第八話
切れた口内から血が滲み、苦々しい鉄の味が広がる。ヘイズの腕は何も掴めず、伸ばした先に居た家族は、多重の攻撃魔法により消失していた。自身の右腕も多数の裂傷が走るが、末の弟が受けたであろう致死性の攻撃に比べれば擦り傷に過ぎない。
「何を考えている。死にたいのかヘイズ!?」
駆け込んできた友兵をヘイズは拒絶した。家畜の反吐を飲まされた方が幾分もマシな気分だ。込み上げる酸味を抑え込みながら、大地に無数の傷を刻んだ下手人の名を叫ぶ。
「リぃーティアっぁあぁア!!」
「っぁ、あ」
血走った目を走らせ、リベリトアに帰化した元冒険者を見つけ出す。詰め寄ると少女は動揺に肩を震わせた。胸ぐらに掴みかかろうとしたヘイズだが、男が行手を遮る。確認するまでもない。同じ元冒険者であるレフティだ。
「そこを退け、レフティ!! お前の女だからと言って庇うなァっ」
「冷静になれヘイズ。それに、指示を下したのは俺だ」
口にはしたものの、レフティがリーティアを庇ったかはどうでもいい。ヘイズはまだ弟と対話をしていた。頑固な一面を持つウォルムであったが、本質的には物分かりが良く、良心的な人間であったのだ。和解の道もまだ有り得たかもしれない。
「俺はまだ、弟と話していたのに、何故だ!! あいつは落ち着こうと、感情を整理しようとして席を立ったんだぞ!? 何故、仕掛けやがったんだ」
「だからこそだ。冷静さを取り戻し、周囲に目を向けられれば勘付かれる恐れがあった。ヘイズ中隊長、戦場での弟の姿を知らないだろう。アレを取り逃がせば、どれだけの被害が出るか。支柱の一本を失えば、ハイセルクも結果的に犠牲が少なくなる」
「ごちゃごちゃと建前ばかりを――本音を言え、弟達に故郷を制圧された私怨じゃないのか」
二人の元冒険者を問いただすが、リーティアは俯くばかり。元々表情に乏しいレフティに至っては表情が揺るぎもしない。
「殺し合う気か。落ち着け、家族が居るんだろう」
レフティはヘイズを諭すように制す。奥歯が砕けんばかりに歯を打ち鳴らし、衝動に任せて地面を蹴り上げる。
「ああ、そこに、さっきまで家族は居た。ああ、クソが。満足か、家族の為に、家族を見捨てさせて!!」
ヘイズが激昂する間も、周囲に散ったリベリトア兵は警戒と遺体の収容に勤しむ。交渉が失敗した時に備え、弟殺しのために本国から選ばれた精鋭三十人であった。帝都近郊に対する有効な進行路の確保が済んでいない。大部隊の越境が困難な現状を踏まえれば、火傷面の外相が弟を殺すために、選び抜いた人選と言える。
「損害は?」
「無しだ。冥府の誘い火も呆気ないものだ」
「鬼火使いも、兄弟の前ではただの人間か」
一団の中には、かつて弟と直接交戦した者さえ含まれていた。囀る兵をヘイズは視線で黙らせたが、不意に目眩を覚え視野が狭まる。足元が泥沼に立ったように覚束ない。どうしてこうなってしまった。弟への配慮が足りなかったのか、そもそも兄として信頼されていなかったのかもしれない。短く呼吸を繰り返すヘイズだったが、周囲を探っていた兵士達が俄に騒がしくなり、看過できない一言を漏らした。
「死体があったぞ……おい、まだ、生きている!?」
「早く止めを刺ァ――」
音も立てずに剣を抜いたヘイズは言い放った。
「やめろ、俺が引き摺ってでもリベリトアに連れ帰る。治療魔術師は何処だ。傷を――」
凶行に周囲の空気が瞬く間に冷えていく。凍り付いたように立ち尽くした兵の中から一人の男が進み出る。国境でヘイズを救ってくれたリベリトア兵の一人であるハワードだった。魔領の削り取りに従事するヘイズが指揮する中隊の一員であり、お互いに幾度も命を助け合った仲だ。
「ヘイズ、気持ちは分かるが、幾らあんたの弟でも助けられない。命令違反になる。それに、よく見てみろ」
地面に投げ出された弟に目を向ける。頑強な防具により、即死こそは免れていた。だが、その姿は痛ましいの一言。《風牙》により満遍なく全身を刻まれ、大地に命が漏れ出す。四肢は枯れ木のように不自然に折れ、無事な手足は残っていない。不規則に膨らむ胸部は、心臓や肺が正常に機能していないことを示唆する。
「悪いが、覚悟を決めてくれ。致命傷だ。助かるような傷じゃない」
ハワードに言われるまでもない。兵士として戦場で過ごした経験が、弟が助かる見込みはないと警鐘を鳴らす。駄目押しとばかりにレフティが名を呼ぶ。
「……ヘイズ」
「ぁあ゛、分かってる。分かっているッ!! 弟、なんだ。だから、俺がやる」
抜き身の剣を握りしめたまま、横たわる弟の側に膝から座り込む。その姿は許しを請いて懺悔する罪人のようであった。
「ウォルム」
兄の問い掛けに、弟は泡立ち粘り気のある血を噴き出す。裂けた喉から漏れ出た空気で酷く不鮮明であったが、言葉を発した。
「ヘ、イズ、どうし゛ィて、なぜ」
事態を飲み込めていないウォルムは疑問を口にした。歯をかち鳴らしてヘイズは、決して許されないと分かりつつも謝罪を重ねる。
「ウォルム、すまな、いっ、本当に」
「信じて、いた、のにィ」
弟の眼を覗き込んだヘイズの背筋は凍りついた。戦争がヘイズを変えたように、ウォルムもまた戦争により変わってしまったのだろう。記憶には存在しない金色の目が何処までも暗く、濁り果てていた。
「裏切った、な」
その一言は現状を正しく指す。肉親である弟を謀った結果が、眼下の惨状であった。
「愛してる。ウォルム……眠ってくれ」
ヘイズは静かに剣を突き入れる。反撃する力が無かったか、そもそもその気も無かったのかもしれない。口からは信じられない程の血の塊を吐き出し、呼吸が止まっていく。死体はこれまで無数に見てきた。それでも自身が手を掛けた兄弟の死体に慣れているはずもなく、耐え難い心的負荷に苛まれる。
これで血を分けた弟達は全員死んだ。一人は守りきれず、一人は殺した。胃が痙攣を起こし、込み上げる吐き気を我慢し切れずに遺体を避けて胃酸を撒く。ヘイズは鮮血が染み込んだ地面に臀部から座り込む。子鹿のように震える両足は地面を捉えていられなかった。視界が左右に揺れ定まらない。見兼ねたハワードが駆け寄ってくる。
「ヘイズ、辛いだろうが離れるぞ。これだけの騒ぎだ。哨戒のハイセルク兵が直に来る」
「よせ、支えなくていい。立てる」
被害者面なんて許されるものか。弟には何の非もない。ヘイズは立ち上がり、冷たくなっていく弟を見下ろした。これは現実だ。再会で笑い合った顔は見る影もない。
「証拠を持ち帰る。離れていろ。ヘイズ」
首桶と斧を持った友兵が小走りで近付いてくる。反吐が出るほどの準備の良さだ。これから何が行われるかなど、一目瞭然であった。レフティに返事を返さぬまま、その場を離れようとしたヘイズだが、弟の手の中から何かが零れ落ちたことに気付く。それは事前の報告にもあった鬼を模った趣味の悪い面。弟は何を想いこの奇妙な面を付けて戦場に立っていたのか。
「鬼の、面?」
醜悪でも遺品には違いない。ヘイズが拾い上げようとした時、動くはずのない面が振動を始め、金切り声が廃村を揺るがす。耳を塞いだヘイズの前で、面は真っ二つに割れた。破断部からぬらりと溢れた肉が無数の方向に伸びる。巻き込まれた兵士が地面に縫い付けられると、絶叫と共に身体を貪るように潰された。咄嗟に飛び退いたヘイズは目の前の光景に唖然とする。
「畜生、三人呑まれたッ!!」
「間合いを取れ、近付くな」
「アレは情報にないぞ。どうなってる!?」
鮮血は止まることなく吹き出し溢れ、赤い海が広がる。膨張と収縮を繰り返した肉はそのまま渦を巻くように一箇所へと集結を果たす。それはウォルムが居た中心部であった。血飛沫が降り、大地が朱色に染まっていく。中から現れたのは弟の遺骸では無い。深海の如き蒼く伸びた頭髪、眼は爬虫類を連想させる金色、背丈はヘイズよりも頭二つは大きい。大地を冒す禍々しき鬼火を纏うのは、雌型の鬼であった。
◆
その身が忌まわしき陰陽師と修羅の如き武士に滅ぼされ、どれだけの時が経ったであろうか。遺灰と意識を忌々しい面に閉じ込められ、退屈で窒息するような日々。大火に紛れ人の世に流出した後も、自身を装着した者達は供物を捧げきれず、皆戦の中で死んだ。そもそも好みに五月蝿い鬼が装着を許した者は、片手で数えられる程度であった。
時には埃を被り、土に埋もれ、鬼であった面は人の手を回り歩いた。二度に渡る破滅的な人間種の大戦を経て辿り着いた先は、混沌の坩堝と称するに相応しい異界の地。統一戦争では、存分に楽しませてもらった。それでもまだ足りない。面は待ち続け、遂に自身を付けるに相応しい男を見つけ出す。同郷の地から来た男は面の期待に応え続け、血と肉を捧げ続けた。殺すだけしか能の無い者とは違い、葛藤と苦悩を抱えながらも戦い続ける姿はなんともいじらしい。
そんな男が、肉親の奸計により大地で屍を晒そうとしている。この先、男に匹敵する肉体的、精神的強度を併せ持つ強者は現れるだろうか。何より鬼は好みに五月蝿い。放任主義とは言え、それでも一世紀、二世紀と埋もれ、気に入らない者の手に渡るくらいであれば、協力するのもやぶさかではなかった。
丸くなったものだと、面は震える。要塞の墓標でも、醜悪なる大蛇の腸の中でも、手助けはした。だがこれは一線を越えた貸しだ。鬼が完全に世に現界するまで、男は供物を捧げなければならない。そして何より兄弟が愛憎の果てに、殺し合うと言うのは、何とも愛らしいではないか。
捧げられた供物は不足していたが、同胞の眼を取り込んだ男の身を依代とすれば、一時は可能であろう。面は積み重ねられた贄の消費を決めた。絶頂するように震えた面は真っ二つに割れ、血の海が溢れ出す。取り巻く空気が熱を持ち、膨張した肉が男を取り込む。
男を依代にした鬼は世界に生れ落ちる。肉体や性別すらも移り変わる灰燼童子の此度の性別は、雌であった。人を、街を、國すら灰塵に帰した國焼の大鬼は現界を果たす。五感を通して、流れ込んでくる世界に歓喜で身を震わす。肺腑に吸い込んだ空気を声として吐き出し、國焼の大鬼は愚かな敵対者に咆哮を上げた。




