第五十六話
閉ざされた治療室をヒカリゴケのランプが照らす。室内は昼夜の区別さえ曖昧で、外部の天候すらも定かではない。だからこそ遠方で一際大きく鳴り響く雷鳴に、アヤネは一瞬気を取られた。
「雷……?」
口にして、そんな訳はないと否定する。これまでも魔導兵が奏でる魔法という戦場音楽がラガ岬から届く。今更何を驚くと思う反面、そのおどろおどろしい破壊音が現状の異常性を浮き彫りとする。遅効性の毒のように、感覚や感性がゆっくりと麻痺した結果なのかもしれない。攻撃魔法を後方より聞いただけで身を竦めていた、かつての自分はもう居なかった。それを適応と呼ぶのか、退化と呼ぶのか、アヤネには分からない。
「アヤネ、裂創から異物を取り除きました」
「うん、ごめん」
袖口どころか、肘まで血で汚れたマイアがアヤネを現実へと引き戻す。眼下の患者、その腹部から血が滲む。火属性魔法に次いで土属性魔法、とりわけ土弾による開放性損傷は厄介であった。前者に分類される火球は気圧、熱、破片など複合的な要素で人体を損傷させる。対して後者である土弾は開放性、非開放性損傷も危険であるが、その厄介な本質は傷口の汚染にある。砂利や土塊を取り除き洗い流さねば、土壌由来の重篤な感染症を招く。その一要素を水属性魔法でマイアは取り払ってくれた。
裂創に魔力を流し込む。魔力による損傷個所の把握は、まるで傷口に素手を潜り込ませるような、妙な感覚であった。折れた肋骨を癒し、損傷した血管と神経を繋ぎ合わせていく。悩ましく息を細め全神経を集中させる。幸いにして砕かれた肋骨は臓器に突き刺さっていない。魔力を注ぐ手を放し、アヤネは溜め込んでいた疲労を息と共に吐き出した。
「大丈夫、もう大丈夫ですよ」
「ありがと、よ。どれくらいで動けるようになる」
息は荒く、脂汗を流しながらも意識を失わなかった負傷兵が言った。
「流した血さえ戻れば、数日で動き回れますよ」
「そりゃいい。直ぐに、戻れるな」
曖昧な笑みを浮かべたアヤネは、今はそれ以上考えるなと自身を宥める。割り切ったはずだ。癒した人々が再び戦場に行くのも、彼らがかつて世話になった国と戦うのも、離別してしまった幼馴染と殺し合うのも。
「アヤネ、少し休んでは?」
そんな態度が見透かされたのだろう。マイアが優し気に微笑んだ。彼女は手術の手順を導き、水属性魔法での処置で自分以上に疲弊している。無用な気遣いをさせ、これ以上の負担は掛けられない。
「もう少しだけ、頑張る」
「分かりました。もう少しだけ頑張りましょう」
アヤネは隣人達の生を願って道を決めたのだ。歩き疲れた、と弱音は吐けなかった。自分が善とも、悪とも言い切れない。人と場所が変わるだけで、その曖昧な基準は反転する。だからこそ、弱い自分なりの、信じる道を進むしかない。
十三人目となる患者を手術台から下した時であった。それまでにない異音をアヤネは耳にした。人の感情が剥き出しとなった声。負傷者が傷みから漏らす呻き声や叫びではない。それは明確な殺意と指向性を持っていた。
「何が――」
只ならぬ事態を受け狼狽するアヤネに、外で警護の指揮を執っていたジュスタンの声が届く。
「敵襲だァ!! 迎え撃てェ」
「行かせるなぁッ」
招かれざる来訪者。外壁越しにも戦闘の激しさが伝わって来る。治療所として間借りしていた家屋が、魔法或いはスキルの投射を受けて揺れ動く。
「きゃっ、あっ」
天井の一部が崩れ、手術台にアヤネがしがみついた時であった。玩具箱をひっくり返したかのような地響きを伴い、まるで回転扉のように外壁が開いた。密室は暴かれ、新鮮な空気が流れ込む。新たな入口を形成したのは巨大で無機質な腕であった。人の腕ではなかったが魔物の腕でもない。
「ご、土人形!?」
礫や落ち葉など巻き込み作り上げられたそれは、土属性魔法によって生み出された土人形であった。頭に巻き込んだ小枝や矢をアホ毛のようにひょこひょこと振り回し、室内を確認すると、その巨腕を再び振り下ろそうとする。
「あッ、ぁ」
その桁違いの質量が発揮される直前、アヤネの前に躍り出た治療魔術師が練り上げていた魔力を解き放つ。射出された水弾は歪な頭部を捉えた。練り固められていた頭部は衝撃により弾け飛び、まるで飴細工のように砕け散る。崩された外壁から陽光が漏れ、外の様子が露わとなった。
「何の警告もなしに、こんなところまで入られるなんて――前線はどうなったの!?」
マイアは戦況を嘆く。戦闘面で無力に等しいアヤネでも、治療所に敵兵が差し向けられる事態がどのようなものか察しが付く。それが警告もなしとは、はっきり言って異常事態であった。そんな唖然とする少女を視界に捉えたクレイスト兵が叫ぶ。
「居たぞッ!!」
「ゴーレムが開けた壁の中だ」
対する護衛兵も敵兵を押し止めようとするが数が多過ぎた。一人の男がマイヤード兵を切り捨て、足を止めようとする槍を弾き、真っすぐ治療所へと飛び込んでくる。
「アヤネ様、御覚悟ぉッ」
「あっ」
その男に見覚えがあった。かつてリハーゼン騎士団内で行われた演習、又は模擬戦であったか。剣により頬から首筋まで負った騎士見習いの切創を癒した。まだ若く、何処か照れた様子で繰り返しお礼を言ってくれた。そんなリハーゼン騎士団には珍しい様子が、きっと印象的であったのだろう。二年もの歳月で、すっかり大人になっていた。だが、一文字に閉じられた口は、何も語らない。感情を押し殺すように閉じられていた。
マイアはかつての同胞に躊躇なく水弾を放つが、リハーゼンの騎士の影を撫でるだけに終わる。巧みに水属性魔法を操るマイアだが、それはあくまで治療魔術師としての技量であった。
「ッゥ、速いッ」
戦闘を生業とする騎士や兵とは、戦闘経験や訓練の密度が違い過ぎる。地を這うような姿勢、不規則に進路を変える襲撃者は、二射目も難なく躱す。霧散した雫は魔力膜に流れるように弾かれる。余波すらも無力化されていた。
「邪魔立てするか、背信者がッ!!」
リハーゼンの騎士は剣を掲げ眼前へと迫る。マイアは間合いを測り護身用の剣で斬り掛かるが、上段から叩き下ろされたロングソードにより弾かれた。斬り返しを狙う治療魔術師であったが、リハーゼンの騎士は片足を軸に健脚を奮った。柔らかい腹部に靴底が突き刺さる。馬にでも轢かれたようにマイアは虚空に投げ出された。転がり、胃液と空気を撒き散らしながら彼女は叫ぶ。
「アヤ゛ネっぇ、逃げてぇ」
促され逃げ出そうにも、素早く通路に回り込まれ、部屋の隅へと追いつめられる。苦し紛れに手桶を投げ付けるが避けられもしなかった。騎士に宿るのは愛憎の色。怒りと悲しみに目を細め、鋭利な剣先を繰り出す。アヤネは恐怖で声も上げられず、ただ己の身を丸めることしかできなかった。
「させませんよ」
場違いな声掛けを受け、背で塞いでいた通路に騎士は反転した。そこで待っていたのは、鋭く振られた刃であった。鋼鉄を強くすり合わせたような甲高い音が響く。一瞬の攻防と競り合いの末に、刃は正確に喉元を捉え、リハーゼンの騎士は糸が切れた人形のように倒れ込んだ。
「モーリッツさん!!」
「すみません、遅くなって。伝令が間に合いませんでした」
倒れ込んでいたマイアが嬉しそうにその名を口にした。額から流れ出る汗、その乱れた呼吸が、どれだけの距離を走り込んで来たかを告げる。温和な外見や口調に反して、手にする剣は血を啜り、外敵を威圧する。彼もまた紛れもないハイセルク人であった。
ごぽりと水気に誘われ、恐る恐る足元を覗く。頸動脈を断ち切られた騎士は、朦朧とする意識の狭間で、ぼんやりとアヤネを見つめていた。
「……ごめんなさい」
ここで手を伸ばせば、かつてのように彼を癒せるだろう。だが、きっと彼は己の使命を全うする。既に道は別れてしまった。そうしてアヤネは冷たくなっていく騎士を見殺しにした。
「よく来たモーリッツ、状況は!?」
戦闘から抜け出してきたジュスタンが連絡員に問い掛ける。
「ラガ岬の後方から敵主力が上陸、危機的と言えるでしょう」
「なるほど。包囲下で、籠城も援軍も期待できないか」
「加えて、敵の狙いはアヤネ様です」
「捕虜にも捕らん気か。やるしかないな」
「はい、やるしかありません」
アヤネには知り得ない戦場の空気を知る者同士のやり取り。口を挟む余地などない。
「聞いたな、お前たち。本調子じゃないだろうが、出番だ」
目まぐるしく変わる状況、戦闘経験の無さから来る無知。それらの要素により、戦況から置いてけぼりにされていたアヤネは絶句した。
「何をしてるんですか!?」
病床に伏せていた負傷兵が一斉に身支度を整え出した。彼らは命を削ってでも戦うつもりなのだ。
「そんなつもりでっ、治したんじゃ――」
感情のままに言い掛けたアヤネであったが、一人の兵士が言葉を遮る。
「嬢ちゃん、それ以上は傲慢ってもんだぜ。確かに命を救って貰ったがな。俺の命の使い方は、俺が決めるんだ」
「違いねぇな」
「おい、武器は何処だ?」
「靴がねぇ、誰だ。俺の靴持ってったのはよ」
先程まで手術台に乗っていた兵が己の武器を探し、また先日まで生死の境を彷徨っていた兵士が、身を槍に預けながら起き上がる。これまで数多の者を癒した経験が、彼らがどれ程の血と体力を失っているか警鐘を鳴らす。
「無理ですよ……? 幾ら傷は塞げたって、その身体じゃっ」
「調子が悪いからって、見逃がしてくれる奴らじゃねぇよ」
「リハーゼンの奴らが風邪を引いていたら、俺だって喜んで襲いに行くさ」
「そんなもんだろ、戦争なんて」
その気軽な言い様に、一種の諦観と深い覚悟が伝わってくる。どうすればいい。何をすればいい。自分には何ができる。思考の袋小路に入り込みかけてしまう。そんな時、アヤネは己の耳を疑った。
「アヤネ、服を脱いで」
「ふぇ、なんでぇ」
混乱に拍車が掛かるが、治療魔術師は時間が惜しいと自身の服を剥いでいく。まるで幼児の着替えのようだが、羞恥心よりも困惑と恐怖が勝っていた。ジュスタンが小声で周囲に呼び掛ける。
「鎧を一式用意しろ、多少デカくてもいい。服を重ねて誤魔化せ」
マネキンのように衣服を剥ぎ取られていき、ぶかぶかの服が着せられる。汗や血、こびりついた垢の臭いが鼻腔を刺激していく。そんな中で、アヤネは聞き捨てられない言葉を耳にした。
「俺たちは包囲に偽りの脱出路を形成する。モーリッツは迷い兵を装い軍港都市までアヤネ様を逃がせ」
ここまで来れば察しの悪いアヤネにも分かる。マイアに自身の変装をさせた上で、彼ら全員が囮となり自身を逃がすつもりなのだ、と。
「待って、私、も、私も」
駄々を捏ねる子供のように、少女は生贄紛いの身代わりを拒否した。
「足手纏いです」
精一杯の我儘であったが、マイアが突き放すように言い放つ。
「そうだ嬢ちゃん。大丈夫、大丈夫だ。ここは任せてくれ」
兵士は優し気な目つきで諭す。手術中とはまるで立場が真逆だった。嘘だ。余りにも酷い優しい嘘だ。彼らは皆、かつてダンデューグ城で見た顔付きであった。多くの兵士が民兵が、友に家族にそう言い残し、死んでいった。現実など見たくないと顔を伏せるアヤネの頬に両手を合わせ、マイアが覗き込み言った。
「必ず、合流するからね」
ずるい、約束を果たせるはずがない。ずるい、ずるい、そんな顔で。彼らの覚悟を、マイアの願いを拒み、ここに残るとアヤネは言い出せなかった。
「さぁ、行って」
「いいですかッ! ハイセルク帝国軍司令部の小間使いは荒事も熟しますが、表向きには庇えません。私の尻だけを見て、くっついて来てください」
大袈裟に、道化のような物言いで虚勢を張った連絡員が尻を叩く。その背後では、手負いの獣のような気迫を纏う、警護兵と負傷兵による突撃が始まった。周囲に広がっていたクレイスト王国軍も反撃に合わせ陣形を変えた。大群への対処に網は無理矢理閉じられ、各所で微細な綻びが生じていく。
「軍港都市までの活路を開けッ!!」
「臆するな、立ち止まれば死ぬだけだぞッ」
「進めぇ、進めェ!!」
狂乱の空気が漂う中、冷静に両軍の動きを見定めていたモーリッツの合図で、アヤネは戦列から抜け出す。彼らを生き餌にその場を離れていく。どうしようもない後ろめたさに、後ろ髪が引かれてしまう。そんな迷い心を見破られたのか、連絡員に釘を刺された。
「ほら、行きますよ!!」
「ふ、っうぅ、ぅっぅう」
絶叫と怒号、親しい隣人たちの声が耳にへばり付く。彼らの声が次第に小さくなり離れていく。泣くな、嗚咽を漏らすな。その分だけ呼吸や脈が狂うと分かっているのに、アヤネは感情を制御仕切れなかった。
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