第二十七話
熱を帯びた吐息が肌を擽り、酸素を欲する肺腑に合わせ鎧が揺れ動く。ウォルムは面越しに眼だけを動かし、視界の中で動きを探る。喧騒に包まれていた一帯で響くのは自身の呼吸音のみ。教会堂に近付く者は等しく消え失せていた。
「ふぅ、っはぁ――」
赤い絨毯で彩られた地面からは湯気と共に臭気が立ち込める。遠巻きに向けられる視線を辿るが鉱山街の住人ばかり。だが油断はできない。何せ、支配下に組み込んだはずの旧フェリウス兵による襲撃なのだ。一見すれば無害そうに見える市民ですら敵対の恐れがある。
「ジュスタン、聞こえるか」
建物内に呼び掛けながらウォルムは視線を落とす。大槌を握りしめたまま息絶えた襲撃者が未練がましく扉に張り付く。その鎮座ぶりはまるで門番のようですらあった。幾ら乱戦だったとは言え、殺した相手くらいは覚えている。見覚えの無い亡骸は、打ち壊しつつあった扉の隙間から逆襲を受けたのだろう。
「聞こえるぞ。外は終わったようだな」
返答は直ぐにあった。ウォルムが室内を探る様に、ジュスタンも外の様子を窺っていた。
「見える範囲はな――恐らく、多少の取りこぼしもある」
全滅覚悟と全滅では大きな隔たりがある。敗北を悟り、壊走した兵士も居るはずであった。
「食べ残しとは、ハイセルクらしくない」
帝国の本質を揶揄した言葉。ウォルムは皮肉を以て答えた。
「母親気取りか? それよりそっちの損害は」
「鎧戸越しに一人が首を、あとは背後から二人刺された」
看過できない言葉にウォルムは眉を顰めた。少なくとも正面の入り口は抑え切った。大槌で乱打され、氷槍が突き刺さってはいるものの、人間は通り抜けるには矮小過ぎる穴だ。通過できるとすれば鼠くらいなものだろう。
「背後からだと? 鎧戸か裏口から入られたのか」
「襲撃前に間者に入り込まれていた。負傷者と治療魔術師に一人ずつだ」
「刺された奴の容態は」
「稀代の治療魔術師が居る建物だぞ。即死さえしなければ、死ぬのも難しい……ところで扉に何か張り付いているのか、重くてかなわん」
「未練がましい奴がな――今退かす」
殴打により建て付けが悪くなっていたが、主な原因は人型の重しであった。ウォルムは首鎧を掴み障害物を引き摺る。喉元からは夥しい出血が目立つ。死因は頸動脈への刺突による出血死か。物言わぬ死体は水を含んだ藁のように重く、滴る血痕が擦り切れた文字のように地面に刻まれる。
漸く対面を果たしたが、抱き合い再会の喜びを分かち合う間柄でもない。互いに足先から頭まで視線を走らせ、負傷の有無を確認するのみ。
「この後はどうする」
多少の汚れはご愛嬌。五体満足の同僚に今後の指示を仰ぐ。
「明確な友軍の下に移動したいところだが」
元近衛からの煮え切らない回答。無理はないとウォルムは危険予知を続ける。
「鉱山街の部隊は当てにならない。それに防御陣地も無しで、護衛対象を守り切れるか」
「無理だな。ただでさえ少ない護衛から伝令は割けない。山城には相当数のマイヤード兵が駐留している。あれほどの騒ぎだ。状況の把握に必ず斥候が派遣される。それまで籠城が妥当だろう」
ジュスタンの意見は妥当であった。仮にこの男まで寝返っていたらと考えると背筋に寒気が走ったが、寝返るには機を逸している。勘繰り過ぎも要らぬ不和を招く。ウォルムは直ぐに切り替えた。
方針は固まりつつある。あとはどう守るか、兵員の配置に頭を悩ませるウォルムであったが異臭が集中を妨げる。嗅ぎ慣れた死臭を上塗りする腐った土の臭い。
「何の臭いだ……死体? いや、土、か」
「おい、急にどうした」
一人芝居のように騒ぐ騎士。怪訝な眼差しでジュスタンが呼び掛けるが、自問自答に耽るウォルムは邪魔をするなと手で制し、記憶を懸命に探る。臭いというのは記憶と密接に結びついている。そこに過酷な体験が付随していれば忘れるはずもない。
ハイセルク帝国軍が誇る軽装歩兵は便利屋であった。密集陣形から普請まで、時には大工紛いにぼろ屋を立てることもある。そんな過酷な経験の中で嗅いだ臭い。
「確か、サラエボ要塞の前哨陣地だ」
要塞攻略を前に、敵に戦闘展開を強要して出血を図る目的で築かれた曲輪群。その普請は地中の奥深くまで及んだ。地中に埋まっていた堆積物が地上に露出する悪臭は、疲労と共に心身に刻まれたものだった。問題は一体どうして、こんな時にその異臭がするかだ。
「鉱山街に来てから、この土の腐った臭いはしていたか」
大人しく経過を見守っていたジュスタンは暫し黙り込むと首を振った。
「いや、ここまで強くはなかった」
「まさか、最初の山津波も人為的なものなのか」
標的は明らかにアヤネを狙ったものであった。現地で情報を得てから襲撃するには手際が良過ぎる。予め主坑道が崩落すると知っていた方が自然であろう。
「おい、どういうことだ!?」
「二発目が来るかもしれないってことだ」
最早掠れつつある遠い前世の記憶。習慣で垂れ流していた朝のニュースだっただろうか、山津波の直前に黴や土の臭いがあったとコメンテーターが報じていた。あの甲高い声と凄惨な映像に、当時のウォルムは足を止めて見入っていた気がする。
顔を見合わせたウォルムとジュスタンは、競うように外へと走り鉱山を睨む。禿山の表面が微かに揺れ動く。その動きは次第に増長し、一挙に崩れた。先ほどまで形あったものが流体と化し、まるで山そのものが溶け出す。
「土石流!? こいつら、要人の位置確認と準備を終えるための前座か」
「退避は――」
「間に合わないっ」
二段構えの作戦であった可能性もあるが、今はそれどころではない。ウォルムは被せ気味で元近衛兵を否定した。既に街の外縁にまで達した黒い大波は、減退することなく家屋を呑み込んでいく。破砕音に混じり住民たちの悲鳴がこだまする。最後まで見届ければ同じ破滅の道を辿るだろう。
「あの黒い波は馬より早いぞ。高所だ。高所に行け!!!」
教会堂は有事に備えて作られている場合が多い。農村部でも魔物や盗賊と言った類から身を守る最後の砦としての機能を持たせている。鉱山街に普請された治療所も例に漏れなかった。内壁を叩いて回り強度を確かめたウォルムは、室内に居る者に告げる。
「今すぐ鐘楼に上がれ!!!」
室内を奥へ奥へと進めば、アヤネが応急処置を施す手を止めてウォルムに尋ねる。
「ウォルムさん、外で何が!?」
「土石流だ!! 鉱山街に押し寄せてくる。鐘楼に登れ」
「動けない人たちが――」
マイアが指差す先には、十数人を越す重傷者が並んでいた。その奥にもまだ人が横たわる。
「問答すればそれだけ死ぬぞ。動け!!!」
前線では一種のトリアージさえ経験したアヤネだ。有事に最も貴重とされる一つは時間。その意味は正しく伝わった。
「手を回して、早く!!」
「動ける人は手伝ってッ」
アヤネ達は患者を背負い鐘楼への階段を昇る。他の護衛も手伝うが手が足りない。救える分は救うつもりだ。だが、全てを助けられるほどの力も時間も残されていなかった。両肩に負傷者を携えたウォルムは、呻く彼らに発破を掛ける。
「う、ぅっ、っぐぅう」
「立て、ない」
「足を動かせぇ、踏ん張るんだ」
「き、傷がぁ」
「気合を入れろ!! あんなもので、死にたくないだろう!?」
脆弱な家屋を噛み砕く様な咀嚼音が直ぐ側まで迫る。青ざめた顔、治癒したばかりの傷口が開き、包帯越しに血が滲む。それでもウォルムは焦燥感のままに叱咤し、牽引を続ける。
「あぁあ゛!? 来るぞ、来るぞぉおおお!!!」
一足先に鐘楼へと登った騎兵の一人が叫ぶ。意味するものは明白。悲鳴と怒号は連鎖していく。
「限界だ、上がれぇ!!」
「待ってぇ、まってくれぇえ゛ええ」
「奥まで詰めろ!! 高さを稼げぇ!!」
半壊した扉の奥から何かが迫るのが嫌でも分かる。螺旋階段に踏み込んだ時、室内に土砂が流れ込んだ。鉱山街を食い荒らした土石流は鋭利な建材を含み、その破壊力に磨きをかけていた。
「しゅ、守護長ぉォお」
「っあ、助け、てぇ!!」
後続から悲鳴が上がる。収まり切らない負傷者の一部は分散して別室に寝かされていた。懇願に耐え切れず救いに向った兵ごと土砂に攫われたのだ。
「お前らこのまま、這っていけ!!」
両肩の荷を踏板に降ろしたウォルムは螺旋階段を引き返すが、一階部分は天井近くまで水が押し寄せていた。耳障りな無数の衝突音が響き渡る。ただの水ではない。多量の瓦礫を含んだ水中は、ミキサーに等しい。既に人の声は途切れていた。
「ぐっ、馬鹿野郎がっ」
悪態を吐いたウォルムは踵を返す。死に瀕してまで住民に手を差し伸べた兵士、救いきれぬと彼らを見捨てた騎士、どちらが馬鹿かなど考えるまでも無い。
更なる生贄を欲するように水位が増す。這いつくばっていた者達を拾い上げ、最上部までウォルムは駆け上がる。鐘楼に押し込められた者達が隙間無く身を寄せる。行き場をなくし、支柱にまでしがみ付いた鉱夫の肩が不格好に鐘を打ち鳴らす。それは鉱山街に破滅を告げる鐘だった。
「街が、沈んでいく」
「はは……駄目だな。こりゃ」
気の抜けた鉱夫が他人事のように笑う。彼を叱責する者など居なかった。揺れ動く鐘に混じりすすり泣く声が混じる。鉱山街は為す術もなく土石流に沈んでいく。ただただ暗く深い底へと。




