第六十七話
戦闘の残香が漂い残る迷宮の底で、ウォルムは常闇を見上げていた。六芒星の召喚陣が浮かび上がっていた虚空には、何の痕跡も残されていない。残り火の揺らぎによって、周囲を包む闇がうねるように広がっては狭まり、支配域の進退を繰り返す。
「ウォルム、苦しくない?」
「ああ、落ち着いてる」
「ならよかったわ。ハリ、水は要る?」
「今は、必要な、い」
ウォルムの傍らには、重傷を負ったハリとマリアンテが身を寄せていた。身動きの取れないウォルムやハリと比較すれば、マリアンテは肩の脱臼と膝の靭帯損傷に留まっており、足を引き摺れば歩行もできる。メリルとユナが周囲の偵察に出ている間、マリアンテは介護役を任命されていた。
胸腔穿刺による緊急処置により、ウォルムの呼吸は落ち着きを取り戻し、ハリから絞り出された魔力で肺の穴は塞がれている。尤も、そこで燃料切れを起こし、各所に刻まれた傷は応急処置を施したのみであった。ウォルムやマリアンテは骨折部を添え木により固定され、全身に裂傷を負ったハリは、薬草漬けの包帯で身体を覆っている。内情を知らぬ者が見れば新手の魔物か、邪法によって埋葬された木乃伊の類と勘違いされるであろう。迷宮でも最有力のパーティは見る影もなく、そのぎこちなく緩慢な動作は老人の寄り合い場にも等しい。
「なあ、マリアンテ。煙草は――」
「冗談でも駄目に決まってるでしょ。さっきまで胸に穴が空いてたの。胸から煙が出たら笑えもしないわよ」
「持てもしないが、手持無沙汰で言ってみただけだ」
「はぁ、意外に真面目そうだと思ってたけど、やっぱりあんたも変な奴ね」
マリアンテは理解し難いと溜息を吐いた。存外な扱いに嘆くウォルムであったが、同様に重傷を負ったハリが虫が囁くような声でウォルムを擁護する。
「そう、言うな、マリアンテ。大仕事の後に、煙草を嗜みたくなるのも、人の性で、あろう」
「ハリは横から急にまともなことを言わないで……大丈夫? 頭でも打ったの?」
マリアンテはハリの頭部に対する外的損傷を危惧する。本気か冗談か、ウォルムにも判断が付かない。惚けた会話を紡ぎながら身をただただ休める。深層に入ってからは碌に休息や寝る間もなかった。何もない時間と言うのは、今のウォルムにとっては至高とも言えた。そうして半刻ほど経った頃、聞き慣れた足音がウォルムの耳に届く。周囲を探っていた彼女らの帰還を待ち侘びていたのは、ウォルムだけではない。
「どうだったの、メリル」
見覚えのある斧槍を肩に担ぎ上げたメリルは、マリアンテの問いに答えた。
「あの溝の中心部に馴染みの黒い穴が出ている。確証はないけど、飛び込めば地上に帰れそうだね」
「一先ずは、安心ね」
ウォルムは正常とは思えぬ手法で、腐骨龍を倒してしまった。迷宮の機嫌を損ねて地上への帰還路が開かなければ、ここで朽ち果てることも有り得る。危惧していた事態を避けられ、ウォルムはほっと胸を撫で下ろす。
「探すのに手間取ったけど、ウォルムの斧槍も回収してきたよ」
メリルは見せびらかすようにこつりと柄で肩を叩く。派手に吹き飛ばされた斧槍であったが、目立った損傷は見受けられない。
「それは、助かる」
マイヤード国境戦で鹵獲した斧槍とは長い付き合いであった。代用品がこの世に無いとウォルムは宣うつもりはないが、使い慣れた斧槍は手足のように働く。ウォルムにとって斧槍の価値は大金貨すら上回る。今度は手放すまいと受け取ろうとするが、痛みで震える腕は碌に動かなかった。
「置いておくよ」
見兼ねたメリルはウォルムが枕とする石畳に、そっと斧槍を届けてくれた。疲労感に身を任せたメリルとユナは、腰を落として輪に加わる。これで迷宮の底に立つものは居なくなった。
「一先ず、危険は無さそうだった。喜ぶには少し早いけど、僕らは迷宮を制覇したらしい」
これほど現実感の無い迷宮の制覇もないだろう。制覇者という大層な肩書に反して、ウォルムは自力で歩行もできない。野戦の仮設治療所で惰眠を貪る負傷者そのものであった。
「……もっと燥いでくれてもいいんだけどね」
メリルは拍手や歓喜に満ちた声を期待していたのだろうが、死に損ないのウォルムには喜ぶ体力すら残されていなかった。ユナは無口であり、マリアンテも喜々として感情を表す人間ではない。普段のハリであれば拍手喝采の上に、最大限の世辞を口にしているかもしれないが、今はウォルムと仲良く重症の身だ。包帯越しに何やらもごもごと口を動かすのみ。
「俺とハリが急に飛び起きて、歌い踊り出したら、それはそれで嫌だろう」
「嫌っていうか、恐怖を感じてしまうだろうね」
ウォルムが口にした光景を想像してしまったメリルは、げんなりと表情を曇らせた。
「手短に、しよ」
ユナの催促を受けたメリルは、恨み言を漏らす。何処となく拗ねているようにもウォルムの目には映る。
「みんな冷たいな。まあ、僕も可能であれば四肢を投げ出して、眠りに就きたいからね。要点だけ話そう。地上に戻ったら暫くは、落ち着いて話も出来そうにない」
メリルが取り出したのは二つの魔法袋であった。一つは三魔撃のパーティーの所有物であり、残る一つはウォルムがハイセルク時代に軍神ジェラルド・ベルガーより賜った品物だ。
「腐骨龍の牙と爪を可能な限り集めた。触媒や素材としては、これ以上ない程に優秀だからね。間違い無くギルドやボルジア侯爵家から相当量の売却を求められる。それでも多少は手元には残るだろうけどね」
地理や歴史に疎いウォルムですら、迷宮都市で過ごす内にその家名は聞き及んでいる。ボルジア家は、迷宮都市を支配下に置く群島諸国の大貴族であり、中央本島や取り巻く島々を除く大陸側の纏め役でもあった。ウォルムも聞き齧っただけではあるが、その台頭は百年前の統一戦争にまで遡る。
「手土産無しだと、ギルドが煩いわよね。延々と続く長話を避けるためにも仕方ないか」
似たような事例があったのだろう。過去の記憶が蘇ったマリアンテは小さく首を振った。
「大変そうだな」
「危機感がないわね。ウォルムだって例外じゃないわよ。迷宮を制覇した人間が契約方式の一時加入。それも何処の組織にも所属していないと広まったら、付き纏われるに決まってるじゃない。気を付けなさいよ」
「それは面倒だな……肝に銘じておく」
ウォルムの返事を得て、メリルは話を続ける。
「話を戻すよ。次にこいつだね」
魔法袋から朽ちかけた木箱が取り出される。中の品物が揺れ動き、微かに金属音を奏でた。ウォルムはその正体を考察する。
「金貨、か?」
「近いものではあるけど、もっと良いものだね」
開け放たれた箱の中には地金が収まっていた。光源の乏しい迷宮の底だというのに、僅かな明かりを受けたその金属は、特徴的な光沢を輝かせる。眼を細めたウォルムはその名を口にした。
「魔法銀の地金か」
「そう。それも混ぜ物無し」
魔法銀は毒を暴き、朽ちず、羽根の如く軽い。その上、魔力を容易に流す特性まで合わせ持つ。過多な需要により常に供給不足であった。ウォルムが知るだけでも富裕層向けの食器や装飾品、武具や触媒と用途は実に広い。その高額さ故にミスリル製と言われる武具の殆どは、小量の魔法銀を混ぜ合わせているに過ぎない。それだけでも鉄製の武具とは一線を画す。
「ぬぅ、五人で分けても、十分過ぎる」
横たわりながら魔法銀を見つめていたハリが声を漏らすのも無理はない。魔法銀の塊を前に、ウォルムの金銭感覚は崩壊しかけている。パーティーメンバーと地金を五分割した上で、目薬を複数個買っても余りある金額であった。
「ま、まぁ、ミスリルで良かったじゃない。これで木箱から鉄屑とか出されたら、ね」
マリアンテですら魔法銀の地金に狼狽を隠せずにいた。例外といえば一足先に衝撃を済ませてきたであろうメリルとユナぐらいなもの。そんな魔法銀に眼を奪われる面々を他所に、メリルはウォルムの後頭部を叩いた。
「これ、なんだか分かるかい」
視界に広がったのは無色透明な瓶であった。その中に収まるモノにウォルムは息を呑む。それは茎から葉に至る全てが紅血に染め上がった植物だった。畝り上向く花弁と雄蕊は、まるで血溜まりの中で天に伸ばした指先のように映る。
「っ、真紅草か」
癒しの秘宝、永遠に花咲くと言われる真紅草が、瓶越しでウォルムの眼前に吊り下げられていた。驚きで上擦り絞り出されたウォルムの言葉に、魔法銀を突き回していたパーティーメンバーの視線が集まる。
「これが真紅草か、実に面妖な」
「ね、綺麗と言えば綺麗なんだけど……」
埃を被った瓶に反して、真紅草は瑞々しさを保ち、艶やかに妖美さを漂わせていた。精巧な造花と言われても信じてしまうだろう。不変と言われる所以をウォルムは感じずにはいられない。
「生えていた訳じゃ、なさそうだな」
「魔法銀の横に収まっていた。少しばかり驚かせたかったからね」
「少しどころで済むか」
ウォルムが苦言を呈す中、悪戯が成功したメリルはご満悦であった。暫く身を乗り出し、花の鑑賞会に精を出していた面々も落ち着きを取り戻す。マリアンテは真紅草を指差しながら尋ねる。
「それでウォルム、ソレこの場で丸呑みにする?」
「ま、丸呑み? いや、咀嚼した方がいいのか?」
ウォルムはマリアンテへの答えに窮して言葉に詰まる。果たして肉料理の添え物や野菜のように食すだけでいいのか。苦難の果てに真紅草という秘宝に手は届きはしたものの、その正しい用法用量は全くの未知であった。
「……美味しく、なさそう?」
「え、これって食べたら効くのかい?」
「塗り薬とか?」
質問は更なる質問を生み、解決の糸口は一向に現れない。事態の収拾が付かなくなる中、思案に耽っていたハリがゆっくりと口を開いた。
「真紅草は口から摂取するはずだ。丸呑みよりは、咀嚼が正しい。とは言え、錬金術師や治療魔術師に相談するのが、一番であろう。だが物が物だ。相手は慎重に選んだ方がいい」
パーティー唯一の回復魔法持ちは、混沌とした状況下でも適切な答えを導き出した。教会の守護を務めていた武僧は高位の僧侶に負けず劣らず、人に救いの道を示すのが上手い。改めて尊敬の念を抱くウォルムであったが、空気が漏れ出る音に気付く。その発生源はハリであり、包帯越しに吐息が激しく漏れ出る。
「……おい、ハリ」
「そんなに情熱的な目で――」
「やめろ。それ以上は言わなくていい」
疑問は確信へと変わった。感謝の念は瞬く間に吹き飛ぶ。制止の声と同時にウォルムは包帯の端材を投げ付けた。無事に視界を奪うことに成功し、安堵に息を漏らす。そんな一連の出来事がまるで最初からなかったかのように、メリルは会話を再開する。
「真紅草の取扱は決まったね。ウォルムは治療薬にするまで魔法袋に仕舞い込んでおきなよ」
「失くしたら、迷宮をもう一周だからな」
言うが早いか、ウォルムは真紅草を魔法袋へと捩じ込む。腐骨龍の素材が限界まで詰められ、魔法袋からは拒絶するように反発感が手に伝わる。横目で見れば、メリルもミスリルの地金を所有する魔法袋へと仕舞い込むところであった。収拾物と装備を纏め、迷宮の底に滞在を続ける理由もなくなる。とは言え、ウォルムとハリは歩行もままならない。議論の末に捻りだされた産物は、眼前で苦悶の声を漏らすユナであった。
「お゛っ、重いィ」
「ぬぅ、すまん」
ハリを背負ったユナがふらふらと先頭を進んでいく。荷物はマリアンテとメリルが背負っているとは言え、巌のような身体の武僧を担ぐのは重労働だ。それでも常日頃から弦を張り続けるユナの膂力は、見事に役目を果たしていた。その直ぐ後ろを憐みの眼を向けたマリアンテが続く。損傷した靭帯を庇うために、愛用のメイスは杖代わりとされていた。
最後尾のウォルムも斧槍の柄で見習いたいところであったが、左腕と足首を折られ、肺も本調子とはかけ離れている。荷を背負ったメリルは静かに肩を差し出す。うなじに回り込んだウォルムの腕が外れないように、メリルは右手で添えた。自然と互いの距離は縮まり身体が密着する。視線を足元に下げて不恰好にウォルムが跳ね歩けば、メリルは黙って歩調を合わせてくれていた。重なった影はただただ揺れ動く。
「ねぇ、ウォルム」
吐息が肌を擽る。小さく、それでいて確かにメリルの声が耳を揺らした。
「……どうした」
「いや、さ。君とパーティーが組めて、本当によかったなと思って」
「なんだ、改まって」
ウォルムは伏せていた顔を上げれば、鮮緑の頭髪と虹彩異色の瞳が視界一杯に広がる。対照的な眼を持つ二人。初対面では何とも派手に感じた色彩も、今は不思議と心地良かった。
「ありがとう、ウォルム」
頬が触れ合うような距離に、ウォルムは照れ臭そうに返事を返した。
 




