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第十八話

 胸部前に構えられた握り拳が掻き消え、巨大化したように視界一杯へと広がる。動体視力に物を言わせたウォルムは上体を畳み、頭部のラインをずらす。空振りで押し出された空気が微風のように髪を揺らした。


「手が、早いなぁッ!!」


 腰を使わず力を抜いて放たれたソレは、速度を至上とした一撃。元来は牽制に使う類の打撃であるが、そんな生優しいものではない。顔に貰えば仰け反り唾液を撒き散らすハメとなる。念入りの挨拶はまだ続く。


「焦らすのも焦らされんのも嫌いさ!!!」


 引き戻された左と入れ替わるように強打が迫る。踏み込まれた一撃を真面に貰えば身体が虚空に浮き兼ねない。足底部を擦るように下げ、回避を優先したウォルムに対し、虚空を殴り付けた教導長は笑顔を絶やさない。寧ろ、勢いそのままに身体を接触させる。一見すれば単純な体当たりであったが、内実は崩しを兼ねた高度な技術。選択肢の幾つかと距離を潰された。


「随分と情熱的でっ」


 肌が触れ合うからこそ、その異質な体躯が読み取れる。根を張る大樹と押し合いに興じるほど、ウォルムは漢気も愚かさも持ち合わせていない。バランスを完全に崩される前に、肩を引き足を側面へと滑らせる。重心の芯を捉えられなければ、まだ受け流しようがある。側面に抜けるウォルムに対し、デボラは片足を軸に反転を試みた。巨体に見合わぬ軽快さは、宛ら乱舞のようですらある。


 相手が向き直る前に、脇腹へと拳を突き立てたウォルムであったが、その感触に顔が歪む。砂を詰め込んだ革袋を叩くような慣れ親しんだ手応えではなく、まるで大理石を素手で殴り付けたかのような衝撃と鈍痛が走る。


「っぅ、それが人の脇腹かよ」


「やってくれたねぇ」


 追撃を試みるが、地を這うような軌道で半長靴が迫る。もはや蹴りに等しい足払いであった。飛び退けば脹脛があった場所を蹴りという線が通過していく。まずは機動性を封じるのが目的か。あんな足刈りなど冗談ではない。


「ふっぅ」


 足でリズムを刻み、細かく揺れるようにウォルムは上半身を動かす。距離が開き拳が繰り出される。肘と手首を撓らせた一撃は出所が見極め辛い。半開きの手で叩き落とし、迫る二撃目を肘で滑らせる。懐に潜り込み、再度脇腹へと打撃を叩き込む。肝臓を叩かれれば痺れたように身体が強張るものだが、不条理にも怒気が膨らんだ。


 視界の隅で隆起するように尖鋭が伸びる。胸部を狙った膝蹴り、受ければ肋骨を砕かれかねない。上体を逸らして避け切ったウォルムだが、ちらつく影にこれすらも陽動であったことを悟る。下段への視線の誘導、本命は右の強打。見た目と裏腹に随分と芸達者であった。


 槍のように伸びる強打を目で辿り、衝突寸前で躱す。大振りで生じた好機を受け、透かさず反撃に移ろうとした時であった。ウォルムの視界が揺らぎ頬に鈍痛が走る。口内が切れて滲む血が事態を告げていた。


 捌き切れない。打ち下ろしに呼応するように、放たれた拳が胴部へと突き刺さろうとする。両手で受け止めながら柔軟に衝撃を和らげるが不意に浮遊感を覚える。文字通り浮かされたウォルムは、派手に土埃を撒き散らしながら着地。手のひらが電気を帯びたように痺れる。


「っぅ」


「は、眼が良いのも考えもんだね」


 デボラはカラクリを見せつけるように、指先だけ畳んだ拳を開いては閉じる。宛ら猫の手か。性急に次手を打った結果がこの体たらく。寸前で躱したところを拳を緩め当てられた。誘い込まれたか、反射か、どちらにせよ大した技量であった。口腔に溜まった血を吐き出したウォルムは、眼前の教導長を見据える。


「その眼を一度受けてみたかったのさぁ!!!」


「そうかよ」


 教導長の要望を正しく受け取ったウォルムは、正面から飛び込んでいく。左、右、左と打撃を交え、肩で、肘で殴打を捌く。呆れるほどの頑強な腹筋ではあるが、四度、五度と拳が減り込み、漸く吐息が漏れ出した。それでも互いに動きは止まらず寧ろ、打撃の応酬は激しさを増していく。


 薙ぎ払うようなバックハンドブローに対し、脹脛の側面に蹴りを見舞う。上体を構え直したところで、今日一の打ち下ろしが迫る。まるで直上から迫るような錯覚を覚える拳圧に対し、ウォルムは回避行動を取らずに踏み込んだ。拳が枝を這う蛇のように滑り絡みながら交差する。


 鈍い衝突音が練兵場に響く。捉えたのはウォルムの拳であった。今度は慣れ親しんだ手応え。身体の中心線上、それも顔面を捉えた拳はデボラの鼻をへし折るに十分であった。噴き出した鮮血が地面に滴る。


「いい化粧だ。似合ってる」


 対して教導長は鼻をかむついでとばかりに曲がった鼻を整え、血の塊を虚空へ払い捨てる。怯みも揺らぎもしない。そうして口説き文句の返答を始めた。


「旦那の前で、誘ってくれるねぇ!!」


 まるで恋多き乙女のように、頬を朱色に染めたデボラは吠え掛かる。





 セルタ半島に到着してからのフリウグは、多忙を極めていた。従来の中隊の業務に加え、マイヤード公国軍の連絡や調整まで加算されたのだ。直近でも合同訓練の実施や有事の際の配置などの協議を重ねたばかり。加えて、同盟国であるセルタの地は何かと配慮を払わなければならない。


 対等と口で言うは易しだが、実際は何をするにも事前連絡と擦り合わせが必須となる。長年の協力関係であればノウハウの一つも存在するだろうが、両国はまだ歩き始めて間もない。明日の予定や兵の教練が頭の中で渦巻く。やるべきことはいくらでもあった。歩きながら思案に耽るフリウグであったが、けたたましい人の声に中断を余儀なくされる。


「デボラ教導長の訓練か? それにしては」


 虚弱な市民を一端の兵隊に変えるには、体力と気力を奪い、思考をまっさらに作り替える必要がある。荒療治には定評のある教導長の教練には、罵声が付き物であったが、この日は様子が異なる。悲鳴や怒号というよりは歓声に近い。


 何かの参考になるか。興味を誘われたフリウグは、練兵場に足を運んだ。歓声は留まることを知らずに大きくなっていく。中心に人集りができていた。教導隊だけではない。歩兵に水兵、騎兵と兵種も所属も問わず一塊で一喜一憂しているではないか。


「ウォルム守護長!?」


 隙間から中心を覗いたフリウグは固まった。殺し合いにも迫る勢いで、帝国騎士が殴り合っているではないか。その相手は、ダンデューグ城で武威を見せたデボラ教導長であった。群集を取り仕切る一人に、見慣れた顔を発見したフリウグは問いただした。


「おい、これは何の騒ぎだ?」


「ちゅ、中隊長殿!! ウォルム守護長とデボラ教導長が徒手組手をしております」


「見れば分かる。それは何か聞いている」


 麾下の兵の足元には酒やら煙草が小山のように積まれている。やましい物と自覚があるのか、狼狽えながらも兵は答えた。


「あの、その、最初は晩の食事を賭けていたのですが、そのうち酒やら嗜好品やらも集まってしまい」


 賭けに興じていた兵士の声はすっかり小さくなっていく。教導長補助であるモーイズが忙しなく物品を受け取り、掛け札代わりに木片を分配している。ヨーギムは参加者の帳簿を付ける始末。親子が賭けを取り仕切っているのは、まず間違いない。これだから冒険者はタチが悪いのだ。幸薄い顔をしてやることをやっている。頭痛を覚えたフリウグだが、積まれた嗜好品と上官の顔色を窺う部下を交互に見る。


「それで、賭けはどうなってる」


「え、あー、守護長が四、教導長が六です。教導長の格闘は右に出るものはいませんので、マイヤード、フェリウス組が挙って」


 報告を受けたフリウグは鼻で笑った。


「守護長が四だと? 節穴揃いか、馬鹿らしい。あの守護長だぞ。ダンデューグで何を見てきた。よろしい、私が酒樽を守護長に賭けてやる」


 啖呵を切った中隊長に、ハイセルク兵が色めき立つ。


「おい、ハイセルクの中隊長が樽を賭けたぞっ」


「こっちも賭けろ、負けんじゃねぇ!!」


 気性の激しいセルタ水兵が声を荒げる。釣られたマイヤード兵達は上等だとばかりに更なる物品を積み上げる。得をしたのは仕切り役のデボラ一家だろう。


「中隊長……よろしいので?」


「たまにはガス抜きも必要だろう。些か過激だが、交流にもなる」


 規律に厳しい中隊長のお墨付きの賭け試合。水を得た魚のように兵達は賭け試合に没頭する。


 フリウグは本音を一つ告げなかった。デボラ教導長は素手を武器にまで昇華させた女傑と呼ぶに相応しい人物だ。フリウグもその実力に敬意を払っている。対してウォルム守護長は斧槍も魔法も無し、それどころか《強撃》《鬼火》も使えない。大したハンデだろう。だが、素手だからどうしたというのだ。守護長は守護長のまま。それだけで十分であった。


 フリウグの独白を裏付けるように、歓声を掻き消すような衝突音が響く。虚空に舞うのは鮮血。互いの腕同士が交差し、守護長の拳が顔を打ち抜いた。デボラは折れた鼻を自ら整えると滴る血液を魔力膜で押さえ込み、戦闘を継続する。


 ぞくりと背筋を震わせたフリウグは、拳の往来に魅入られる。中隊長という立場を一時置き、眼前の徒手組手の行方を楽しむことにした。たまにはこういう日があってもいいだろう。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 練兵場(ダンスホール)で美人(デボラ)と格闘(おど)ってまったのさ
[良い点] いや良いっすわぁ・・・ どんな状況でもウォルムなら、信頼を寄せる中隊長の描写が特に熱いですね! [気になる点] 本職モンクのデボラ相手に互角以上に殴りあえるウォルム凄すぎでは? 鬼化してか…
[良い点] グラップラーな話すき! デボラさん老女って書いてあったけど元気すぎん?ww魔物の頭を叩き潰す度に若返ってそう
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