第七十三話 鼓動
防具を叩くような豪雨が止むことを知らず降り注いでいた。隙間から沁み込んだ雨水は男の肌を刺し、思考と感覚を奪っていく。それでも染められた血が洗い流されることは無い。男の周囲には、葬ったばかりの群島諸国の兵が地面に沈む。開戦以来、どれ程の人間を殺しまわったかも定かではない。
「ほ、本城、陥落しました」
「既に主力野戦軍は……」
部下が震える声で言った。耳に届くのは惨状ばかり。野戦による決定的な敗北、残存戦力による迷宮都市防衛も叶わない。待望された共和国の後詰めは、森林同盟と群島諸国の足止めに合い、とうとう間に合わなかった。幼児でも分かる。男は、国は戦争で敗れた。破裂せんばかりに鼓動は打ち鳴り、激しくなる呼吸を抑える。まだ、崩れ落ちる訳にはいかなかった。
「ふ、ぅ、っう、我らの、都市は」
鎧を外され、地面に横たわる部下が震える手を伸ばす。有り合わせの布と包帯で傷口を圧迫はしているが、出血が止まることは無い。地面に血が滲み、命が漏れ出ていく。男は汚泥で汚れることも厭わず膝を着き、指を握り返した。
「まだ持ちこたえている。共和国の増援は直ぐだ」
取り繕った表情で男は部下に嘘を吐いた。主力野戦軍の壊滅、迷宮都市の陥落。真実はあまりにも酷過ぎる。
「ふ、は、はぁ、嘘が、相も、変わらず下手です、ね」
男は愚直で愚かな人間だった。死に瀕する部下すら、安心させて逝かせることもできない。
「それ以上、喋るな。傷に障るぞ」
喋らせてはいけない。落ち着かせようとした男であったが、部下は拒むように首を振り、言葉を続ける。
「俺は、死にます。その、ぐらいは、わがる。……ぁ、は、くそ、何も、けっきょく、できなかった。必ず、必ず、奴ら、に」
最後の言葉を告げる前に部下は事切れた。開かれたままの瞼を閉じさせた男は、立ち上がると声を張り上げる。国も同胞も守れぬ兵の末路など相場が決まっていた。死体に刺さったままの槍を引き抜き、へばり付いた血を打ち払う。
「さあ、者ども、いくぞ!! もはや――それしかできない」
男の投げ掛けに、配下の兵は武器を上げ応えた。疲労を重ねた負傷兵の寄り合い。都市に攻め込む群島諸国の兵に比べれば、実に矮小で、寡兵であろう。既に勝機などない。それを理解した上で兵達は死地へと向かおうとしている。戦以外に必要なものを全て捨て去り、突撃の号令を掛けようとした男であったが、見張りに立たせていた部下に呼び止められる。
「お待ちください、伝令の兵が」
「伝令? 本城が陥落した今、何処の誰が」
男の隊に、まともな命令が下されなくなり久しい。今更何処の誰が伝令など寄こしたのか。息を切らし、肩で呼吸をする伝令は男に情報の伝達を始めた。
「グンドール様が脱出に成功したそうです。残存する隊は、スデーリィンの森を抜け、都市を離れろ、と」
「馬鹿な、生き恥を晒せというのか、民が目の前で蹂躙されている中で!!」
爪が食い込み、握り締めた拳からは血が滲む。雨風に乗って兵民の阿鼻叫喚が男の下にまで届いている。
「続きが、まだ終わっていない。必ず再戦を、と」
破滅の誘惑が男を誘う。ここまで戦場を共にした兵だ。どのような選択を取ったとしても、疑わずに従ってくれるだろう。事実、兵達は何の言葉も漏らさずに次の号令を黙って待ち続けている。逡巡する男は動かなくなった部下を見つめながら選択した。
「俺は、俺達は、戻って来るぞ。必ず、この都市に、何年掛かろうが!!」
復讐を、男は決意を胸に慟哭した。次の瞬間、視界が歪み、急速に視野が明るくなる。
「ファウスト様」
「……すまない。寝てしまっていたか。そろそろ時間だな」
あまりにも長すぎる刻をファウストは過ごしてしまった。表舞台に出てからのファウストの経歴は、冒険者ギルドベルガナ支部の歴史と言っても過言ではない。様々な人間がギルドには居た。己を極限まで研鑽する剣豪、酒癖が悪かった武装僧侶、皮肉屋のスカウト、次世代を担ったであろう新進気鋭のパーティー。それらはもう居ない。全てファウストが殺してきた。
怒り、焦燥、困惑、今際の際の彼らの顔は、今もファウストの心の底にこびり付いている。共に研鑽し、励まし、授け、笑い合った。実に愚かであろう。本来であれば不要であった。欺瞞というにはあまりにも過剰に接し過ぎた。殺す度に、知人や友人として接した者が減り、その度に人間性が失われていく。
「実に、愚かしい」
自己矛盾の塊であろう。あまりに身勝手で浅ましい。相容れぬ立場の者と必要以上に接し、懺悔紛いの行為に走った己をファウストは蔑む。慟哭を上げたあの日に、怒りと恥辱、悔恨の末にファウストは決意した。たかが一世紀、なのに最後まで貫けない。甘く弱い。だからこそ、何もかも失ったのだ。感情は捨てなければならない。そうでなければ先に逝った戦友にも、今まで葬ってきた者も、何の為に死んだというのだ。正しく、そう正しく狂わなければならない。
能面の如き表情を取り戻したファウストはゆっくりと目を開く。半刻もしないうちに、全てが始まり終わる。眼前には一世紀共にした同胞、未来が潰え凋落した民草の子孫が並ぶ。統一戦争時に何千、何万といた同胞も、残り少なくなった。
「雌伏の時は終わる。今まで良く耐えた」
答えはない。それでも沈黙は雄弁にファウストに応じてくれる。今となっては汚泥の如きスラムは、実に心地良かった。これまでの時に比べれば、半刻など一瞬とも言える。低く、くぐもった音が都市に響き渡る。それはまるで連鎖するように広がっていく。それは呪いであり、祝福だ。ようやく始まり、ようやく終わる。悲鳴と怒号が壁の中で響き渡った。ファウストには聖歌にすら感じられる。賽は投げられた。世界はもう戻らない。
「再戦、再戦だ!! 我らの都市に軍旗を掲げろッっ!! 爺――グンドール様は軍団の運用と仕上げに専念されている。我らは急所を叩き続けるぞ。仮令、四肢が千切れ、眼が失われようが歩みを止めるな。これは我らが望み焦がれた最後の戦争。思い出させてやれ、此処が誰の地で、誰の墓標の上で偽りの安寧を過ごしていたのかッ。アイゼンバッグ・ファン・グンドール王に最後の忠誠を!!」
かつて下されなかったファウストの号令が室内に響き渡る。兵たちは叫び、剣を掲げ、足を踏み鳴らし答える。百年に渡る沈黙は破られ、統一戦争から止まっていたファウストの心臓は再び鼓動を始めた。




