第二話 帰還
その街道は、森林の切れ間や山麓を縫うように続いていた。人馬や荷車の往来により踏み固められた地面は、車輪や足跡と言った痕跡が色濃く残る。頻繁に行き交いがされている証であり、ウォルムは度々、通行者と擦れ違う。人と物が流れる道は国家の動脈とも言えた。緩やかな傾斜部を靴底で捉え、推進力に変えて行く。一時は酒精に溺れ鈍ったウォルムの身体も、群島諸国内で生じた戦闘と鍛錬により精細さを取り戻し、歩兵として多様な地形を踏破してきた健脚が、その能力を遺憾なく発揮する。先行していた荷車の一つにウォルムは追い付き並んだ。
家畜の飼料や用途不明の麻袋を積んだ荷車は、がたがたと揺れ動き、車軸と車輪が摩擦で擦れ軋む。一つの荷車を二人の男が牽引に励んでいた。少年の面影が残る若者達は、顔の造りと体格がよく似ている。恐らくは彼らは近親者であり、兄弟だろうとウォルムには見て取れた。積荷の運搬という重労働にも関わらず、二人は不平不満も漏らさずに会話を交わす。彼らを完全に追い越し、横合いに向いていた視線を眼前へと正したウォルムは、言葉を漏らした。
「日常、か」
一見すると何の変哲もない道。だが、一年半前のあの日を知る者であるウォルムにとっては、異質な光景だった。かつてこの道の両脇には損壊した遺体、体力が尽きた落伍者が並び、ある筈の無い救いを求め、多くの避難民が声を漏らす。襲撃で放棄された私財や物資により、道は狭まり混迷を極めていた。足元一つ取ってもまるで違う。当時は死体から溢れ出した血と臓腑で、一帯の地面はぬかるみ汚泥が形成。赤黒い土の絨毯を踏み締める半長靴には、絶えず不快感がへばり付いていた。
「っ、ぅ」
一年半の歳月を経て、整備された道路を進んでいるにも関わらず、靴底からはあの粘着質で悍ましい感覚が蘇る。残っているはずがない。血肉は鳥類や虫に啄まれ、腐敗し、大地が平らげた。だと言うのに、脳裏には光景が燻り、ありもしない腐臭が鼻の奥に籠る。現実ではない。幻視であり過去の出来事の追想だ。周囲に悟られないようにウォルムはそっと奥歯を噛み締めた。
「……この辺も、ようやくです。魔領と化した一帯の掌握、それらを再び使用可能とするには、多くの人と物資が必要でした」
同行者の言葉に、内心を気取られたかと身構えたウォルムであったが、幸いにして漏らした言葉に対する反応であった。祖国への帰還に付き添うのは、ダンデューグの戦時混成大隊で指揮下にいた中隊長フリウグだ。ダンデューグ防衛戦から続く第一線で戦い続けた軍人の言葉は、実に重みがあり耳に残る。
「あの状況下で、よく、ここまで取り戻したな」
ウォルムは偽りなく、本心で彼らを称賛する。自身が他国まで逃げ延び逃避に明け暮れる中、残された者達は前に進み続けた。言葉では言い表せぬ苦難と苦痛を抱えてだ。皺が増えたフリウグの顔に、僅かな笑みが浮かぶ。
「ありがとうございます。尤も、街道沿いこそ人の営みを取り戻しましたが、面で見れば風化した骨とそう変わりはありません。制圧地とされる場所も魔物が散発的に現れ、無人の村や家屋も多い。一年半越しに故郷の村を奪還しても、生き延びた住民より、家屋の方が多い有様です」
ハイセルク帝国旧南部方面軍の支配地を抜け、内陸部へと進む間に、ウォルムは多くの廃村を目にしてきた。再建が進んでいたが、一部の要地を除けば、やはり廃墟の方が目立つ。道中に目撃した光景に意識を割くウォルムに対し、フリウグは言葉を続ける。
「それでも人というのは、粘り強い。我々が一年越しに魔領から奪還した村々の中には、驚くべきことに生存者達が居ました。痩せ細り汚れ、疲れ切っていましたが、それでも、人には違いありませんでした」
在り得ない、とウォルムは否定の言葉を口にしそうになった。幾重の防御線を持つ砦や関所が大暴走と言う魔物の濁流に飲まれる中で、碌な戦力も防御施設を持たない村が生き残れるとは、思えなかったからだ。そこまで思考を回し、ウォルムは考え直した。
「発生経緯はともかく、大暴走は災害であって、軍勢ではないか」
河川や湖の堰を切る水攻め、山や崖の斜面を崩す地滑りなど、自然を利用した戦術は何度も使用されてきた。ハイセルク帝国軍もレフン鉱山の遅延戦術で多用した。それらと似て非なるのが大暴走であろう。その制御性や再現性は乏しく、何より規模は比較にもならない。人為的に引き起こす天災の一種が適切な言葉であった。当然、大暴走による魔物の大波は破滅的であれど、厳格な組織を持たず、その攻撃目標も明確化されていない。戦法や戦術程度はあっても戦略はない。当然、取り零しも生じる。
「濁流や津波のようなものか、人口密集地にその大部分が引き寄せられ、直撃を避けたんだな」
ダンデューグや多くの都市に魔物が殺到する一方、僻地や侵攻上から逸れた村々は、全滅を避けられた。尤も、その幸運に恵まれた場所はそう多くはないが。
「ええ、生き残った者は同じことを言っていました。打ち勝ったのではなく、運良く見落とされただけだと」
「それでもだ。周囲一帯が魔領と化し、陸の孤島となった村々は良く堪えた」
外部との連絡が途絶した状況下で統制を保ち続けるのは実に困難だ。終わりがある攻勢と異なり、村と言う拠点の死守ともなれば、先が見えない。フリウグは声色を下げ、過去の体験を語り始める。
「正直、我々は困惑を隠せませんでした。何せ、人が居る筈のない魔領――部隊が村に踏み込んだ時の、彼らの顔は忘れられません。来てくれて、ありがとう。世界は滅んでなかったと、泣き笑いながら歓迎してくれたんです。一年にも渡り、生存を信じていなかった我々を」
情報の一片すら持たぬ者からしたら、身構える時間も無く生じた大暴走だ。周囲との連絡が一年にも渡り途絶すれば、世界が魔物により滅んだと考えても不思議ではない。事実、フェリウスは多くの難民を生み出して滅び、ハイセルクもマイヤードも半身不随に陥っている。下手をすれば三ヶ国が完全に潰え、死者の桁は一つ、二つ跳ね上がっていてもおかしくはなかった。
「幸いにして、退役者や部隊から落伍した兵が自警団の主戦力となったようです。一年の包囲を耐えた彼らの働きには、ただただ感服させられます」
隊から逸れ、目指す先は故郷。その心境がウォルムには理解できた。何せ、自身も一度は通った道だからだ。戦友が倒れ、指揮系統も機能しない状況で、取り得る選択は少ない。とは言え、両者を隔てる溝が存在した。間に合わなかったウォルムと異なり、彼らは駆け付けやり遂げたのだ。
「そいつらは、故郷を守り通したんだな」
「……はい、彼らは守り抜きました」
見知らぬ同胞の生存を受け、ウォルムはただただ頷き返した。途切れた会話とは裏腹に、安堵、悔恨、羨望と言った感情が次々と鎌首を擡げ、内心で渦巻く。物理的にも心理的にも故郷が近くなっている所為だろう。逃避や悲観的過ぎるか、過去を忘れられず、完全に忘れ去る気も無いウォルムであったが、少なくとも停滞は止めた。這うような速度だとしても前には進んでいるつもりだ。
今のハイセルク帝国は、乾いた地面が水を吸い上げるようにあらゆる人と物を吸い上げ、その渇きを埋めつつある。自身もその一人であった。ウォルムが目指す地は、残すところ一日ほどの距離にある。実際に踏み入れたことはない。軍神が愛した丘から遠巻きに見下ろしただけの場所だ。それでも不思議と望郷の念を感じてしまう。その都市は、今も昔もハイセルク帝国の要であり、炎帝龍と大暴走により一度は失陥した帝都ヴァリグエンドであった。
 




