第三十一話 女大公
鋭剣のように巨大湖へ突き出たセルタ半島。その付け根には馬蹄型の山脈と崖が連なり、玄関口である一部の切り通しを除けば、切り立った山を越えるか湖を渡るしかない天険の地であった。それら外郭は外部からの脅威を遮断。良港を内包する軍港都市アンクシオに安定した統治を齎し、公都エイデンバーグが失陥して以来、名実ともにマイヤード公国の中核としての機能を果たす。
大暴走後のフェリウス地域では一帯が壊滅する中、直接的な被害を免れた数少ない生存圏であり、辛くも生き残った者達が集うのは必然であった。未曽有の危機に、統治者であるマイヤード公国の女大公リタ・マイヤードは形振り構わぬ上意下達で周辺領主、教会、難民を纏め上げた。
考える頭は複数あっても良い。だが、決断を下す頭は一つでなければならない。強権的であったとリタにも自覚はある。だが、そうでなければ跋扈する魔物や迫る飢えに対抗できるはずもなかった。漁業、水運両面で民を養い、対魔領の策源地として失陥した人類の土地を削り取る日々。
各地から上がる報告、嘆願は片っ端から目を通しマイヤードの名で裁決を下した。慢性的な疲労により、眼孔はまるで窪み、クマが化粧のように縁を彩る。女性の容姿としては欠点であったが、眼光に鋭さが生まれ、統治者としては多少の箔が付いたのが救い。大公としてリタはやれることはやった。だが、全てが上手くいった訳ではない。輸送手段や人員の払底により食料、燃料の不足と不均一が生じ、餓死者や凍死者を防ぎ切れなかった。再び故郷に入植した人々ごと、魔物の再来により圧殺された村もあった。
リタ・マイヤードによる統治は万全でも、平等であった訳でもない。犠牲者にとっては大公としての素質に欠け、現実を知らない小娘に映ったに違いない。だが、細部に固執すれば全体が破綻し、難民を粗末な棒や農具で、ただただ魔領に押し込むこととなっただろう。
あれから二つの歳月が流れた。餓死者や凍死者が皆無になった訳ではない。それでもレフン鉱山の本格稼働、ハイセルク帝国を経由した貿易網により、状況は少しずつだが好転しつつあった。家臣同士の些細な戯れに頬を緩め、ただの風景であったセルタ湖、その湖面を美しいと思えるくらいには。
昨日まで穏やかだった湖面が、無数の航跡波により乱れる。湾内に停泊していた艦隊が敵艦に備え出港した結果であった。騒ぎは陸の上でも生じる。倉庫に蓄えられていた武具が根こそぎ引っぱり出され、民の中から兵の徴収が続く。
「圧政に苦しむフェリウス王国民の保護。不当に併合された領土の解放、それもフェリウス王家の紋章付きだと」
「本当にフェリウス王家が生き残っていたのか」
「あり得ん。元近衛の報告でもフェリウス王家は王城で国と共に果てた。家系図にも載らぬほど血が離れた者か、作り上げたかだ。傀儡国家を樹立後に衛星国化か併合、どうとでも扱える」
都市を睥睨する城塞、その最奥にアンクシオひいてはマイヤード公国の国策を左右する重臣が集まっていた。小隊単位の兵が整列を果たせる広間は止むことを知らぬ論議で熱を帯びるが、機密性から外気を取り入れることもできない。臣下の者達は弁舌を振るうがどうにも平行線、話題は煮詰まっていた。
「そもそも、何が最後通告だ。既に戦端は開かれているではないか」
「奇襲は戦の基本だ。怠ったのは我らだろう」
「蜂起場所は暫定国境線近くのバルボアード、ラナイスフィア。既にクレイスト王国軍が進出している」
「住民蜂起と言っても、その内実は埋伏していたクレイスト王国軍の私兵だ!!」
「攻勢軸は予想通り湖畔沿いだが、ヤルククの蜂起と連絡線の断絶で、レフンの守備隊は身動きできない」
「文字通り街道の切断。現地守備隊は陸の孤島だ」
武官達は地図の上で駒を寝かし立てては顔を顰める。その一貫性のない動きは、現場から齎される情報の迷走ぶりをリタに指し示す。
「ヤルククとバルバスエクでは、領主ごと寝返る始末だぞ。恩知らずどもめ」
「レフンや他の地域を優遇していると不満に感じていた連中だ。税の軽減などせずに毟り取るべきであった。事実、謀反を起こす程度には余力があった」
「皮肉を言っている場合か」
「内陸はまだしも暫定国境線を食い荒らされるなんて、軍の怠慢であろう」
責任を追及するかのような言い草に、武官が吠えた。
「言うが易し、机上の空論だ。国難に人を選り好む余裕など、どこにあった!! 荷や人を片端から検めろとでも言うのか。輸送が遅れていれば、追加で数千単位の人が飢え凍え、死んだだろうがッ」
擁護したのは、セルタの海運から陸送までの物流を網羅する商家の当主であった。
「責任が皆無とは言いませんが、責められるものでもありません。人の流れは国の血液。それを止めれば待っているのは端部の壊死。そもそも先の戦争で主戦場となったマイヤード、ハイセルクに対し、本国が無傷のクレイスト、リベリトアの取り得る手は多い。人の流れと数は情報に直結します。諜報でも不利なのは今更でしょう」
「せめてあと一年あれば多少の余力も……炙り出しも可能であっただろうが」
力無く呟いた文官は、首を振り目を落とした。
「旧フェリウス領統治の為にも必要だった。それが毒入りだったとしてもだ」
「奴らの要求は、レフンを含めた旧フェリウス領の即時返還。ハイセルク帝国軍の排除、セルタへの同盟軍の常駐だぞ」
「ふざけたことを、主権などあったものか」
「拒否は容易だが、国家が滅んでは元も子も……」
「以前のクレイストであれば騎士団や英傑頼りの兵無し共であったが、今は曲がりなりにも幾つも大隊規模の兵員を揃えている」
「祖国奪還を命題に西北から東に住まうフェリウス人を魔領に突撃させ、自然淘汰で出来上がった兵隊共だぞ」
明言こそ避けたが、文官の一人は羨むように言った。
「人的損失に目を瞑れば、口減らしも兼ね練兵の費用も無し。前線ならば反乱で寝首を掻かれる恐れも無し……手間要らずだ」
マイヤードの国策とは正反対。尤も、批判をするほどリタも清らかではなかった。綺麗ごとだけでフェリウス人を取り込んだ訳ではない。マイヤード公国は長引く戦乱で人が減り過ぎたのだ。国家継続のためにも新しい血肉、人口を取り込む必要性が有った。
「クレイスト王国への返答はどうする」
文官の重鎮の問いに明確な返事はなかった。現実に基づく悲観的な意見の噴出ばかり。疲弊した家臣達の議論が途絶え、沈黙が場を支配する。だが彼らの目は雄弁にリタへと語りかけていた。かの国の要求をどうする、と。分岐点であった。ここで公国の命運が決まる。リタは逡巡もせず揺れる面々に言い放つ。
「旧フェリウス領、レフン鉱山を手放したとしましょう。では、次は。関所を撤廃しろ? 砦を破却しろ? 堀か壁か、何にしろ、要求は止まることなくエスカレートする。私達は、食い易いと侮られている。此処で引けば未来永劫強請られ続ける。妥協は有り得ません」
告げられたのは徹底抗戦。勢揃いしていた者達は言葉を慎重に選び、己が主に提言する。
「大公、今後の外交を考えると、それはあまりに……」
「兵力差を考えると、我々は劣勢です。それに同盟軍と衝突した後、また寝返りが起きる恐れも」
「ヤルクク、バルバスエク以外の旧フェリウス領主に離反者は出ましたか」
通信魔道具からの報告を逐次、地図に反映していた武官にリタは尋ねる。帰ってきた言葉は否定であった。
「いえ、まだ確認は」
「大暴走から救い出した恩義を感じる領主もいるでしょう。だが、恩義だけでは暮らしていけない。離反した領主は領民や一族の繁栄を懸けてそう選択した。では残りの者は?」
円卓は静まり返る、大公の次の発言を待っている。ゆっくりと、一人、一人に眼を合わせリタは投げ掛けた。
「実際のところは疑っているのでしょう。クレイスト王国はセルタ半島を落とし切れるのかと。ハイセルク帝国はセルタを包囲こそしましたが、力攻めを諦めました。そのハイセルクは今や友軍です。四ヵ国同盟軍が力負けした帝国。そして帝国が落とせなかったセルタを、果たしてクレイストは攻略できますか? レフンで、サラエボで敗北を重ねた彼らが――貴方達も覚えているでしょう」
過去を水に流すのは難しい。それが凄惨な戦であれば猶更であった。だからこそハイセルク帝国軍の脅威と恐怖は記憶の奥底に残っている。この場に居る重臣でさえ例外ではない。リタでさえそうだった。ハイセルクの精鋭、取り分け蒼炎を操る《鬼火》使いと接見した時には、恩義と畏怖が心の中で同居していたものだ。悟ったのは傍らに控える老騎士くらいなもの。
「あのハイセルクが、我々を助ける為に死力を尽くすと?」
所詮は旧敵、別の観点から武官は警鐘を鳴らす。合同訓練や行動を共にした彼らでさえ、未だ疑問を持つ。国家間の友誼、信頼――大いに結構だ。国民を纏める綺麗な言葉としては正しい。だが、現実を知る彼らはそんな安い言葉には騙されてくれない。リタは極めて冷めた言い方で断言した。
「ハイセルクは命に替えてもマイヤードに尽くすでしょう。我々が倒れれば、遅かれ早かれハイセルクは東西から圧殺される」
ぱんっ、乾いた音が響く。リタは両手を勢い良く叩き合わせ、全力での救援を拒んだ帝国が辿る末路を示唆した。このために会合へハイセルク陣営を招かなかったのだ。十分に視線を集めたリタは組んだ手を捻り、指を絡める。
「彼らは私達が必要です。その逆も然り。両国は既に根深い依存関係にあります。軍事的にも、経済的にも」
父ユース・マイヤードが誤ったのはその協力関係だ。フェリウス王国に対し、見下して支援を渋るのであれば、ハイセルク帝国に迎合して攻め立ててやる。そう優しく丁寧に恐喝し、全力で支援を引き出すべきだったのだ。同じ過ちは起こせない。マイヤードは、リタはその有用性を示さなければならない。
「他に意見は?」
毅然とした大公を前に、否定の言葉も、首を振る者も居なかった。クレイスト王国の一手は優れていた。暫定国境線の掌握、戦力の分断、それらは軍事的優位に加えて、精神的な揺さ振りとして機能を発揮する。だからこそ、指導者として方針を示さねばならない。
「我々はハイセルク帝国軍の後詰めが到着次第、野戦での決戦を行い、クレイスト・リベリトア同盟軍を打ち破ります。まだ負ける前提で話しますか」
続けてリタは厳格な表情を一転して緩め、文官へと注文を付けた。
「使者には丁重に、こう告げなさい。セルタ湖では盛大な水葬の準備を整えている。故に帰路の糧食は必要ない。貴軍の到着を心待ちにしている、と」
「ははっ、それはまた、豪気ですな」
「奴らに情緒というものを教えてやりましょう」
大公の言い様に、小さいながらも重鎮達から笑いが漏れる。窮地だからこそ強がり笑う必要がある。ふざけた最後通告には、相応の返事であった。




