第五十話
オルゼリカの地に己が軍旗を立てんとする二つの軍勢で、坂は常に手狭であった。それが今や切り通しや平場を含めても閑散としていた。戦場に立つ者は疎で、闘争の果てに生まれた副産物がそこら中に横たわる。死屍累々の隙間を縫って歩くウォルムは兵達に呼び掛けた。
「一呼吸休めたら直ぐに動け。俺も四肢を投げ出したいが、まだ勝っていないんだ。上官の指示を仰げ」
情事後の無気力な疲労感、或いは温かい血の酩酊とも呼ぶべきものが冷め切ったのだ。彼らは呆けたように立ち尽くし、兜を脱ぎ捨て地面に座り込む。これが勝ち切った戦であれば存分に暇を堪能すれば良いが、ゼレベス六口の一つ、それも前衛陣地で敵を跳ね返したに過ぎない。
「う? あっ、あぁ、守護長殿。申し訳ありません。力が抜けてしまい」
「行こう、ガストン」
辿々しい足取りで彼らが目指す先は、左翼を担当していたモーイズの下であった。報告を繰り返す数人の部下に囲まれながら、負傷者の処置と土塁の警戒に檄を飛ばす。
「……山場を乗り越えたな」
返り血を拭うのもそこそこに、残存する兵員を纏め上げる姿は実に頼もしい。尤も若手の成長を喜び、一人で思いを馳せる贅沢は今の帝国騎士には無縁であった。
「ウォルムくんこっちだよ」
「ヨーギム、元気そうだな」
手招きと呼び声に応じて、ウォルムは誘われるがまま並び歩いた。場にそぐわない柔和な口調で小話を混じえ、墓所と化した平場を横断していく。
「はは、何度も死ぬかと思ったよ。久々に妻と死線で踊ったね」
草臥れた姿と弱音に反して目付きだけは興奮冷めやらぬとギラつく。なるほど、妻が妻なら夫も夫かと帝国騎士は感心を覚えた。これならば夫婦仲もいいはずだ。
「お熱いようで何より……それで生き残りは?」
「残存する兵は負傷者を合わせても一個小隊半。再編成しても、二個分隊できれば上々さ」
消耗を重ねた上で増員を得た守備隊は、増強中隊までの規模はないものの充足率は完全編成でも釣り銭があった。それが戦闘可能な兵が二個分隊にまで減るとは――ため息と罵倒を噛み殺したウォルムは現状の確認を進める。
「そこまで減ったか」
「総員で土塁を守っても、一突きで戦線は食い破られてしまうね」
「放棄が妥当だな。増援ごと中隊が壊滅状態では、後方も堅持は命じないだろう」
練兵中隊に死守命令は出ていないのだ。オルゼリカ坂では現地指揮官の裁量で後退が許可されている。ここまで徹底抗戦を演じるハメとなったのは、規則立った後退を許さぬ敵の猛攻に原因があった。
「間髪入れずの二次攻撃がないのが不思議なくらいだ」
「それをずっと危惧していた。今でもぞわぞわして堪らない」
損耗にさえ目を瞑るのであれば、数で勝る攻め手の波状攻撃は極めて有効な手段だ。悠長に負傷者の後送に奔走する練兵中隊が何時襲われるのか、帝国騎士は気が気でなかった。
「外見だけ取り繕って、肝を冷やしながら後退準備をするしかないのだろうね」
「つくづく、指揮官なんてなるもんじゃないな」
戦闘で切れた口腔から流れ出る血が実に苦々しい。限られた手札を捏ねくり回したところで限界はある。その後ろめたい証が足元に広がっていた。虚となった戦死者の瞳が恨めしそうに帝国騎士を睨む。それでも決して目を背けぬのは、戦い死んだ彼らへの責務と後悔からだった。
「……まったくだね。ところで、総崩れを起こした後にヤルクク兵は老将の死体を持ち去ったみたいだ」
「あのまま玉砕されていたら厄介だった」
ラトゥを信奉するヤルクク兵、彼らが死兵となれば勢いもまた違っただろう。そうなれば帝国騎士は敵味方問わずオルゼリカ坂を蒼炎に沈めねばならなかった。消化不良、生殺しだと残念がるのは鬼の面ぐらいなものだ。
「敵中から死体を持って後退するとは、人としても信奉されていたのだろうね」
「まあ、こちらの指揮官はそうはいかなかったようだ」
「あんたら呑気におしゃべりしてるんじゃないよ。客人が逝っちまうじゃないか」
腕を組み憤慨するデボラの足元に目的の人物は居た。力なく横たわる男の身体は悲惨の一言であった。留め金ごと剥がされた鎧の中は、無数の内出血と裂傷が刻まれている。四肢は叩き斬られるか潰れており、顔の半分も抉られていた。それでも微かに膨らむ胸がか細い生存を告げる。
「大物だな。リハーゼン騎士団の副団長、サイランスか。捕虜に獲りたいが」
「無理だね。派手にやり過ぎたさ。それにこの窶れた身体じゃ」
デボラが靴先で突いたのは幾つもの小瓶。多くは空であったが、割れた小瓶の中に液体が残る。治療所を連想させる薬品臭さ。帝国騎士は思い当たる品を呟いた。
「鎮静剤?」
「そんなに上等なもんじゃないねぇ。秘薬の類さ、それも劇薬の」
致命傷と流れ出た血液によるものではない。もっと根源たる部分がこの病的に痩けた身体と死相を生んでいた。
「病魔に蝕まれた身体で前線に出てきたのか」
サラエボ要塞の決戦でその名を聞かなかったはずだ。本国の備えではなく、病で戦場に出れなかったのだろう。この夫婦が徒に敵を痛めつけることはない。無力化するまでにここまで人体を破壊せねばならなかったのだ。一時的な運動能力の向上、精神の興奮、痛みに対する無感覚が秘薬の効果だろうと、ウォルムは察した。ここまで覚悟が固まっているのだ。拷問したところで時間の無駄であった。
「教導長、何か聞くことは」
「ないね。ただ指揮官達と話したいって言うから、止めを刺さずにいるだけさ」
「話せ、遺言があれば聞いてやるぞ」
「さい、こうには、程遠いが、死ぬには、いいあさだ」
錯乱したかと正気を疑った帝国騎士であったが、サイランスの目は正しく知性を残していた。負け惜しみでもない。ただただ薄寒いものを感じる。絶命を前に、最後の朝を心から楽しんでいるのだ。腰の面が微かに揺れた。
「ひのでだ、役目は全うした。皆よくたたかい、しんでくれた。ヤルククの老将にも、病魔に蝕まれた、私にも、ふさわしい、戦場だった」
「何が言いたい」
「それは、な――」
「教導長は!? 守護長はどちらか!!」
馬鉄の音と焦燥混じりの怒声が、細いサイランスの声を掻き消した。
「教導長と守護長はこっちだ!!」
間髪入れずに呼び寄せたのはヨーギムであった。それも無理はない。相手は早馬、数が不足する希少な通信魔道具に代わる情報伝達手段であった。遠巻きに駆け付ける騎馬を見つめる帝国騎士は異変を見抜く。
「いや、待て。送り出したオルゼリカ坂の伝令兵じゃないぞ。砦の早馬だ」
「それじゃ、後方の砦が先に伝令を送り出してきたみたいじゃないかい」
馬から転げ落ちるように飛び降りた伝令兵は息を荒げて叫ぶ。
「セルタ半島内に敵主力が侵入!! 我が方は大崩れですッ!!」
告げられた情報に帝国騎士は息を呑んだ。言葉を咀嚼すればするほど、その重篤な状況に絶句する。
「馬鹿な、この短期間で六口が抜かれたってのかい!?」
「此処は大暴走にすら耐えた地だぞ」
クレイスト王国が誇る三英傑の二角を集中投入したとしても、オルゼリカ坂のように幾つもの隘路と陣地、予備隊がそれを阻止する。揺れる脳内でウォルムは思考を巡らす。これは擬報で、動揺を誘い前線部隊を後退させる策謀の類かもしれない。そこまで考え至り否定する。猛攻で荒れ果て、守備隊の基幹を失ったオルゼリカにそのような価値はない。寧ろ、残存兵力の撤退を阻むほうが理に適っている。
「何処が抜かれたんだい、タルマカネ? アサリナかい!?」
「敵はっ――」
伝令兵が敵主力の所在を告げる中で、ウォルムは息絶えたサイランスに気付いた。ラトゥ同様に本懐を遂げて死んだ。だが、その笑みの性質は真反対であった。最後にしてやったぞ、と狼狽する帝国騎士への嘲笑い。粘着質な悪意と愉悦に塗れていた。




