第六十八話
リベリトア商業連邦、その暗部に巣くう毒蛇達は口々に嘯く。セルタ半島を巡る戦いは連邦議会の思惑通りには進まなかったと。確かにマイヤード公国の領土は戦火に荒れ、ハイセルクが派兵した精鋭部隊もまた損耗した。不相応の領土を得ていたクレイストも、象徴である三英傑の一角と騎士団長グランを失う。その点に限れば満足がゆくものであっただろう。
だが、彼らが望む最善ではない。水上艦隊による援護、物資の融通など、商業連邦は底力が薄いクレイスト王国に重ねて支援を施した。そんな過分な費用と比べ成し得た戦果は随分と慎ましい。兵力は摩耗したものの互いに決戦に怯え、決定的な戦いは起きなかった。主力野戦軍は戦場で絡み合うことなく解け、原形を保ったまま。挙句、リハーゼン騎士団は目的を果たせず国へと逃げ果てたのだ。
対岸から戦況を眺めて居た者の多くは、白けた。抽象的にも、物理的にも萎えた者すら居た。だが、自他共に認める立派な連邦人たる彼らは、直ぐに立ち直る。理由を付けて休むのは容易だ。故に怠惰は嫌悪しなければならない。現状維持という停滞に甘んじれば、待つのは衰退のみ。それは恋路でも、政争でも不変の事実であった。
北部諸国最大の都市たる商業連邦首都、毒蛇が蜷局を巻く穴倉で次なる一手が打たれようとしていた。
「それで、総指揮は?」
リベリトア商業連邦の外相たるヒューゴは、自身の補佐官であるイーノックへと尋ねた。
「長年、ハイセルク方面軍の司令官を務めたウォーエン・ログマイアーです」
淀みなく答えた補佐官に対し、ヒューゴは口の端を歪める。微笑とも、火傷の引き攣りとも取れる薄ら笑いであった。
「言い方次第であろうな」
不満の影が差す外相の物言いに、イーノックは懸念を口にした。
「退き癖がついているであろう、と?」
「さて、な。退き癖とまでは言わぬが――さぞ尻は重かろう。これまで司令官殿は帝国に対して積極的な運用をしてこなかったではないか。人選を手放しでは受け入れがたいが、さりとて代役も居らぬ」
自称、穏健派の後ろ盾を持つ司令官のことをヒューゴは快く思っていない。外相は常々、帝国に対し予防的措置を訴えてきた。足元に満ち足りることを知らぬ獣を放置するなど、安全保障の観点からも到底認められるはずがない。
路傍に躓く小石があれば取り除き、腐木があれば切り倒す。それだけのことだ。人として当然のことを願うだけで、ヒューゴは強硬派と目されている。何という悲劇か。甚だしく遺憾であった。
「内情はどうあれ、挙国一致のポーズは――」
「分かっている。些細な意見の相違は、有事には呑み込むものであろう?」
意見の相違。穏健派――ウォーエンの戦略を代弁するならば調略、武力を交えた包囲による締め上げ。それで暴発するようなら、要地へと誘い込んで削り取っていく。一理はある。だが、奴らはその程度では手を上げなどしない。力を溜め込み、必ず国家という壁を越えようとする。滅んだカノアも、フェリウスも悪しき例であった。
故に、ヒューゴは決定的な屈服を狙う。奴らは力でねじ伏せねば、道理も理解せぬ。そういう手合いが重なり、鍛錬されたのがハイセルク帝国という国家なのだ。
「相手は、弱体化を重ねた帝国軍ではあるが、手負いの獣というのは恐ろしいもの。派閥や面子に拘っている場合ではない」
北部諸国の盟主に相応しい地力を持つ商業連邦ですら、組織の理からは逃れられない。体躯が大きくなればなるほど意志の統一は困難となる。国を揺るがす、それこそ本土防衛でもなければ真価を発揮することはないのだ。とは言え、穏健派が珍しく乗り気なのだ。その手を優しく取り、共に踊らぬのは不作法でもある。
「セルタ半島周辺に閉塞していたあのマイヤード水軍ですら、形振り構わぬ猛攻に転じました」
水軍の連絡員より悲鳴混じりの報告を受けた時には、ヒューゴですらも耳を疑った。
「半島に拘泥し、損失を忌み嫌うマイヤード人が艦隊決戦を志向するとはな。加えて氷路にまで軍艦を突撃させる思い切りの良さ。大した変わり身、全く以って忌々しいではないか」
カノア時代の遺物である水上艦隊。今のマイヤードはかつて誇った艦隊の補充能力を持たない。故に著しく自由さを欠いていたのだが、土壇場で運用を覆したのだ。四ヵ国同盟時代には組み伏せやすい少女に過ぎなかったリタ・マイヤードは、戦乱を生き抜き北部諸国らしい君主へと変貌した。
「ハイセルク帝国の影響を、良い意味で受けている。だからこそ、奴らに時間と猶予を与えるのは愚策なのだ。奴らの狂気は容易く伝染する」
「流行り病のように性質が悪いですな。水軍もさぞ肩身が狭いでしょう」
マイヤード水軍を仮想敵に定め、その果てに生じた艦隊決戦での敗北。それも一対二の割合で艦艇を失ったのは、誰の目に見ても失態であった。
加えて水上戦闘終結後にも差が生まれた。遠隔地から出撃したリベリトア水軍に比べ、マイヤード水軍は本拠地の御膝元であり、損傷艦の牽引は容易であった。中には自沈に失敗し、鹵獲された軍艦まである始末。遊び終えた幼子ですら、まだ真面に片付けに励むだろう。
「自尊心と態度ばかり大きい連中であったが、今では小人のように大人しいと聞く」
「連中には良い薬かと」
「良薬も多すぎれば毒となる。一頻り締め付けた後は搾め木を緩め、逃げ道を示せ」
「恩を売り、利用させて貰おうということですね」
「イーノックくん、言葉が悪いぞ。有事に同胞へと手を伸ばすのは当たり前であろう」
ヒューゴは火傷面を痙攣させ、慈愛に満ちた笑みで宣う。何も、蹴落とすだけが政治ではない。弱ったところに手を差し伸べることも肝要であると。
「さて、不甲斐ないクレイストが崩れるのが些か早いが、手筈は整った」
「頃合いでしょうな」
薄ら笑いを捨てたヒューゴは、己に言い聞かせるように宣言した。
「ハイセルク帝国に対し、侵攻を開始せよ……今度こそ、奴らをねじ伏せる。完全に、だ」
そうして、リベリトリア商業連邦によるハイセルク侵攻作戦は発令された。
◆
国家間の闘争に、全ての人間が従順であった訳ではない。セルタ湖で長年漁師を務めるオーバンは、社会感覚に乏しいそんな一人であった。旧フェリウス人に区分こそされるが、フェリウス王国、マイヤード公国の湖岸付近を漁場にした都合上の国籍に過ぎない。国家への依存も、帰属意識も希薄であり、大暴走による魔領の拡大を経て寝床を追われ、マイヤード公国を陸地に居る間の国と定めただけ。
セルタ漁師は常日頃から巨大湖の肉食魚や魔物と食って食われての関係にある。命知らずの漁師の中でもオーバンは奇矯な部類であり、後継者も育てぬ偏屈で頑固な老人であった。
湖と船と共に生き、そして死ぬ。実に単純明快な生き方である。生涯現役を掲げ孤独をものともしない古老だが、食糧不足に起因する漁業者の増加が彼の生活を狂わせる。獲物を狙うばかりだった老人は狙われたのだ。弟子入り志願の若造達に。
オーバンは、縋りつく弟子入り志願者達を文字通り一蹴した。尻を腫らした軟弱な若者共が、尻尾を巻いて逃げるのを経験則で知っていたからだ。ここまでは良くある話だった。
大暴走すら受容した老人に誤算があったとすれば、彼らとその家族が土地を、故郷を追われたことだ。溺れる者は何にでも縋る。これもオーバンは経験則で嫌になるほど知っていた。来る日も来る日も老人と若者達の攻防は続き、一月の時が流れた。
水底まで見通せるような晴れた日のことだ。老人は彼らを船に乗せた。それは連日頼み込む新芽の熱意に負けたのでなく、単なる気紛れであった。どんな極悪人や罪人ですら、人生の中で思いがけず小さな善行を積む。それがたまたま気分と一致しただけ。
オーバンは仕事において手抜きはしない。船に乗った若者達も、文字通り生活と命が懸かっている。拳と罵声が同時に飛ぶのも日常茶飯事であったが、次第にその数は減っていく。二年が経った今、船はまるで一つの生き物のように動いていた。望む、望まぬに関わらず、老漁師は定員三人からなる小舟の船頭となっていた。孤独を愛した老人が、孤独を恋しがっていると、経緯を知る同業者達は揶揄う。
オーバンの操る漁船は競争の激しい浅瀬や湖岸から離れ、新たな漁場としたのは沖合の水域であった。当然、吹けば飛ぶような短船では危険が付き纏う。それでもセルタ湖とは食って食われての関係だ。死んで水に還るのならば、オーバンは悪い気もしなかった。同乗するガキどもは嫌がるであろうが――。
水面は陸地と比べて穏やかだ。漁場を巡り衝突することはあっても、陸地ほど凄惨な殺し合いは起きない。大概は威嚇と罵声で済む。ちょっとした相性の悪さ、不運な行き違いで乱闘にもつれ込んだとしても、数人死傷する程度。村や国単位で同族を殺し殺され、土地を奪い合う陸の民に比べれば些細なものである。
「もう少し、右、右……よし、減速しろ」
掛け声の微弱な差、船頭が振る手のリズムに合わせ、漕ぎ手達は櫂のブレードを水面に付け方向転換した。三馬身程の短船はゆっくりと速度を落としていく。静止する船に反して、見習い達の肺腑は酸素を欲し、細かく呼吸を繰り返す。
動力の一つである小帆は畳まれ、帆柱は葉を失った枯れ木のように佇む。船体中央部に鎮座する帆柱と漕ぎ手達をすり抜けたオーバンは、船尾側へとするすると移動していく。傍らに携えていた手鉤を伸ばし、水面に浮かぶ影を捉えた。
不安定な足場など物ともせず船頭は目的の物を船体へと引き寄せる。手足のように馴染んだ手鉤は、一度刺した物を逃がしはしない。
「引き揚げろ」
最低限の言葉であったが、それだけで老人の意図は若者達に通じた。持ち場から離れた彼らは、短船に寄り添う漂流物を掴む。
「う、見た目より重いっすね」
「船頭、中身はなんでしょう」
櫂を漕ぎ喘いでいた時と打って変わり、若者達は目を輝かせて言った。
「知らん。だが液体だ」
普段であればオーバンの指示の下、網を投げ込み襲来する魔物との格闘に備える。だが、この日の獲物は少々変わっていた。水中を激しく掻き回す艦隊決戦より三日。夥しい破壊と犠牲の末に、人にも魔物にも、恵みを齎したのだ。
回収されなかった救助者や水死体は魔物の餌へと変わり、投棄された木材や物資が湖面を漂う。普段は浅瀬でちゃぷちゃぷと戯れる漁師擬きすら、漂流物を狙い沖合を目指す。艦艇の残骸、兵士の装備品は国に買い取って貰え、樽や木箱の中身が貴重品の場合もある。宛ら宝探しであった。
「開けてみろ」
待ってましたと若者達は木箱の上蓋を手斧でこじ開けていく。緩衝材として詰められた藁は水分を含み、其処ら中にへばり付く。掻き分けた先にあったのは酒瓶の群れであった。幾つかは割れ中身が漏れ出していたが、半数は原形を保つ。独特の香りは直ぐにその正体を明かす。
「うぉお、群島諸国のラム酒だっ!!」
「炎帝龍回廊経由で入って来たやつですよ」
はしゃぐ若者を尻目に、そそくさと手を伸ばしたオーバンは宣う。
「変わっているが、セルタ湖の恵みには違いない」
船頭はコルク栓を抉じ開け、湖の恵みを口にした。混在する甘味と苦味。甘い香りは鼻を抜け、酒精はぬるりと食道を滑り落ちていく。胃がじわりと熱を帯び、オーバンは満足げに息を吐いた。
「ふぅ――っ」
「なっ、ずるいっすよ!!」
「船頭、いいんですね!? 俺も飲みますよ」
抜け駆けした老漁師に続き、若者二人は酒瓶を呷る。船倉の半分は回収物で埋まりつつある。思わぬ贈り物も授かった。漁の成果としては申し分ない。夜風で冷え切った身体が感覚を取り戻す頃、水面に波が揺らいだ。
「……武器を持て」
和やかな雰囲気は掛け声一つで吹き飛んだ。船底に転がる手斧や銛を手繰り寄せ、姿勢を沈める。
「船頭、魔物ですか」
「船だ。こっちよりもでけぇ」
魔物ではないからと楽観視できる状況ではなかった。つい先日、大規模な水戦が生じた水域。何と遭遇しても不思議ではない。事実、暗闇を見つめていたオーバンは、マイヤードの地で忌み嫌われる名を口にした。
「……クレイスト船か」
「畜生、こんな時にっ」
「逃げるんですか、戦うんですか!?」
敵国所属の船が接近している。その事実が若者達を混乱の坩堝へと誘っていた。狼狽する彼らにオーバンは普段と変わらぬ声色で言い放つ。
「馬鹿言え、軍船じゃねぇ。アレは漁師だ。顔馴染みのな」
「そ、それでも、先日まで殺し合ってたやつらですよ」
「関係ねぇ。豊漁時に漁師が争うか」
オーバンはラムで喉を潤すと、暗闇に呼び掛けた。
「こんなとこまでご苦労だな!!」
僅かに遅れ、返答があった。
「なんだ、オーバン爺さんかよッ」
「は、うすのろダックか、まだ生きてやがる」
「アンタと違ってまだ死ぬ予定は遠いんだ。とは言え、ひでぇめにあった。国が頼りねぇからな。あんたのとこに戦争を仕掛けたと思ったら、内部で争い始めやがった。どうしようもねぇよ」
「いい迷惑だった。あちこちばかすかやるから、魚も怯えて捕まえられねぇ。船寄せろ、ラムを拾った。分けてやる」
「わりぃ、こっちは切羽詰まってて碌なもんがねぇ。煮豆で勘弁してくれ」
船頭同士でするすると話が決まっていく。困惑する両船の漕ぎ手達であったが、既に殴り合う空気でもない。矛先を失った武器を船底へと転がし、櫂を持つ。そうして荒縄を渡し、舷を並べた二隻の上で交流会が始まった。
「……屑豆だな」
手に収まった豆をじっと睨んだオーバンは配慮もなく言い放つ。痩せた上に形が悪い。発育不良の証拠である。交換物に対して散々な酷評も、送り主であるダックは不快感を示さず、寧ろ自慢げに語る。
「見た目だけじゃねぇ、味も悪いぞ」
「確かに、ひでぇもんだが――腹には溜まる」
一頻り咀嚼を繰り返したオーバンは、ラムで濯ぐように煮豆の粕を飲み込んだ。
「拾い物は順調か」
「陸の奴らにはわりぃが、稼がせて貰ってるよ。そっちは?」
「ぼちぼちだ」
「普段の漁もこのくらい楽だといいんだが」
「楽過ぎる。不気味なくらいに」
「確かにな。アレだけ騒いで餌を撒いたのに、魔物共が酷く静かだ」
「違いねぇ」
戦況は漁場などの近状を交換する中で、ふと水面へと視線を滑らせたオーバンは同業者へと尋ねた。
「おまえのとこの船はまだ居るのか」
「この辺は俺らだけだが」
老漁師と比べればうすのろ扱いされるダックであったが、漁師としての経歴は長い。魔物が蔓延るセルタ湖で歳を重ねるには、偽りのない技量と幸運が不可欠であった。
「縄を切れ、恨みっこなしだぞ」
瞬時に状況を察したダックは老漁師の視線の先を辿り、悲鳴にも似た叫びを漏らす。
「こ、湖沼竜!? お前ら漕げぇええ!!」
熟練者の二人は正しく状況を理解していた。二隻纏めて食われるのは論外として、犠牲となるのは足が遅い方だ。湖沼竜よりも速い必要はない。もう一隻よりも速ければいいのだ。
乗員達は我先にと持ち場へと駆け戻り、金具で半固定された櫂へと飛び付く。
「数十でいい、全力で漕げ!!」
老漁師の檄に若者達は答える。滑らかなブレードはグッと水面を捉え、滑るように短船は進んでいく。果たしてどちらがより魅力的で食い易いか。一人ならば食い出のないオーバンであったが、同乗者二人は肉付きが良い。嬉しくない評価が下される恐れがあった。
固く結ばれた縄を次々と解き、畳まれた小帆が音を立てて開く。縄を操り、僅かな風も逃すまいと腰を落とす。選ばれたのは果たして――船頭は視界の端で湖沼竜の様子を窺い、違和感に気付く。
「……おい、ダック待て!!」
「ざけんな、遺言も断末魔も御免だ!!」
「そうじゃねぇ、アレ、死んでっぞ」
数秒の喧騒の後、水面は再び静けさを取り戻す。酒の供にしては、大した余興であった。
「はーぁ、ビビらせやがって、死骸かよ」
「しっかし、すげぇデカさだな」
震え上がっていた若者達の変わり身は早く、今では物言わぬ湖沼竜にきゃんきゃんと喰って掛かっていた。一方、死骸をまじまじと観察していたダッグは自問するように呟く。
「なぁどうなったら、こんな死に方する」
獰猛な湖沼竜は同種で共食い、他の大型種とも縄張り争いに明け暮れている。競争に敗れた個体の死骸が打ち上がるのも間々あること。だがこの湖沼竜の死に様は、老漁師の目にも異常に映る。自慢の顎は下半分を喪失、巨体はチーズのように引き裂かれ、傷口は真っ黒に溶け落ちていた。まるで焼けた鉄塔でも突き刺したような惨状ではないか。
「お前のとこの三英傑は? とんでもねぇスキル使うんだろ」
「一人はあんたのとこに逃げて、一人は戦争で死んじまった。残りの一人も、こんなとこに居ねぇさ」
「じゃ、コレは誰がやった」
「ハイセルクの奴らの、あれだ。《鬼火》使いは?」
ラガ岬の宿場町を焼いた帝国騎士の蒼炎であれば、湖沼竜すら殺し得るだろう。尤も、それは地上に限る。炎は水を侵せない。子供だって知っている簡単な自明の理だ。
「港から見たが、《鬼火》使いは広範囲に炎風をばら撒く。こんな巨体を水上で抉らんだろうな。おい、聞いてるのか」
オーバンは訝しんだ。うすのろとあだ名されるダックだが、人の話は聞く奴だ。それが突然、上の空となった。星を楽しむ感性など持ち合わせていないだろうに。
「……なぁ、爺さん。この辺に岩礁なんてあったっけ」
「寝惚けてやがるのか……馬鹿、な」
酒精で頭が緩んだのか。自他の正気を疑うオーバンであったが、確かにそこに岩礁が突き出ていた。岩肌は消えるどころか、どんどんと隆起していく。岩礁が鎌首を擡げたところで、漁師はその正体を悟った。
「は、はっぁ――」
「騒ぐんじゃねぇ、騒ぐんじゃねぇぞ」
ダッグも若者達も騒ぎようがなかった。息の仕方すら忘れた彼らは船上で溺れ掛けていたのだ。水面は赤く濁り、水が煮えたぎっていく。理は覆り、水が燃ゆる。見慣れたはずの湖面が、まるで冥府への入り口に思える。
悪い夢でも見ている気分だった。飛び切りの悪夢だ。こんな光景を誰が想像できた。あんなやつの上で、戦争に励んでいたなんて――。
「はっ、は、見つからねぇはずだ。こんなところに」
水面を漂う湖沼竜の死骸が、ぐちゅりと潰れ水底へと呑み込まれていく。熱を帯びた飛沫が降り注ぐが、叫ぶ者など居なかった。漁師達は声を殺し、ただじっと待つ。そのうち赤い岩礁は、幻のように消えた。 漂う短船など、落ち葉と変わらぬとばかりに。
セルタ湖のセッシー(ぼそっ




