第四十六話
燻る残火に照らされた穂の影が揺れ動いた。オルゼリカ坂で衝突する両陣営は切り通しを巡り鬩ぎ合い、防御線は潮の満ち引きのように移り行く。フェリウス王国軍が築いた攻勢点は人の息継ぎの如く膨らんでは縮む。昼夜も天候も関係ない攻防により、兵員の疲労は抜けることなく蓄積していた。そんな終わりの見えない戦闘にも一区切りはある。
定刻を迎え役目を終えた兵は班、或いは分隊単位で戦列より離脱していく。身体を引き摺るように去っていく様は、まるで残業終わりの企業戦士を連想させる。尤も、くだらぬ過去の記憶を連想させて正気を保とうとする時点で、ウォルムも同類でありその輪から逃れられるものではない。
「やっと、休める」
「あれだけ動いたってのに、冷え切って手足の感覚がない」
「早く火に当たりてぇ、あの不味い麦粥が恋しい」
何日か繰り返せば否が応でも環境に慣れるものだ。平場にまで降りた兵達はぼそぼそと愚痴を吐露していく。視線を滑らせれば、彼らの統率を担うモーイズが馬踏みの端で引き継ぎの指揮官と言葉を交わす。危うさは残るものの小隊長として一端となってきた。
「よくやっている、か」
担いだ斧槍で肩を叩き疲労を息で逃す。漸く一仕事は終えた。後詰めのハイセルク帝国軍本隊はサラエボ要塞に到着していないものの、一部の部隊は艦艇で先行してセルタ半島入りも近い。防衛戦で経験を得た練兵中隊は以前の戦闘処女ではない。これから起きる野戦主力軍同士の決戦、その運動戦にも一定は耐え得るだろう。
果たして六口のどれが反撃路に選ばれるか、熟考に陥り掛けたところで帝国騎士は首を振った。休むことも仕事の一環なのだ。今は休養に少しでも時間を充てなければならない。夜食には遅過ぎ、朝食には早過ぎる黎明の時刻。兵食は一体何にあり付けるか。
期待に胸を膨らませかけたウォルムであったが、どうせ代り映えの無い献立であろう、と自嘲混じりの自問自答を済ませる。十中八九、薄い粥と硬い平パン。違いがあるとすれば冷たいか、生温かいかのみ。願わくば熱くあって欲しい。個人で抜け駆けして温めれば兵に妬みを買う。食事の恨みは何時の世も恐ろしいものだ。死の遠因が麦粥など冗談ではない。
意図して弛緩させた精神は戦場から離れていく。そんな緩みかけた帝国騎士を、腹に響く轟音と地響きが呼び止めた。熱気と衝撃を受けて振り返れば土塁の一部に朱色混じりの土埃が舞う。視覚に飛び込む情報は最悪の兆候を告げていた。
突撃前の火力支援――無数の戦場を渡り歩いた経験則と呼ぶべき勘が早鐘を鳴らす。皮膚の下で神経がひりつき血液が濁流のように流れ出した。興奮状態であり戦闘への備えとして身体は正しく反応を起こす。火照る肉体とは裏腹に思考は冴え、戦場へと全身全霊を回帰させた。
「ぁ、あ゛っがぁ、目が見えね゛ぇ」
「っ、ぅ斬り込みだ、ァ!?」
夜空に木霊するのは敵を威圧し、己を鼓舞する鬨の声だった。攻め掛かってくる敵勢の指向する先を音で察する。突破点として狙われたのは練兵中隊と増援で駆け付けた小隊の境目であった。元々は別の部隊、擦り合わせたところで齟齬が生じ易い。加えて、魔法を集中させた衝撃は如何しようも無い混乱を生む。
「狙ってやがったなッ」
鎧通しのように隙間を通した攻め手は土塁に足掛かりを作り、一部は馬踏みにまで入り込んでいる。今までの適切な戦力投入、規則正しいとすら感じた攻め方に狂気の色が混じる。全ては欺瞞だった。切り通しでの封じ込めという餌に練兵中隊は土塁まで誘い出されたのだ。
「土塁の内法からでいい、押し止めろっ!!」
モーイズは突破点の穴埋めと第二線の形成に専念し、不用意な馬踏みへの介入を避けていた。先手を取られたのだ。半端な対応は更なる壊死を招く。ウォルムは部隊の指揮を完全に委ねて眼前に集中する。後続を断たねばオルゼリカ坂が陥落するどころか、その守備隊まで失う。突破点へと流入する後続を潰す必要があった。
魔力を練り込み、風属性魔法の後押しを得た帝国騎士は内法を一歩で飛び越えると、最上段で構えた斧槍を叩き落とす。魔力に覆われた斧頭は、斬り合いに夢中となっていたフェリウス兵の頭蓋を砕き割った。変形した兜が転がり、糸が切れた人形が地面に転がる前に二人目の喉仏を斬り抜く。地面に沈む手勢を見た下士官は怯むどころか、雑兵に甘い毒を囁く。
「っぅ、《鬼火》使いだァぁあ」
「討ち取り名を上げろォ!! 褒美は欲しいままだぞッ!!」
有難くもないご指名を受けたウォルムは、嗾けられた兵に応じる。助走で勢い付いた短槍に斧槍を沿わせ、刺突の軸を頭上へと逸らす。勢いを抑制できず。自ら枝刃に飛び込む形となったフェリウス民兵の首筋から血が溢れた。
死に際を見届ける間もなく、二本目の穂が弧を描き直上より到達する。振り下ろされた一撃を手首を返した石突きで弾けば、直下にねじ伏せられた槍先が地面を叩く。二撃目を試みる兵であったが、踏み込んだ帝国騎士は人差し指と中指の二指を突き出す形で左拳を振り抜いた。
「ぐ、おッ、ぉお゛ォァ!!?」
烏兎とも称される眉間の中間点に吸い込まれた打撃は、鼻骨ごと眼球を圧壊させる。絶叫を伴い両眼を押さえて暴れる雑兵を無視して、その背後を見据える。麾下の兵に紛れた敵下士官は、まるで蜥蜴のように低い姿勢で飛び出す。
「しぃ、ッぃ゛いい!!」
吐息と共に振るわれようとする剣身に魔力が灯る。《強撃》を警戒する帝国騎士だが、その半歩遠い間合いと特徴的な揺らぎに遅まきながら気付いた。右足を引き腰を沈めて迎撃から回避に移る。下士官が放ったのは《強撃》ではなく《風刃》、逸らした胸元を掠め風の刃が通過していく。攻撃魔法を捌き、姿勢が崩れた帝国騎士に上段から打ち下ろしの追撃が迫っていた。
「貰ったっァ゛ああ!!」
抗うことなく垂れ下っていた石突きで土塁を刺し、支えを得たウォルムは半ば倒れながら横蹴りを放つ。思わぬ反撃、意識外からの攻撃は身体に良く響く。胴部を捉えた靴底は鎧越しに臓腑を叩き、唾液混じりの息を強制的に吐き散らさせる。
「はっ、ァ、おのれぇっ」
フェリウス下士官は手放さなかった剣を苦し紛れに振るが、虚しく空を撫でた。得た隙で体勢を立て直したウォルムは小さく刺突を繰り出す。イチ、ニイと剣脊で捌きやり過ごした下士官であったが、三度目の突きが剣鋒を押し退け喉元を捉える。
ぽかりと空いた穴からは、動脈特有の鮮やかな朱色が噴き出す。腰で暴れる鬼の面のようにウォルムは飢えていない。血沼に沈む死体に興味などなかった。馬踏みの縁から戦場を見渡し、足りぬ部分を想像で補完し、全体を俯瞰する。
「駄目だ、抑え切れない」
一か所塞いだ程度では解れた傷口は広がっていく。根本的な処置が必要であった。糸口を見定める為、首を小刻みに振り視線を滑らせる。裏でこの総攻撃の糸を引いたであろうそれをウォルムは見つけ出し、後任の指揮官の正体を悟った。
「やっぱり、あいつらか」
忘れもしない特徴的な鎧、クレイスト王国ご自慢の暴力装置であるリハーゼン騎士団であった。従士や騎士の数は多くないものの、敗北を喫した部隊へと発破を掛けるために少数が派遣されたのだろう。込み上げる憎悪を追いやり思考を回す。ここまで食い荒らされたのだ。焼灼による止血が早急に必要だった。乱戦部を避け着火点を見出したウォルムは魔力を全身に帯びていく。
そうして槍が入り混じる土塁という境界線を越え、蟻の巣のように広がる仕寄り道へと身を投げ出そうとした時だった。見計らったかのように軍勢の中から人影が飛び出す。咄嗟に火球を撃ち込み、進路の制圧を図るウォルムであったが、あろうことか地面に据え付け使用する置盾が空を飛んだ。衝突を果たした炎と投射物が弾け、爆炎と破片が空中で混ざり合う。
「どんな馬鹿力だ!?」
四、五人掛かりで動かす遮蔽物を投げつけるなど常人ではない。アトラクションを愉しむ鬼の面とは裏腹に、ウォルムの危機感は増すばかり。そしてその懸念は的中した。生物の生存を許さぬ炎の雨が素振りでねじ伏せられ、人の魔力膜が蠢く。
「見ィつけたぁあァ゛あ!!!!」
聞き覚えのある野太い声に眉を顰める。矢の如き勢いで土塁の外法を駆け上がって来る者に対し、ウォルムは魔力を纏わせた斧槍を見舞う。対する男も金砕棒に魔力を灯らせる。理を曲げ敵を斬り破る《強撃》が触れ合い、弾けた魔力が空気を揺るがす。衝撃と反動で馬踏から投げ出されたウォルムは内法を滑りながら、平場に着地する。
「守護長ッ!? 己ぇッええ」
「ってぇ――馬鹿、構うなッ!!」
制止も叶わず、土塁に残るマイヤード兵が新手に飛び掛かる。人と鉄が奏でる轟音が戦場に鳴り響く。血霧と共に醜悪な肉の花が咲き、友兵の上半身は文字通り消し飛んだ。それを成した下手人をウォルムは睨む。
「……ここまで追ってきたのか」
「今度こそ決着を着けに来たぞォ、ハイセルクの騎士ィっ!!」
エスキシュ砦という棺桶で朽ち果てるだけだった守将は、戦場という表舞台を得て、再び帝国騎士へと挑み掛かる。
遅くなりましたが
メリクリ&明けましておめでとうございます(遠い目
コロナの治療と後始末で更新が滞りました。
おみくじ大吉だったのにィ、ナンデ!?