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濁る瞳で何を願う ハイセルク戦記  作者: とるとねん
第三章

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第五十一話 氷路

 白紙をインクで乱したように、仄暗い湖面に波が走る。その正体はマイヤード水軍所属の哨戒艦が生み出す航跡波であった。楼や甲板の大型化と多層化が進む主力艦や輸送艦と異なり、小ぶりな哨戒艦の排水量は少なく、大型艦と比べれば吹けば飛ぶ印象すら与える。だが、持ち前の快速と優れた旋回性は多用途に適し、重要な水上監視の任を与えられた一隻であった。


「やけに冷えやがる」


 水兵であるエドメのぼやきは船体の軋みと寒風で掻き消える。船に纏わりつく薄い霧は肌を刺す冷気を帯びていた。熱を欲した身体がぶるりと身震いする。水面に映るエドメの鼻筋はうっすらと赤みを帯び、まるで間抜けな道化のようだ。


 鼻を啜り、外套に身を縮こませ息を吐く。虚空へと霧散する吐息を恨めしく睨みつけるが、無駄な抵抗に終わった。赤っ鼻の男はセルタ湖でも最精鋭と名高いマイヤード水軍の一員だ。時には水上の支配権を巡り他国の艦船に斬り込み、獰猛な湖沼竜相手に怯まぬ水兵である。だが、どうにも寒さだけは苦手であった。


 冷気を紛らせるために無駄な思考を巡らせているが、その視線は眼下を油断なく探る。何処までも続くかのような暗闇は容易に船を溶け込ませてしまう。湖面を注視するエドメであったが、不意に視界の端で炎が灯り、光源に誘われるがまま遠方の陸を見つめた。


「温かそうだな……いや、不謹慎か」


 暖かい光に思わずぼそりと言葉を漏らしたが、その内実は少しも羨ましくはなかった。何せ、炎の根元に位置するセレベス六口の一つガラ岬では昼夜問わずの激戦が続く。


 港で補充を受けた際に荷役から聞いた話では、被害の甚大さに後方治療所をガラ岬へと前進配置したと噂が流れていた。また、開戦時に損耗を受け前線から下がっていたハイセルク帝国軍の中隊も再編制次第、投入予定だと合わせて耳にしている。船乗りとしては一流の部類だと自負するエドメだが、陸戦ともなれば命運はそう長くは続かないと自覚があった。それはマイヤード水軍や公国のお偉方も同感であろう。そうでなければ過去の戦争で水上兵力は陸上へと転用され、とうに水軍は摩耗し尽している。


 偶発的な戦闘を除けば、マイヤード水軍はハイセルク帝国軍の救援が到着するまで、艦隊決戦も避け、半島の水域と水上輸送路の堅守に勤める。消耗を嫌うリベリトア商業連邦水軍も遠巻きに窺うのみ。如何に水上魔術師の総数と練度で勝っていても、規模だけで言えばリベリトア水軍の総数はマイヤード水軍を上回る。とても片手間にあしらえる相手ではない。


「何時も通りの大層な理由付けか、心底嫌になる」


 戦力の温存はマイヤード水軍のお家芸と揶揄される。屈辱的で腹立たしいが、物事の本質を捉えているかもしれない。かつての国力であれば人員も艦艇も補充は可能であったが、今の情勢ではそれも望めない。


 数メートルの距離を奪い合う陸と異なり、水上では消極的な哨戒任務が続く。エドメを始めとする水兵達には同胞への後ろめたさ、仮初の平穏という無味無臭の毒がゆっくりと回る。


「なんだ……? あの影は」


 それでも代り映えの無いはずの水面にエドメが異常を察知したのは、見張り員として重ねた経験と訓練の賜物であった。それを知覚した瞬間、背筋は凍り付きこれまでにない悪寒が背筋を這う。


「水面に障害物ッぅ!!?」


 エドメの警報は迅速に効果を発揮した。船弦へと身を乗り出し障害物を追認した仲間が金切り声で叫ぶ。


「なぁ!? っぅ、岩礁だ、右舷に岩礁だぁあああ!!」


「取舵一杯ッィ!!」


 船長の短く、それでいて明確な転舵の命に一種の静謐さを保っていた船上が一瞬で沸き立つ。独立した意識を持つ人間が、まるで一つの歯車のように動き出す。操舵手が舵輪を切り、命令と同時に横静索を船乗り達が駆け上がり、動索に群がっていく。


「急げ、急げぇぇ!!」


「舵は!?」


「も、もう一杯だ」


 操舵手の無情な返答にエドメは天を仰ぐ。普段は小回りに優れた軽快な哨戒艦であったが、この時ばかりは回頭する船体が鈍間で、緩慢にすら感じてしまう。


「だ、駄目だっ。ぶつかる」


「衝撃に備えろぉ!!」


 衝突の確信を得たエドメが舷縁に抱き付く。船長の警告から間もなく衝撃で身体が浮いた。断続的に船底から甲板へと響く振動と異音は悍ましく、身も心も掻き乱されてしまう。時間にして十秒余り、耐え難い時間を過ごした水夫達は再び声を取り戻した。


「岩礁から離れたぞ!!」


「舵を戻せぇ、そのまま直進だ」


 早期の回避行動が実を結び致命的な座礁は避けられた。それでも沈没の危機を逃れた訳ではない。船体の状態を巡り、目まぐるしく報告が繰り返される。


「左舷、水面下から浸水ィ!!」


「灯火管制解除、損傷箇所の現認いそげぇ!!」


「どうなってんだ、こんなところに岩礁なんて」


「岩礁じゃないぞ、氷だ。それも棚氷みたいに分厚い」


「馬鹿な、見間違いだろ」


「冬季とは言え、ここは不凍湖だぞ!? 流氷だってあり得ない」


 セルタ湖、それも支配水域という庭で起きた異常現象に水夫達が取り乱す。エドメも困惑と事後処置に追われ目が回る。騒乱に包まれる哨戒艦とは対照的に、物言わぬ暗闇を睨んでいた船長は、魔導兵の一人を呼び止めると信じ難い命を下した。


「魔導兵、空に火球を撃ち上げろッ」


「船長、それでは敵艦に位置が――」


「黙れっ、早く撃ち上げろ」


 怒気に押され躊躇していた魔導兵は魔力を練り、直上へと火球を打ち上げた。頼りない星々、双子月に追い出された太陽に変わり、爆炎という照明が闇夜を暴く。あるはずの無い無数の影が水上に広がっていた。


「なぁ、人がっ」


 信じがたい光景であった。無数の人間が息を殺して水面を歩いていた。いや、正確には凍結した湖面を敵兵が渡っているのだ。


「っう、謀られたかっ、船鐘を狂い鳴らせぇ!!」


「あっ、光が――」


 苦渋に満ちた船長の声が耳に響く。奇襲を知らせる早鐘を命じた船長であったが、その必要は既になかった。凍り付いた湖面の一部が眩く光り、一筋の線となり哨戒艦へと伸びる。焼け付く網膜に耐え切れず目蓋を閉じたエドメだったが直後、衝撃と無数の破片が全身を嬲る。


 何が起きたかも知覚しないまま水中に没したエドメは、我武者羅に藻掻くが、次第に増す痛みと寒さで意識は曖昧になり、暗い水面へとゆっくりと沈んでいく。幸か不幸か、男は最後の瞬間まで船と仲間と命運を共にすることとなった。



 ◆



 焼け落ちる哨戒艦は水鏡に反射し、皮肉にも美しさすら漂わせていた。だが、水面下では《聖撃》を受け負傷した無数の人間が溺死している。船が焼け落ちる音は彼らの断末魔を代弁しているかのよう。


「ぅ゛っ――っ」


 喉元にまで込み上げる最低な酸味を呑み込んだユウトは、意図的に意識を逸らした。真面に考えるな、彼らの末路を想像するな、想像力と共感性の高さが仇となっているのは、ユウトとて百も承知であった。情けなくも何時までも慣れやしない。それでも誤魔化し、感覚を鈍らせることはできる。


「くそっ、露見したッ」


「どうする中止か!?」


 氷棚から隠密に進み続けた軍勢も遂にその存在を露見したのだ。兵や従士どころか、荒事に慣れたリハーゼンの騎士ですら意思の揺らぎを見せる中で、彼らの総指揮を務める男は平然と言い放った。


「何を狼狽える。陸は直ぐそこだ。予定通りセルタ半島へ奇襲を敢行する。総員駆け足!! このまま押し切る」


 既に闇に潜む必要もない。リハーゼン騎士団の団長であるグランの命令に従い隠匿をかなぐり捨て、軍勢は陸を目指して雪崩れ込んでいく。


「ユウトっ」


 馴染み深い声にユウトは安心感を覚える。今となっては二度と踏めぬ地、かつての世界を知り、共に異界へと迷い込んだ幼馴染の一人であった。


「マコトか」


「ふふ、僕だよ。魔力が切れたから、リベリトアの部隊と入れ替わりで下がってきた」


 場にそぐわぬ笑みを浮かべるマコトであったが、その笑みの裏には疲労が色濃く残る。明らかに虚勢を張っていた。


「大丈夫なのか、顔色が悪い」


「はは、僕だけじゃないから、ね」


 幼馴染の後ろからふらふらとした足取りの小集団が続く。まるで酒精で酷く酔い潰れた振る舞いであったが、その内実は魔力の欠乏で深刻な魔力酔いを起こした魔導兵達であった。彼らは陸上から棚氷をセルタ半島まで繋ぐために、総軍中から掻き集められたのだ。ラガ岬をスキップしての奇襲作戦。机上で語るのは簡単だ。この奇襲を実現させるために、大暴走以前からの正規兵の過半、水属性の魔導兵を引き抜いた。


 それらは各前線で戦力の払底、魔力支援の不足を齎す。かと言って手を抜き正面からの攻勢を緩めれば、マイヤードやハイセルク帝国軍に疑いを持たせてしまう。旧フェリウス系の民兵団は文字通り、その身を磨り潰されていた。


 友軍の惨状、疲労困憊の幼馴染、そしてこれから起きるであろうセルタ半島での惨劇。どうしてこうなってしまった。ユウトの思考に大きく影を落とす。


「やっぱりさ、僕も一緒に付いて行くよ」


「駄目だ。魔力は湖面を凍り付かせるのに使い切ったんだ。それに腕の傷もまだ癒えていない」


 弱い内心を見透かされてしまったのだろう。偶発的な戦闘で隻腕となった痛々しい幼馴染に、ぴしゃりと命じた。触れたくはない。ユウトはそれでも言わなければなかった。


 甘さを捨てろ、俺がやらなくちゃいけない。隻腕となった幼馴染にユウトは心のうちで誓ったのだ。サラエボ要塞でも自身の力不足からアヤネを《鬼火》使いに連れ去られた。あれから大暴走を経て、セルタの地に流れ着いたらしいが、味方であったマイヤードからアヤネは帰還せず連絡さえつかない。その能力の希少さ故に、軟禁され利用され続けている。そうリハーゼンの騎士の長は語っていた。これ以上幼馴染達に何も失って欲しくなかった。


「それを言われるとぐうの音もでないよ」


「心配するな。アヤネは俺が連れ帰る。また、三人で、マイアさんやヨハナさんも呼んで食事をしよう」


「……うん、そうだね。皆で」


 普段から軽快な物言いのマコトとは思えぬ、妙な歯切れの悪さ。その違和感を訝しんだユウトであったが、半島への上陸直前の状況ではそれ以上の追及はできなかった。奇襲に成功したとはいえ、寸前で哨戒艦に存在が露見してしまった。主戦力はセレベス六口に向けられているとはいえ、敵の本拠地なのだ。一定の予備兵力や留守番の部隊が居る。


「帰り道、足を滑らせるなよ」


「ユウトもね」


 マコトは残った腕を犬の尻尾のように大きく振って見送ってくれた。場所も時間も違う。それでも、今となっては酷く懐かしい学校での帰り道をユウトは思い出す。薄れゆく思い出に浸ったのも束の間、別れを済ませたユウトは軍勢の先頭へと向かう。


 混雑する兵の合間を抜けるユウトは、あるリベリトア兵の顔に釘付けとなった。珍しい存在ではないはずだ。今回の作戦ではリベリトアの魔導兵までも借り受けたという。実際、今も先頭で作業を続ける彼らの協力なしでは、湖面の氷結は困難であった。


「ヘイズ、後退だ。さっさと下がろう」


「ああ、分かってるさ」


 記憶を探るが知己の人物ではない。だが、その顔つきと、特に眼つきには覚えがある。戦場だろうか。何処だ、何処で――。


「こんな時に馬鹿か俺は。集中しろ、今はどうでもいいだろ」


 雑念を頭から追い出し海岸を睨む。元々船どころか上陸も想定されていない岩石海岸とは言え、敵兵が存在しない訳ではない。ユウトは上陸までの支援を担い、突破口の形成を任されている。疎に集まる敵兵に向けて《聖撃》を放つ。岩場は足元ごと吹き飛び、人であった残骸が木の葉のように虚空へと舞い上がる。一部では歓声すら上がった。友兵がユウトの行為を褒め称え肩を叩く。


「すげぇ、見て下さい。奴ら消し飛びましたよ!!」


「些事に構うな、一挙に橋頭保を確保しろ。十分な場所を確保した訳じゃないぞ」


「立ち止まるな、内陸へと突き進めぇえ」


 役目を果たし、これまで通り立ち塞がる敵を葬った。だが、そこには何の喜びも達成感もない。心中が虚無であればどれほどよかったか。ユウトの顔はただただ悲痛に歪む。電撃的な上陸作戦の中で、少年の物言わぬ叫びに気付く大人は、この場には誰も居なかった。

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― 新着の感想 ―
どこでもドアほどじゃないけど便利な輸送手段な感じ
[良い点] この作品て、読者や毒者の感想も込みで読みごたえのある作品ですよねぇ。
[良い点] そろそろハイセルクの進撃を読みたいのですけれども、なかなかスッキリ展開になりませんねー。 それがこの作品の味とはわかっちゃいるんですけどねー。 ホンマ連載物に適した作品ですねー 次の更…
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