ、っ、あ、あっ、あ、ぁ゛」
気の良い隣人が、気の強い幼馴染みが、神経質だった村長がウォルムの帰還を歓迎していた。
不安で押し潰されそうだったウォルムに戦場の心得や体験談を教えてくれた気の良い伯父さんまでその輪に加わっている。
村全体がアンデッドの巣窟へと化していた。
息を切らし、嗚咽が止まらない。地面に付いていた手を握りしめる。指の隙間から砂が溢れ出す。涙で瞳が濡れ、視界が歪む。我慢できずに空を見上げる。心象とは裏腹に空は雲一つない快晴だった。天が愚かな人類の醜態を見逃すまいと言わんばかりに――。
「ぐっ、つぅう、アああァあ゛あアァ!!」
ウォルムは慟哭すると魔力を練り上げ、最大火力で村に蒼炎を広げる。親族も隣人も皆平等に蒼炎に飲まれる。火が家屋に回り、村全体が蒼く燃えていた。
「何が騎士だ、何が鬼火使いだ、一人も救えない間抜けな役立たずだ!!」
咽び泣くウォルムは鬼火を吐き出し続ける。護れなかった者への最後の手向け。冥府の狭間で、皆が迷わないようにウォルムは蒼炎を焚き続けた。
◆
どう歩いたかも、何日歩いたかもウォルムは分からない。気付けばそこに辿り着いていた。
ハイセルク帝国の中核にして、最大の人口を誇る帝都を見下ろす丘。
歴代の帝王や軍神ジェラルドが愛したその丘には、行き場を失った僅かなハイセルク兵が集まっていた。ウォルムは誰にも声を掛けずにその中へと加わる。涙はとうに枯れていた。
丘に集まった者に言葉など要らない。皆同じ心境を抱えて帝都を見つめているのだ。死に場所を失った敗残兵、それが丘に集まった者達の正体であった。
国を見捨てられず、かと言って護り切れず、死に切れもしない。帝都は魔物に飲まれ、ハイセルクが歴史の中で築いてきた偉大な建築物が焼け落ちていく。難攻不落と思われた城壁は、人理の外の攻撃により崩壊していた。移植された眼が熱を帯び、鋭い痛みが走る。
人は絶え、野は魔物に溢れ、国は潰える。
理想の為の犠牲。他国を虐げた平和。繰り返される歴史。
善も悪も立場により移り変わるものだが、こうなっては何の為に戦っていたのかウォルムにはもはや分からない。血反吐に塗れた教訓で世界が成熟していくというのなら、今日の悲劇は無駄にならない事をウォルムは再び濁りゆく瞳で願った。
第一章 完




