第十一話
汚泥がへばり付いたように身体が重い。小波を打つ体表は文字通り溶け出していた。夜の帷が降りた木立を疾走していたウォルムは転ぶように座り込む。血と肉が崩れ音を立てて融解する。面が顔から剥がれ落ちた。
「うっ、げぇっ、はァぁ」
口腔から半凝固した血の吐瀉物を吐き出す。混濁していた意識と視界が取り戻されていく。頬からは溶け落ちた残滓が赤い涙のように流れた。夜風は冷たく凍つき肌を刺す。ぶるりと小さく身震いしたウォルムは、地に転がった面へと視線を落とした。
「っぅ、あの軍神は、とんでもない物を寄越してくれたな」
呼応するように鬼の面がカタカタと震える。存在しないはずの記憶が過ぎる。この呪いの面は知らぬところで二度の干渉を行った。一度目は墓標と化した曲輪で、被さる土と死体の間に空気の通り道を作った。二度目はタイラントワームの自重で潰れぬよう、僅かに身体を動かした。
干渉が無ければ死んでいたかもしれない。それでもその干渉は人の理の範疇だった。だが、三度目の干渉は逸脱している。瀕死であったウォルムの心臓は兄によって貫かれていた。止まりゆく呼吸と意識の中でも、それは覚えている。この大鬼は一方的に契約を迫ったのだ。修復する対価に贄を捧げよと。心臓は確かに戻った。だが、それは結果的に捧げてきた贄を消費し尽くした産物であり、強欲な鬼はそれでは足りぬとほざく。
三途の川で六文銭の渡し賃を払った方がマシであったかもしれない。契約が不履行に終われば待っているのは取立て。その対象は自身の身体に違いない。魔眼と鬼に馴染んだ心臓はさぞ使い勝手がいいだろう。
「俺の身体が目当てか。いやらしい鬼め」
鬼の面は震える。一部の記憶が交わったのだ。否定したところで透けて見える。脳裏には、鬼が口にした供物の言葉が脳裏に刻まれる。阿鼻叫喚を伴う闘争、死体の山を積み上げ供物を払えと。その中には肉親である兄も含まれていた。
焦燥、狼狽、決意。自身と大鬼の目を通して体感したヘイズの感情を思い返す。過去と現在の家族を天秤に量られ、引き抜きが失敗した際には暗殺を命じられたのだろう。一国家が個人を標的とした軍事作戦を命じるとは呆れ返るばかりだ。同時にそれだけのことをしてきた自覚はある。東部の国境戦、レフン鉱山、サラエボ要塞群では多くのリベリトア人を焼いた。一兵士としては過剰とさえ言えた。兄弟として似たのか、ウォルムと同様に兄も妙に愚直で真面目なところがある。互いに帰属する国家の兵員として役割を全うするだろう。
諦観に塗れた溜め息を吐く。暫定的な国境線内での軍事行動、ハイセルク兵として一刻も早く帝都に帰還し、報告する義務がある。だが、ウォルムは緩慢な手付きで懐を漁り、赤黒く湿気った煙草を取り出す。暗闇に火が灯る。紫煙を口内に含めば、こびり付く鉄錆の味と混じり合い実に苦々しい。一種の逃避行動であることを理解している。何せ一時は酒精に逃げた愚かで弱い人間だ。それでも精神の均衡を保つには紫煙が必要であった。
咎めるように面が震える。白煙を吹き出し答えれば、鬼の面は激昂するように震えた。額に皺が寄り、しかめっ面となっていたウォルムだが、くすりと小さく笑みを零す。気怠げに木に寄りかかり、道を違えたヘイズを浮かべる。幼少期の森で棍棒を振り回していた兄ではない。
無数の死線を越え、自身と同様に闘争に勤しむ兵士となっていた。次なる再会は有無を言わさぬ殺し合いだろう。兄弟ではなく敵対する兵士同士となる。寧ろ、それが互いにとっては幸せかもしれない。天を見上げれば、空に浮かぶ星々、双子月は普段と変わらぬ様相で輝く。矮小な人間の心象など、反映がされるはずもなかった。
◆
支配領域内でのリベリトア商業連邦の軍事活動は、帝都ヴァリグエンドに衝撃を与えた。一定の密偵や工作員と思しき者達が捕縛されたが、焼石に水の状況。一種の見せしめや報復に過ぎない。訪れる者を精査、選別できるほどの余力など今のハイセルクには存在しないのだから――。
マイヤード行きの輸送隊も延期されることなく、定刻通りの出発を果たした。帝都を陥落させた炎帝龍が残した副産物の一つである回廊。山も河川も等しく溶け落ち、交通路と化す。これを人の手で再現するとなれば、どれ程の年月と人員が必要になるかウォルムは見当もつかない。
動植物は猛火に焼け落ち、不燃物である岩は煤で汚れ、幾つかの小川は枯れていた。交通路として整備されているとは言え、見知った祖国とは思えぬ局所的な不毛の地。その陰鬱な景色とは裏腹に、鈍く光る礫が眼にちらつく。地上に露出したそれをウォルムは掴み上げ手で転がす。鮮やかとは言い難い代物であったが、黄色がかったそれの正体を考察する。
「硝子か?」
周辺には青緑や黒みがかった類似の礫が散在していた。訝しむウォルムにフリウグが答える。襲撃の一件以来、中隊長の厳重な監視下に置かれていた。
「この一帯では帝都死守を目的とした中央方面軍が防御線を引いていました。炎帝龍はそれらを食い破り、戦闘の際に放出された炎が、大地を溶かし硝子を生み出しました。忌々しいですが、アレは火山周辺でしか採取できない鉱石や硝子を精製したのです」
植物灰と砂の融解物である天然硝子、常軌を逸した高温による副産物が路肩に転がる。他にも雑多な不純物により、近場でありながら反する色味の硝子が点在していた。植物灰製の硝子だけであれば単純に煌びやかであろうが、此処は炎帝龍回廊であり古戦場だ。その原料の一部については深く考えたくはなかった。
「質の良い硝子や鉱石を集め、生計を立てている奴も居ります。場所を考えれば気味が悪くもありますが、働き手を失った一家や孤児の飯の種ですよ。今も隊列の後ろにくっ付いてきてます」
輜重兵を纏め上げる小隊長が声を上げた。長年日光に晒された肌は黒く焼け、上半身に比べて二回りも太い脚部は現場の叩き上げであることを示唆している。
「……輸送隊を無償の護衛としているのか」
呆れと称賛が入り混じった声を漏らすと、フリウグが後方に目を向けた。
「逞しい奴らですよ」
小さく笑った輜重隊の小隊長へとウォルムは確認するように尋ねた。
「ホーディ小隊だったな。この回廊はよく利用しているのか」
「積み下ろしと現地で休息を兼ねた数日を除けば、往復する日々を送っております」
「……働き者だな」
「はは、世辞であっても嬉しいですよ」
「世辞でも冗談でもないさ。帝国の進撃を支えたのはホーディ小隊長のような輜重兵あってのものだろう」
世辞などではなくウォルムは本心から口にする。歩兵の本分の一つは徒歩での移動だ。それだけで不慣れな者は摩耗により繰り返し足の皮や爪が剥がれ、じゅくじゅくと肌が痛む。一方、彼ら輜重兵は背丈を超える荷を背負い、満載された荷台を引く。それがどれ程の重労働かなど想像に容易かった。歩兵は普請に駆り出されることはあったが、占領地や恒常的な陣地である砦や要塞に配置された時は、基本的には待機という名の休息の期間も少なくはない。だが、彼ら輜重兵は休みなく動き続ける。これを勤勉と言わず何を、誰を勤勉と言う。
「こりゃ参った。照れちまう……俺達を荷台を引く駄馬、兵士の出来損ないと小馬鹿にする奴は居ましたが、そう言って下さるのは、今は亡き軍神に続き二人目ですよ」
輜重小隊長は頬を掻き言う。冥府に渡って尚、軍神ジェラルド・ベルガーは何処にでも現れるとウォルムは呆れと感心が鬩ぎ合う。末端の将兵にまで気に掛け発破を掛ける気遣いこそ、狂奔とも呼ぶべき統率と戦意を保った秘訣かもしれない。
「軍神と並べられても困る」
「ウォルム守護長とフリウグ中隊長には、本当に感謝しておるんですよ。俺の輜重隊が東部まで後退できたのも、ダンデューグ方面の魔物が抑えられてたからなんです。アレがなければ、圧殺されておりました」
「それは知らなかった。ホーディ小隊長もフェリウス方面の輸送に従事していたのか」
フリウグが驚きに言葉を漏らした。それもそうであろう。歩兵や騎兵と異なりその特性上、鈍重な輜重隊が大暴走から逃れるのは困難を極める。
「元は東部方面軍で、フェリウス侵攻に伴いフェリウス方面軍所属に鞍替えです。サラエボ要塞群への糧秣の運搬中に大暴走が生じ、そこからは防衛線構築用の資材運搬に努めておりました」
マイヤードの地に構築された防御線は、ダンデューグを含め三箇所の要地で構成されていたとウォルムは記憶している。この小隊長はその一つに従事していたらしい。
「戦線が崩壊してからは、兵種も隊も混ぜこぜの混成中隊規模で東部まで……あんな道は二度と歩きたくねぇ」
道中の記憶が蘇ったのだろう。ホーディは目を虚に漏らす。その一端を共有するウォルムは、それ以上の言及を止めた。説明を受けるまでもなく、文字通りの血塗られた道に違いない。
苦々しい追想や回廊等の情報の交換を経て、相互理解を深めながら行進を続けた一団は、三日間で五度の小規模な魔物の襲撃を退けた。負傷者を出しながらも荷の損害や戦死者は生じることなく、ウォルムは隊と共に炎帝龍回廊の中間拠点に設けられた穀倉へと入場を果たす。マイヤード公国、忌まわしき記憶が眠る古城ダンデューグは眼前に迫ろうとしていた。




