第三十二話
一時の安寧は打ち砕かれた。魔物から奪還された人の地を今度は同じ人類種が奪う。クレイスト王国軍による私兵の埋伏は要所を一時的に無効化、その隙は雪崩れ込む大兵力にとっては十分であった。数度の衝突を経て、暫定国境部の守備隊は組織的な抵抗を喪失、防衛線は大崩れを起こす。擁護者を失った民の末路は何時も凄惨であった。村に残った者達は数千の飢えた悪意を浴び、蝗害の如く兵団に食い尽くされる。
民兵による乱取りから辛くも逃れた旧フェリウス系農夫の一家は、今まで幸運な部類であった。大暴走を生き残った者達の多くが家族を失い離散していく中で、セルタに滑り込み親子三代が命を繋いだ。故郷であった村は魔領と化していたが、開拓兵により人の手に戻され、農夫は家族と共に入植を果たした。
抱えて逃げた麦種子が芽吹き、苦労の果てに収穫を果たした時は、我が子のように麦が愛おしかった。そんな農夫はまた麦種子と家族を連れ逃げていた。永遠に続くように感じられた坂道を抜け両脇を森が囲う。危険度の高い魔物は一掃されていたが、取りこぼしが騒ぎに誘われ忍び寄る。事実、陰鬱な森林の奥へと何かが引き摺られた血痕があった。
一家は既に夜通し歩き詰めていた。纏わり付く疲労感で皆顔色が悪い。限界を悟った農夫は小休憩を兼ねて一時的に足を止めた。苦痛を漏らす子供達の足に妻が薬草を塗る。外反母趾と踵は赤みを帯び血が滲む。繰り返し擦れた結果、酷い肉刺となっていた。
「背中に乗るか?」
「ううん、大丈夫」
農夫が次男に呼び掛けると首を振って断られた。まだ十にもならない我が子の優しい気遣いが、今はただ痛々しい。
「遠慮するな。爺ィと違って父さんは元気だぞ」
我が子の頭をひと撫でした男はしゃがみ込む。親が子供の一人、二人くらい背負えなくてどうするというのだ。
「いいなぁ」
「順番だぞ」
「うん!」
羨ましそうに兄弟を見る我が子に微笑み掛けると、長男は嬉しそうに声を上げた。もしかしたら、このままセルタに着くかもしれない。そんな農夫のささやかな願いは、現実に塗りつぶされる。それは遠方からで、掠れていたが確かに聞こえた。
「……」
周囲も異変に気付いた。疎らな人の列は段々と速足になっていく。男の一家も例外ではなかった。そうして見知らぬ誰かの絶叫が事態を告げる。
「クレイストの民兵だぁッあぁ゛ああ!!」
避難民の列が狂乱で動き出す。皆一心不乱に走り続けるが、体力が残されていない者から次々と落伍していく。街道を諦め森の中に逃げ込む者も多い。男は子供を抱えて走り続ける。老年の父も、妻も息を切らして懸命に走ってはいるが、肺腑が音を上げ足が疲労で棒のように固まっていく。
いよいよ悲鳴が直ぐそこまで迫る。振り返ればクレイスト民兵により繰り出された槍が、道を外れて逃げようとした一家を蹂躙するところであった。先行した軽装歩兵が、手当たり次第に避難民を殺し回っていた。どうすればいい。森に逃げ込むか――だが、セルタには逃げ込めなくなる。手ぐすね引いて待つのは魔物だけではない。敗残兵や市民に対する山狩りは激化の一途を辿る。緩慢な死を選べなかった。
「なんで、なんで同じフェリウス人なのに」
「もう足が、走れないよぉ」
嘆きは無常にも怒声と断末魔に掻き消される。大暴走に呑まれた隣人たちも、こんな最期だったのか。家族を守らなければならない大黒柱が情けない。恐怖が鎌首を持ち上げ、男の臆病さを露呈させる。
「爺ィが、あいつらを蹴散らしてやる」
「お義父さん!?」
農夫は己が父親の声に耳を疑った。老齢で背骨がすっかり曲がった父が、戦地帰りの家宝として携えていたショートソードを抜く。
「親父それは――っ」
本人の口から語られることは無かったが、男の父が兵役で魔物や人との小競り合いをしていたのは人伝に知っていた。義務を果たした偉大な父として誇りには思っている。それでも無謀であった。全身に鎧を纏った現役の兵隊に勝てる筈がない。
「馬鹿タレが黙っとれ。いいか、振り返るんじゃない、絶対に振り返るんじゃないぞ」
強い口調とは裏腹に優しく頭を撫でられた。幼少期の記憶が蘇る。その眼は男が流行り病で母が死んだ時と同じ、固い決意に満ちた目であった。任地から帰還した父に抱き締められ「一人でもお前を立派に育ててやる」と何度も撫でられた。名残惜しそうに手を離した父は、一家の輪から離れた。言葉が出ない。
「ねぇ、爺ぃ、が!!」
「まっ、前を、向いて、走りなさい」
震える声で農夫は子供に諭した。泣けばそれだけ呼吸が乱れる。身が竦むような金属音の後に、麻袋を叩き付けたかのような乾いた音が響いた。一家は約束の通り振り返らなかった。差し迫っていた鬨の声が僅かに遠退く。だが、非情にもそれも一時であった。戦のことなど何も分からぬ男であったが、確信があった。このままでは追いつかれる。親父は断末魔一つ上げずに逝った。何の為に死んだんだ――犬死にだったのか。
繋がれた小さな手は震え、背負う我が子は緊張で息を乱す。農夫にとって掛け替えのない重みを持つ。だからこそ亡き父の気持ちは、身を裂かれるほど理解できた。
「……次は俺の役目だ」
「そんな、あなたっ、あなたぁ!!」
我が子たちは絶対に離さないとしがみ付き、妻は泣き崩して静止する。男の決意は一層強まった。
「セルタまで走れ、元気でな」
家族を振り払い麦種を渡した男は、迫る死に対峙した。震える指で抜いたのは短刀。我が身に向けられる長大な槍に比べれば、何と矮小か。喉が詰まり感情の氾濫で流れ出る涙が呼吸器を圧迫する。
「ふぅ、ふ、ふ、ぅっあ、ぁぁ゛っ」
年老いた親父は一家を振り向かせない為に、声一つ上げずに戦った。なのに農夫は情けなくも声が漏れた。赤黒く染まった穂先の群が迫る。まるで血を吸った無数の枝のようであった。遂には人相まではっきりと見てとれた。嘲笑う彼らとは対照的に、農夫は歯を食い縛る。武器など扱えない。それでも男は決意していた。例え死んでも死んだ後もしがみつくと。
◆
民が背に追い打ちを受け、血反吐を吐き地面に倒れ込む。民兵達は実に手慣れた様子――掠奪相手は動かない方が楽だ。逃げ出すことも所持品を隠すこともない。そんな飢えを血で満たし酩酊状態の集団に、勇敢にも挑む老人がフリウグの目に映る。
「中隊長――」
静かに、それでいてはっきりと麾下の兵員が合図を求めて、呼び掛けてくる。
「まだだ、遠い。それに今割り込めば圧殺されるのはマイヤードの民だぞ」
多くを救うためには少数の犠牲は許容される。半端な介入は犠牲者を増やすだけ。理解はしていても気分の良いものでない。ダンデューグでの戦闘を経験した多くのものは、マイヤード公国に大小あれど恩義を持つ。
曲がった背とは思えぬ鋭い剣技、見事なものであった。老人は幾つかの槍先を潰し、集団の足を一時とは言え止めてみせた。だが、その代償は命だ。彼が命を懸けて守りたかった存在にも危機が迫る。フリウグだけではない。経験豊富な兵共も焦れていた。本土で家族や出身地を失った者は、セルタで衣食住を頼る内に、マイヤードという新天地を好きになっていた。
軍人としてのフリウグは、感情を切り離して、ただその時を待つ。だが、只人としての感情は叫ぶ。諦めるな、走れ、もう少し、早く、もう少し。先立った老人に倣い、また一人の農夫が反転した。手にするのは小振りな短刀一つ。クレイスト民兵は老骨に翻弄され殺気立っていた。先程の憂さ晴らしを兼ねて、槍を揃えて男を貫こうとする。
遠方から分かるほどに農夫は狼狽していた。嘲笑うのは簡単だが、突き出される槍衾の正面に立つなど、どれだけの兵が同じことをできるか。フリウグは命じた。それは普段よりも僅かに早く、上擦っていた。
「目標、敵小集団先頭――撃てッ!!」
中隊が誇る十二人の魔導兵が隠蔽をかなぐり捨てて、内包する魔法を解き放つ。四属性の魔法が兵列を蹂躙する。これが火属性魔法の一斉射撃であれば容易に片も付くが、そうはいかない。
「あー、ぅあ、あっ――?」
「腕が、腕がぁああ!!」
「魔道兵だ、固まると、喰らっちまう」
「勝手に離れるなァ!!」
薄れゆく土埃の中から戦果が見て取れた。ある者は衝撃により呆然と座り込み、ある者は槍ごと喪失した腕を振り回す。麾下の兵員は獲物を前にした猟犬のように続く命令を待っていた。フリウグは彼らの首輪を解き放つ。
「総員、突撃ぃィい!! 根切りだ。奴らを根切りにしろッ!!」
号令に背中を押された強者共が地を駆ける。両脇を兵が固めるが、先んじたフリウグは手にした槍を助走の勢いそのままに叩きつけた。柄が撓り、風を切った穂先が民兵の不完全な防御を破る。兜と接触した刃先が耳障りな高音を奏でながら側頭部を走り、柔らかい首元を裂く。
鮮血が噴水のように噴き出る。血霧の中でフリウグは次の標的を定めていた。民兵を纏める正規のクレイスト士官。掛け声で混乱を鎮めようと躍起になっている。フリウグの足取りに合わせて随伴する兵達が槍を振る度に道が開く。フリウグ自身も進路上にいた民兵を二度貫いた。
障害物が無くなり、クレイスト王国軍指揮官が眼前に晒された。鋭く放った刺突は、剣の腹によって一度は退けられるが、繰り返される突きにより傷付き鎧の隙間から血が滲む。
「誰か、っ手伝え、おごっぉ!?」
助勢を求める指揮官であったが、彼我の練度の差は明らかだった。幾ら魔物を殺したところで、殺意と装備で身を固めた部隊と相対した訳ではない。するりと横合いから伸びた槍が膝を貫く。手の空いた部下の一撃であった。剣技を競う場でもない。フリウグは一対一にかかずらうつもりなどなかった。寧ろ、一対多数こそ軍人として臨むべき状況。
「やめ、あ゛ぶ、っ、あ……」
戦場で這いつくばった者の未来は暗い。差し出されるのは手ではなく石突きと靴底であった。
「隊長が討たれた!?」
「撤退するのか、どうするんだよ」
指揮官を討たれた動揺は譫言を呼ぶ。都合の良い言葉だけが切り取られ、集団に伝染していく。指揮系統の継承が固められていない集団の脆さ。
「撤退? 撤退の命か!?」
「後退だぁああ!!」
「退け、ひけぇええ!!」
眼前に無傷の軽装歩兵中隊が居るというのに、戦場の幻聴に囚われた民兵達は背を見せて敗走に移る。
「崩れたぞ。追い立て討ち取れ!!」
中隊長の言葉を士官達は反復する。それは戦闘時でも兵に集団としての意図を伝え切る為であった。手慣れた集団であれば無言で戦い切ることも不可能ではないが、わざわざ戦闘中に声を縛る指揮官は居ない。
「……愚かだな」
正面から斬り合えば、一方的に殺されることはなかった。逃げる背を槍で貫かれ、足元を突かれて民兵共は転倒していく。退き口こそ戦闘で最も困難な行動。殿も残さず逃げられるはずがない。追撃とも言い難い蹂躙は最後の一兵に至るまで行われた。
「物を抱えて死んだか」
連中の逃げ足が鈍った要因は、身に着けた略奪品であった。死の間際にあって武器は捨てても略奪品は捨てなかったのだ。輜重隊による補給が万全ではない戦では、現地調達として略奪行為も軍として容認される。個人での糧秣の携帯にも限度があるからだ。加えて兵卒の士気向上の為に、一部の戦では黙認または容認されていた。ハイセルク帝国軍としても行ってきたことだ。
「フェリウス系民兵の不満が想像以上に強かったのだろうな。現場の暴走、見せしめ、ガス抜きが妥当なところか」
綺麗事だけでは軍は回らない。だが、物には限度がある。生産拠点でもある占領地を人ごと破壊し尽くしたとなっては、復興の手間ばかりが掛かる。ハイセルクは重要な地域では軍令で乱取りの規制と制限をした。人道的な面で見れば小国であったハイセルクは、人的資源を大切にしているとさえ言えた。人は殺すし殺されもするが、無駄死にはさせない。
「数は膨らんでも士官、下士官は早々には育たない。クレイストも抱え込んだ人で消化不良を起こすとはな」
段階的に土地を人を吸収しなかった弊害であろう。管理が飽和したのだ。フリウグは逆手で持つ槍で死体を突いて回る。死に真似でやり過ごされれば手の内が露見する。そうなっては根切りにした彼らも無駄死であった。
「中隊長っ!! 死傷者の報告が」
呼び掛けてきたのは中隊長に所属する小隊長の中でも、最も年配の士官であった。
「……どうだった」
「戦死者は二十三名、重軽傷は三十五名ですが、前線治療魔術師の治療で、多くは戦線復帰可能です。ただどうにもならない者が二名おり、楽にしてやりました」
「そうか、分かった。私の代わりに気苦労を掛けたな」
各隊からの被害を纏めた先任の小隊長がフリウグへと報告を上げた。そこら中に散らばるクレイスト民兵の死体。殺傷比で言えば十対一は下らない。同規模以上であったことを考えれば、上出来ではあった。
「負傷者は被害の多い小隊と共に先に下がらせろ。先は長い。消耗し切る訳にはいかない」
ユストゥス旅団長からの命令は防衛でも奪還でもない。兵の徴収、各地に散っている戦力の集結までの時間稼ぎであった。
「承知しました。ところで、死体は片付けますか」
「そのままでいい。乱取りに夢中になっていたとはいえ、中隊規模の兵を屠った影響は少なくない。逆襲や待ち伏せを嫌でも意識するだろう」
勝っているようで、全体で見れば劣勢そのもの。個々の部隊が奮闘した程度では戦況は覆らない。それに今は手頃な旧フェリウス系民兵ではあるが、魔領という肉挽き器に掛けられ生き延びれた連中だ。人は柔軟で成長する。戦友を教訓として嫌でも学び取るだろう。
思考を切り替える為にフリウグが顔を上げた。広がる視界には死体と屯する兵が映るが、その中に異質な人々が居た。それはフリウグが号令を駆ける際に、襲われ掛かった農夫の家族であった。
「祖父は死んだが父親は生き延びたか……守護長であれば、あの家族は全て死なずに済んだか、兵達の犠牲は少なく済んだか? いや、我ながら愚かな問いだな」
意味のない問いを捨てフリウグは次に備える。槍を振る相手には、困らないのだから。
お得な二話分相当です




