第十九話
開け放たれた鎧戸から室内に滞留していた香が霧散していく。流れ込む外気を少女はゆっくりと吸い込んだ。大掛かりな治療の際に使われる香と、血膿が混じり合う独特の刺激臭を好む者など居ない。一息吐いたアヤネは小さな呼び掛けに振り返る。
「今日はそれ程、患者の方が訪れませんでしたね」
洗い場で医療器具の洗浄を終えたマイアが棚に器具を戻す。傷口の切開や異物の除去を一任する彼女には、道具への拘りがあり、収納にも気を使っていた。
「こんな日ばかりが続けばいいのに――あ、楽をしたい訳じゃないからね」
慌てて言い直したアヤネに、頼れる治療補助役は笑みを零す。
「分かってますよ。アヤネは自己犠牲が強すぎますから、少しばかり怠業を覚えた方がよろしいです」
「これでも最近は湖を見て回ったり、街の中を歩いたりしてる」
拗ねたように頬を僅かばかり膨らませたアヤネであったが、それらは一昔前では考えられない。あの時、大暴走直後のダンデューグ城、軍港都市アンクシオはやっとの思いで逃げ延びてきた重軽傷者で溢れていた。怪我と体力の度合いで優先順位を設け、意識と魔力が尽きるまで治療に励んだ。期間にすれば二月程であっただろうか。外に一歩も出ることもなく教会堂に詰める生活を過ごした。当時は、全く苦痛はなかったと言えば噓になる。それでも大暴走や死んでしまった帝国騎士を思い出すのも辛く、我武者羅に治療に専念できた。
大暴走から二年近くの歳月が流れ、事情は変わりつつある。冥府に渡ったと思われていたウォルムが北部諸国に帰還した。アヤネは湖を眺め、人と言葉を交わし、時を掛けて心境の整理を付けていた。それは無駄となったが、約束が果たされるのなら些細な手間と言える。
「それは良かったです」
向けられたのは屈託のない笑み。アヤネはどうにも心苦しくなった。彼女をセルタに縛り付けているのは、自身の我儘なのだから。
「ねぇ、やっぱりマイアだけでもクレイストに――」
「誰に強制された訳でもありません。私の意思で此処に残る判断をしたんですよ」
まるで聞き分けのない妹でも諭すような言い振り。遠方からはクレイスト人やリベリトア人も教会堂へ治療に訪れる。その中にはマイアを通じて帰国の要請を伝えに来た使者も含まれていた。クレイスト王国に戻る機会は幾度もあった。世話になったヨハナや幼馴染二人も居る。今となっては治療を必要とする患者は減り、ダンデューグ城で交わした約束も果たされている。それに加えて、マイヤード公国内部にもクレイスト王国に恩義を売り、繋がりを深めるために同国への送還を望む声があったと言う。
葛藤の末に、アヤネはクレイスト王国への送還を断った。それは都市に集まった人々と過ごしたいという感情も含まれていたが、真の理由は誰にも明かしていない懸念によるものだ。かつてアヤネは暗殺者を差し向けられた際に、護衛に付いてくれていたモーリッツから『軍事上の脅威そのもの』と告げられた。戦争では誰しも、無関係ではいられない。その言葉は今も暗く心に残されている。
四ヵ国同盟戦、仮にアヤネや幼馴染が同盟陣営に居なければクレイストの参戦や同盟の締結は無かったかもしれない。あくまでも仮定の話であり、愚かにも驕り高ぶった過大評価かもしれない。それでも治療魔術師として戦争に無関係だと嘯くつもりはもうなかった。その覚悟を胸に、アヤネは戦争が起こらないように、抑止力の一つとしてマイヤードに残る決断をしたのだ。
「マイア……ありがとう」
アヤネは治療魔術師としても、個人としてもマイアと多くの時間を共に過ごした。それがこうまで言い切っている。説得は不可能だろう。アヤネに出来る事と言えば、心からの礼を告げるしかなかった。
「いいんですよ」
国すらも二の次に、今もこうして寄り添ってくれている。アヤネは照れくさくも温かい気持ちでいっぱいであった。何か他の話題でもと逡巡した時だった。治療所の扉が控えめに叩かれる。
「アヤネ様、マイア様、少し宜しいでしょうか」
声の主は護衛の役目を果たしてくれている兵士であった。顔を見合わせたアヤネは頷く。急患が運ばれてきたに違いない。
「大丈夫です。怪我人ですか?」
マイアが二人を代表して尋ねる。
「デボラ教導長と兵士一名が訓練中の怪我を負ったようなのですが――その兵士が、どうやら皆様のお知り合いのようで」
歯切れの悪い言い振り。訓練中の負傷はよくある話であったが、腑に落ちないのは教導役であるデボラの負傷。そこに自身の知り合いもとなれば心当たりは一つしかなかった。
「ウォルムさんですか」
「はい、ウォルム守護長です」
「あの人は何をやってるんですか」
眼を癒しにアンクシオに来たというのに怪我を増やすという矛盾。マイアが溜息を吐いた。
「一先ず怪我の程度を」
兵士の落ち着いた様子から、命に関わる類いではないとアヤネは察していた。開け放たれた扉から守護長と教導長が入室する。普段は背丈以上に頼もしさを与える雰囲気を持つ二人であったが、今は借りてきた猫のように大人しい。詳しく触診する前に、何が起きたか治療魔術師としてアヤネは突き止めた。
「打撃痕に、締め痕ですね」
代弁してくれたマイアの視線は氷のように冷たい。
「えーっと、つまり、殴り合って組み合った、と。訓練で加減もせず?」
「……その通りだ」
「申し訳ないねぇ」
追求から逃れられないと二人が白状した。
「何を、やっているんですか!!! 子供の喧嘩じゃないんですよ!?」
普段露としない怒りの声を上げれば、外に居た随伴の兵士が恐る恐る顔を覗き込ませる。その中には増派された歩兵中隊の主であるフリウグまで含まれていた。
「鼻骨骨折と脇腹の鈍的外傷、頸部の捻挫。こちらは拳の腫脹、口腔内裂傷、歯の不完全脱臼ですか」
マイアが痛みを訴える箇所を探り診断を告げる。魔力膜を巧みに纏う二人が、何をすれば訓練でこれほど身体を痛めつけられるのだろうか。アヤネは頭を抱えたくなった。
「仮にも人を纏める二人が訓練形式の徒手組手とは言え、流血沙汰とは――」
手当てを施しながらマイアの説教が始まる。アヤネも全くの同意見であった。話も半ばに差し掛かり、廊下をドタドタと走る音が響く。愛嬌のある顔を覗かせたのはユストゥス旅団長の下で連絡員を務めるモーリッツ。
「ウォルム殿、聞きましたぞ。デボラ殿との徒手組手で勝利を収めたそうで!! いやぁ、見たかったですな。見事に足で首を締め上げたと。兵達が得た酒で祝杯を――おっと、これは不味い。急用を思い出しました」
興奮した様子で捲し立てたモーリッツは、室内の惨状を遅巻きながら理解すると、踵を返して教会堂から走り去っていく。宛ら敵前逃亡の様相。
「まさかとは思いますが、それは戦利品でしょうか」
マイアが断罪するようにフリウグに尋ねれば、小脇に抱えた品々を隠しもせずに断言する。
「これは守護長と教導長への取り分だ」
「これだからマイヤードとハイセルクは……」
吐き捨てるマイアとは裏腹に、帝国の騎士であるウォルムは声を震わせて言った。
「戦利品に、い、良い菓子がある。アヤネとマイアに是非、食べて欲しい」
沈黙が室内を支配する。数多の修羅場を潜り抜けてきた軍人とは思えぬ苦しい言い訳。
「……アヤネ、これが賄賂ですよ」
「ウォルムさん、そこに座ってください。長い話になりそうです」
《冥府の誘い火》。かの騎士はその二つ名通り、余程火遊びが好きらしい。怒りに燃料を焚べたウォルムをアヤネは二人掛かりで叱りつける。そこには周辺国に忌み恐れられる《鬼火》使い、ハイセルク帝国が誇る最高戦力の面影はなかった。
教会堂に響き渡る馬鹿騒ぎ。皮肉にもそれは平和であることの証明であった。徒手組手を切っ掛けとした騒ぎから七日後、マイヤード公国が編入したレフン鉱山で大規模な地滑りが発生。身動きも取れぬ重軽傷者の治療のため、アヤネの現地入りが決まった。