第五十七話
身体が鉛のように重い。酸素を欲して肺を巡る血液が呼気に混じり、苦みとなって口腔を冒す。それでもアヤネは走り続けた。こんなところで止まってしまったら、送り出してくれた彼らに顔向けできない。無力な自分にできることは、逃げることだけだった。
「ふぅ、っぅ……はぁ、っ」
少女の体格に合わない鎧が勝手気ままに揺れ動き、臓腑を撹拌する。芯にまで響く不快感はまるで酩酊しているよう。このぐらい走った程度で音を上げてしまうなんて。自己嫌悪と同時に賞賛の言葉さえ浮かぶ。戦場で戦う彼らはこんな重いものを着込んで自在に動き回っていたのか。酸欠の中でもぐるぐる回る頭が、負へと思考を滑らせる。彼ら――彼女らはどうなった。どうなってしまう。
短く呼吸を重ね、アヤネは眼前で揺れ動く臀部を凝視する。今は走ることに専念しなくちゃいけない。脈が、呼吸が乱れ狂う。考えてはいけない。否定と肯定、自問自答を繰り返す。何も考えず意識を飛ばしていれば、少しだけ楽になる気がした。だが、それも唐突に終わりを告げる。
「そう、易々とはいきません、か」
それまで一言も発さなかったモーリッツが自嘲気味に呟いた。言付け通りアヤネは彼の尻を辿り走っていた。だからこそ兆候に気付きもしなかった。腰に手を回した連絡員が得物を一閃した。木陰からは呻き声とともに、クレイスト兵が倒れ込む。
「敵兵だ、抜けて来たぞ!!」
「徹底、していますねぇッ、ここまで網を張りますか」
ペアを組んでいた片割れの兵は進路を塞ぎに掛かっていた。クレイスト王国軍は誰一人治療所から逃さぬつもりらしい。数度の剣戟の末に出来上がった屍を連絡員に続き乗り越える。無駄な犠牲にさえ思えた。だが、実のところ妨害は極めて有効だった。
「はぁ、彼らは、生き鳴子ですか」
「手練れだ、油断するなよ」
三人の兵士がアヤネを見つめていた。馴染み深く見慣れた鎧。それはリハーゼンの騎士とその従士達であった。
「少々走り疲れました。先に行って、ください。三人くらい、蹴散らして見せますよ」
またあの顔であった。言葉を発しようとしたアヤネだが、連絡員はそれを塗り潰す怒号と気迫を放つ。
「リハーゼンの騎士と従士、相手に不足なし!!」
吶喊する男の背が離れていく。それはアヤネに悩む時間を与えないと同時に、先手を切って逃亡を幇助するためであった。
「一人、逃げるぞ!!」
「ぐっぅ、こいつゥ」
「気を取られるな、先にこいつを殺す」
一度は走り出したアヤネであったが、聞き慣れた声の呻きに振り返ってしまった。モーリッツは疲弊した身で、なりふり構わずの全力を発揮していた。まるで燃え尽きるような蝋燭のように。手足からは血を滴らせ、胸当て越しに強打を受ける。もう長くは持たないのが分かってしまう。
「……駄目、なのに、駄目なのに」
数歩走り、アヤネはとうとう立ち止まってしまった。どうして地面に手を伸ばしたか、自分でも分からない。夢中で手にしたそれを投げた。虫も殺せぬような勢いで小石は放物線を描く。こつりと拍子外れで場違いな甲高い音が響き、斬り合っていた彼らの時間が一瞬止まった。
「ぁはは、当たっ、ちゃった」
アヤネに投擲の経験などない。近しいもので言えば、運動測定のハンドボール投げくらいなもの。それも全力で地面へと叩き付けるようなお手並みであった。火事場の底力、或るいは疲労で力が絶妙に抜けたのだろう。当たったのは奇跡と言える。なんとも言えぬ達成感。やってしまった、という後悔が込み上げる。
「……何だ、小娘。そんなに早く死にたいか」
水を差された騎士がぎろりと下手人を睨む。遅れて反応した従士が少女の正体に気付いた。
「待って下さい。そいつ、アヤネですよッ」
「それは思わぬ僥倖。そのまま逃げ切ればいいものを」
嗜虐的な笑みを浮かべた騎士が、ゆっくりと迫って来る。
「アヤネ様、何をっ!!」
命を繋いだモーリッツが騎士の妨害に出るが、従士達はそれを許さなかった。
「お前は、そこでアヤネが死ぬのを見ていろ」
助けてくれた、逃してくれたみんなになんて言えばいいだろう。馬鹿なことをしたと少女は分かっている。そんなのは分かり切っている。矮小な身では、何の解決にもならないと。それでも目の前で殺されようとする人を見捨てられなかった。
「抜かないのか。剣は飾りではないぞ」
「ぇ、ぅう、っゥぐぅ」
護身用に持たされた剣を掴もうとするが、すり抜けるように空を切った。二度無意味な空振りを繰り返し柄を握ったアヤネであったが、鞘に刀身が引っ掛かり最後まで抜けない。無様にがちゃがちゃと音を立てるだけ。呆れたように騎士は言い放つ。
「もういい。そのまま、死ね」
結局、剣は抜けなかった。迫る死に身が竦む。窮地に狂った平衡感覚が、まるで足元を泥濘へと変え下がることもできない。
「あっ」
背中から血生臭い風が抜ける。それも飛び切り濃厚な死臭であった。自身の死を見届けに、死神でもやってきたというのか。それでもアヤネは恐怖で振り向けなかった。形相を一変させたリハーゼンの騎士が咆える。
「騎馬が来るぞ、単騎駆けだッ!!」
背中からぬるりと伸びた影と剣が交差する。頭上で衝突を果たしたそれは、空気を引き裂くような苛烈さで、鼓膜を叩く。衝撃で仰け反るリハーゼンの騎士に対し、馬の背から飛び降りた男は、最上段の構えで騎士へと迫る。
「来ィやぁああ!! ぬ、ぐぅ――ぅうぐぁッァ!!?」
魔力を纏う斧頭が掲げられた剣を叩き斬り、兜ごと身体を両断する。一撃目とは異なり、凛と澄んだ音は一種の美しさすら帯びていた。斧槍が縦断した身体から血が噴き出す。零れ落ちた臓物が地面に肉の花を咲かせる。降り注ぐ赤き雨に染まっていく鬼の面が、かたかたと燥ぎ朱色を啜った。
「はっ、ハイセルクの騎士っ。本当に人かッ!!?」
「怯むな、討ち取れぇぇえ」
負傷した連絡員を置き去りにした従士達は男に挑み掛かる。その足並み、揃った剣筋は武術に疎いアヤネにも、積み重ねたであろう日々を感じさせる。そんな演武のような緻密な連携が、何気ない突き一つで呆気なく崩れていく。半歩ずれた間合いは修正されるどころか、割って入る斧槍によってますます軋み狂う。
まるで赤い糸でも手繰るように血の軌跡が虚空に浮かぶ。一人は枝刃によって頸動脈を。また、もう一人は眼孔を槍先で貫かれてしまう。結局、死体が積み重なるまで、両手の指の数も要らなかった。そんな血生臭く、凄惨な光景だというのにアヤネは認め難くも安堵してしまった。
「アヤネ様を先にッ、このぐらいの傷なんともありません」
致命傷を避けていたモーリッツが帝国騎士に呼び掛ける。
「アヤネ、無事か!?」
ハイセルクの騎士――ウォルムが面を外して駆け寄って来る。腰が抜けへたり込んだ様を、負傷したと勘違いしているのだろう。アヤネは自身が無事だと示すために何度も首を縦に振った。
「怪我は――」
ウォルムは呼びかけと共に伸ばしていた腕を見つめ、渋顔で引き戻す。そうして血で染まった手を衣服で拭き取ろうとした。アヤネは畳まれていた腕を強引に握り取った。びくりと珍しく帝国騎士が狼狽え、鬼の面が不満げに震える。幾ら血塗れていようと、アヤネにとっては掛け替えのない救いの手だ。躊躇う理由などなかった。
「……何処も斬られていないか?」
陰惨な戦場で、汚した手を拭うという他者への気遣い。価値観や主義すら歪めてしまう戦禍の中で自己を保ち、そうして藻掻いてきたのだろう。
「ウォルム、さん、ウォルムさぁんっ」
「どうした、痛むのか!?」
だからこそ。きっと彼には、この言葉すら呪縛に成り得る。それでもアヤネは騎士に願った。
「みんなを、みんなを助けてッ」
「ああッ」
少女の切なる願いに打算も躊躇もなく、騎士は応えた。




