第六十六話 迷宮の底
地竜を制したウォルムは、ヒカリゴケによってぼんやりと輪郭が浮かぶ階段を一段ずつ下っていた。擦り減った靴底が石造りの踏み板を叩く。百段、二百段を数えても薄暗闇の先は見通せない。数百段を超えたところで言い知れぬ不安がウォルムを襲う。底への道は何処までも続くのではないか、と錯覚を起こしかねなかった。
「後ろが、消えてる」
具体的な表現ではない。それでもユナが言わんとするものは、正しく全員に伝わった。乏しいヒカリゴケの発光を頼りに、底へ、底へと降り続けてきたが、これまで歩んできた道は途切れていた。もしかしたら、ヒカリゴケが薄明りの供給を停止したに過ぎないかもしれない。そんな楽天的な考えに反発するように、肌はざわつき眼がうっすらと熱を持つ。ウォルムの本能が暗闇に飲まれてはならないと警鐘を鳴らす。足の止まった一団であったが、メリルは変わらぬ声色で指示を下した。
「先に進もう」
焦燥感に支配されることなく、一定の足取りで底を目指す。それから半刻か数刻か、乱れたウォルムの時間感覚では計り知れない。次の踏み板を探るウォルムの眼は唐突に床を捉えた。階段は途切れ、その役目を終えている。瞬間的に視界が暗転する。ウォルムは判断に迫られる。暗闇の中で火をくべれば視界の確保は可能だが、暗がりに魔物が潜んでいたら所在を明かすこととなり、絶好の標的になる。
「ウォルム」
名を呼ばれただけであったが、意図を察したウォルムは手のひらから火を発現させ、魔法袋から取り出したランプに火を移した。ウォルムは周囲を探る。床はこれまでと変わりないが壁も、天井も肉眼では視認出来ず。
「全周警戒、ここは迷宮の理からも外れてる。覚悟しよう」
警戒を促すメリルの声が暗闇に溶け消える。それだけで、ここが異常な空間であることを示す。閉鎖空間である迷宮では常に音が響く。それが今では幾ら音を立てても何の反射も無い。更に付け加えれば、下って来た階段すらも消え失せている。梯子を外されるどころの話ではない。
「床にマーキングでも付けるか」
「……傷や瓦礫が一切無いね。多分、直ぐに迷宮に飲まれるから無駄だよ」
「そうなると、ここを手探りで探すの?」
マリアンテは呆れたように暗闇に視線を走らせる。退路が断たれた今、進むしかないにせよ、進むべき方向が分からない。果たして闇雲に進むのが正解なのか、ウォルムは思考の袋小路に迷い込む。
各員が案に馳せる中で、無音を貫いてきた迷宮に音が生じた。耳障りで巨大な金属が擦れ合うような騒音。六感までも総動員させたウォルムは、暗闇から火が走るのを見た。床を這うように伸びるそれは暗闇を暴いていく。床が燃え広がり、誘導路のように一本の道を示す。床に刻まれた溝には黒々とした水が流れ、火を表面に宿らせる。
「どうやら、歓迎してくれるらしい」
「ご丁寧な誘いで、あるな」
「招かれてみよう。道を外れると、碌なことはなさそうだからね」
見え据いた誘導。ウォルムは虎口に飛び込むと分かり切っていたものの、他に行き先があるとは思えなかった。
「いかれた世界だが、ここまで捻じれていると、感心すら覚える」
「迷宮は狭間とも、上位者の遊び場とも呼ばれているからね。龍脈等の限られた場所にのみ、彼らの干渉が及ぶ……らしい。何時も突拍子もない説ばかり唱える学者の一説だから、何処まで信用できたものかな」
「まともな理ではないのは、確かじゃない」
会話を黙って聞いていたウォルムは、マリアンテに内心で同意を示す。黒き水により燃ゆる溝は分岐し、複雑な円形を描く。全貌は掴めないが半径は五十メートルを超えそうであろう。
「外周を回るか?」
「中心部に行こう。何かあるかもしれない」
ウォルムの問いに、メリルは強気な決断を下す。理が地上とは乖離した空間だ。今更、臆病になっても遅い。ウォルムは望んで底に飛び込んだのだ。どうなるかは成り行きに任せるしかなかった。中心部に向かうにつれ鼻腔が刺激を訴える。その臭いはウォルムが戦場で嗅ぎ慣れたものだ。
「……なに、この悪臭」
「腐敗臭だ。だが濃すぎる」
数百の腐乱死体と共に眠りにつかされたウォルムですら、嗅いだことのない刺激であった。小山ほどの高さにまで積まれた死体の群れが鎮座していても、不思議ではない。中心部まで一団が到達すると、タイミングを計ったかのように、炎は隠匿されていた溝を伝いながら延焼を拡大させる。炎に囲まれる形となったが、跳ねれば跨げる程度のものであった。
「趣味が悪いな」
炎は交差を続け、それを眺めるうちにウォルムは妙な引っ掛かりを覚えた。見覚えがある。何処で見た。臭気が集中を搔き乱す中で、ウォルムは懸命に記憶を探り、それらは一挙に結び付く。
「図形か、これは」
「え、なに、図形って」
マリアンテの問いに、思考に集中するウォルムは答えられない。遠き記憶にあった図形の正体をウォルムは悟った。六芒星、その歴史は古く、かつての世界に於いて様々な意味を合わせ持つ。その中でもウォルムが生き過ごした地域では、籠目紋と呼ばれ、邪を払う印と言われていた。神聖なものとして扱われる六芒星の周囲には、奇怪な文字が刻まれ同一のそれとは信じ難い。
ウォルムは直上で鎖が擦り合うような音を捉えた。怪訝そうな面々の顔から察するに、それは決してウォルムの幻聴ではない。
「中心から離れよう。嫌な感じがする」
「それが良さそうだね」
駆け足でその場を離れる中、金属同士を撹拌させたように轟音が生じ、これまで以上に臭気は強烈になっていく。六芒星から逃れたウォルムが眼にしたのは、虚空からだらりと垂れる巨大な鎖であった。薄暗闇の中でも、中心部のみが完全な闇に飲まれ見通すこともできない。
「う、そでしょ」
一級の冒険者であるマリアンテですら言葉を失う。鎖で自由を奪われながらも、闇からソレは這いずる。生気の無い瞳は、ウォルムを確かに見据えて咆哮を上げた。それだけで大気は震え、腐敗臭混じりの突風が吹く。ウォルムが二度と見たくはなかった魔物の御同類。北部諸国の大崩れの原因となった魔物が体現しようとしていた。
「腐骨龍っ」
ハリが魔物の正体を明かす。墨汁や汚泥で染め上げたかの如く澱んだ鱗、不揃いに抜け落ちた牙、大気に露出した腐肉は、龍がアンデッド化したことを明瞭に示唆する。同調するように鬼の面が興奮に震えた。
「底に関しての記録は、統一戦争で失伝したと聞いていたけど、参ったね」
龍種、魔物のみならず、生きとし生ける存在の中でも、武威の頂点に位置する魔物が、迷宮の底で闇より生まれようとしている。
「龍の中では紛い物だが、軍勢を葬るような相手。どう――!?」
ハリが対応の決定を求める中、ウォルムは練り込んだ魔力を火球に変え、腐骨龍へと撃ち込んだ。蒼炎が頭部で踊り、怒り狂った龍が鎖を打ち鳴らす。アンデッド系列に絶大な効果を齎す蒼炎であるが、龍種相手ではその効き目も薄い。
「出て来る前に、殺そう」
パーティメンバーの面々が動揺する中で、ウォルムはシンプルな解決を図る。ウォルムは龍種に対する予防接種を済ませ、免疫があった。ダンデューグ城では炎帝龍のブレスにより、成す術もなく司令部ごと万の人間が焼かれたのだ。それに比べ眼前の腐骨龍はどうだ。身体は傷み腐り、不自由そうに鎖に絡め捕られ、黒き穴から藻掻き脱しようとしている。とても神聖とは言い難い腐った龍へ、攻撃を躊躇する理由などウォルムの中では存在しなかった。
「ッ違いない、ね」
言うが早いか、魔力を練り込んだメリルは特徴的な構えを取る。魔力が身体の周囲で渦巻き、眩い閃光を伴い《三魔撃》が放たれた。身を捩る腐骨龍であるが回避できるはずもなく、光が巨躯の露出部を包む。衝撃が地上に居るウォルムにまで達する。血肉の幕が晴れ視界が開けた。頬から肩口までに傷が走るが、有効打を浴びせたに過ぎない。
「地竜の鱗ですら、砕く一撃なんだけど、ね」
メリルは顔を歪め、言葉を漏らす。
「残りは?」
「振り絞っても二発だね」
効いていない訳ではない。それでも二発を浴びせても仕留めきれないだろう。《三魔撃》ですら火力不足。鬼火の最大火力でも仕留めきれない。メリルが三、四人も居れば届き得るかもしれない、とウォルムは現実逃避するが、有り得もしない妄想と否定する。
「空中で手出し出来ないとは口惜しい」
「矢も魔力膜と鱗で、届かない」
腐骨龍の片腕が黒き穴から突き出る。残る腕も解き放たれようとしていた。ウォルムは駄目元で火球を撃ち込み、メリルは二撃目の準備に入る。何か策は無いかと吊り下がる腐骨龍を懸命に探るが、答えは出ない。
「くそ、上半身が出て来た」
悪態を吐き、ウォルムは地面に目を伏せる。忌々しい六芒星を象った召喚陣は、輝き続けていた。その炎を眺めるうちに、ウォルムに賭けが浮かんだ。失敗すれば、更なる有効打不足に陥るが試す価値はあった。
「メリル、地面だ。溝を壊せ!!」
《三魔撃》を投射寸前であったメリルは、ウォルムの言葉を信じ、強引に軌道を捻じ曲げ床を薙ぎ払う。床が閃光を浴び破砕していく。怪しき輝きを放っていた溝は、魔力の供給を絶たれたように煌めきを弱らせる。腐骨龍がこれまでにない絶叫を上げた。虚空から這いずっていた腐骨龍が空から落下。ウォルムが辿るように見上げれば、暗闇に出現していた巨大な黒き穴が、幻のように掻き消えていく。
「半身が千切れた!?」
マリアンテが信じられないと叫ぶ。召喚陣を破壊された腐骨龍は、空間を繋ぐ道を断絶され、下半身と泣き別れる。ウォルムの目論見は部分的に成功した。誤算があるとすれば、半身を失った腐骨龍が息絶えることなく、両腕の爪を床材に食い込ませ身を起こしたことだ。
「面妖な、上半身だけでも、動くかッ」
メイスを構え直したハリが吐き捨てる。ウォルムとしても大人しく死んでいて欲しかったが、腐っても龍には違いない。
「メリル、まだ撃てるのか?」
「あと一発が限界だよ」
「千切れた傷口を狙えば――まずいッ」
ウォルムはその兆候を知っている。忘れるはずがない。その一撃を以てダンデューグは陥落寸前にまで追い込まれたのだ。
「ブレスが来るぞ!!」
腐骨龍から汚泥のような魔力が溢れ返る。その中心は胸から、喉へと移動していく。
「アレは避け切れんぞっ」
「マリ、寄与魔法を全力で!!」
「ありったけ、もってきなさいっ」
メリルの肩を掴んだマリアンテから魔力が流れていく。寄与魔法、これまで様々な魔法に触れてきたウォルムでも、初めて遭遇する稀有な魔法であった。
見惚れる訳にもいかない。火球で阻止を狙うウォルムであったが、眼前の腐った龍は怯む素振りも見せない。喉から口内に向かい圧縮された魔力の塊が流れ込み、巨大な顎が開く。その黒々とした牙の奥から、比類なき龍の息吹が放たれる。同時に叫んだメリルもマリアンテの全魔力を吸い上げた《三魔撃》を撃ち込む。
「っうォ、あッああ゛あァああッ!!」
目が眩む魔力の奔流が衝突を果たす。合流点の床は不可視の力により砕かれ瞬時に蒸発。迫り合いの末に余波が周囲に漏れ広がっていく。侵食されるように三色の閃光が黒に染まり、一挙に押し切られた。ウォルムは炎柱を作り上げ更なる迎撃に入るが、それでも止めきれない。先頭に居たウォルムとメリルの腕が掴まれ、後ろへと投げ出される。それを成したのはハリであった。
「地に伏せ、盾にしろッ」
「ハリッ!?」
ウォルム達の前に武僧は躍り出ると、床に根を張るように踏ん張り身体に魔力膜を巡らせた。スキル《金剛》にまで昇華されたハリの魔力膜は、素手で鉄を叩き曲げ、剣すらも生身で受け止める。だが、幾ら減退を重ねたブレスとは言え、ただで済むはずがない。
「うっぐぅう、うう゛ぬぅァアう、あ゛ああッ――!!」
絶叫と共に、ハリがブレスに飲まれる。鋭利な石が犇めく川底を引き摺られるように、ウォルムの身体は痛めつけられる。それでも、その程度で済んだ。口内に溜まった血を吐き出し、斧槍を支えに立ち上がる。他の三人も同じようなものであった。
忙しなく目と首を動かしたウォルムは、襤褸切れとなったハリを探し当てる。鑢掛けされたように肌が抉られ血が滲んでいたが、ハリとしての原型を残したままであった。ブレスの漸減に成功した賜物もあるだろうが、半身と大量の魔力を失い、不完全なブレスを吐き出した腐骨龍の失態が大きい。
「まだやれるかい」
「あっちは半身しか無いんだ。手負いで十分だろう」
「マリアンテは、ハリを離れた場所まで運んでくれ。ユナ、いけるかい」
「んっ」
最早、小細工も効かない。迷宮、最後の戦いが始まる。距離を詰めるウォルムに対し、腐骨龍はその片腕を薙ぐ。軌道を見極めたウォルムは幻惑するように進路を小刻みに変える。腐骨龍の一撃は容易に石板を叩き割るが、肝心の機動性は一対の腕頼り。間合いを誤らなければ致命的な一撃は免れる。
ウォルムが注意を引く間に、側面と背後にそれぞれ回り込んだメリルとユナが、猛攻を仕掛ける。駆け込んだメリルが足を止めずに傷を裂き、ユナは喉から胸元に残された《三魔撃》の跡に矢を撃ち込む。漏れ出る腐血が床に広がるたびに、鼻腔が刺激臭を拒絶する。腐骨龍の注意が他の二人に向けば、ウォルムは浮気を許さないと火球を撃ち込み、攻撃を誘引した。
「運び終わったわよ!!」
ハリの移送を終えたマリアンテが戦列に加わった。一団は露出した肉や断裂部を抉り取っていくが、千切れたとは言え、腐骨龍の全長は未だ二十メートルを超える。魔力膜も健在であり、巨石を鑢で削るに等しい。
「正面に回るな!! 腕と牙に注意を払うんだッ」
移動手段が両腕に限られ、本来の機動力に欠くというのに、腐骨龍の攻撃は衰えるどころか精度が増す。それに加えブレスの余波、度重なる疲労が面々から精細さを奪う。
「避けろ、ウォルムッ」
それまで腐骨龍は、ウォルムを矮小な羽虫の如く無視していた。それが一転して首を逸らし、開かれた顎門で噛み砕きを狙う。その豹変ぶりにウォルムは肝を冷やし、地面を蹴り上げて石畳を背中で滑る。直ぐ足元を腐骨龍の頭部が通過して行く。
「斧槍が持ってかれたッ」
辛うじて噛み殺しから逃れたウォルムであったが、斧槍が龍の巨躯に弾かれ黒暗に消えていく。背を丸めた反動で床に肘を突き立て起き上がったウォルムは、腰のロングソードを引き抜く。斧槍の叩き下ろしは、巨躯相手には惜しいが、まだ武器は残されている。それに悪いことばかりではない。姿勢が崩れるほどの大振りの攻撃を敢行した腐骨龍は、無防備に弱点を晒す。
それを見逃すほど三人は耄碌していない。腐骨龍が石板に爪を食い込ませ、起き上がるまで散々に攻撃を浴びせた。それでもウォルムの顔は喜びに緩まない。腐骨龍は未だ戦闘力を残している。アンデッド系の特性か、龍であった名残か、嫌になるほどのタフな相手であった。
ウォルムは腐骨龍の全身を捉えながらも、攻撃の起点となっている頭部と腕に意識の多くを割いていた。そうした中でウォルムは差異に気付く。これまで腐骨龍は大地を掴むように爪を食い込ませ接地していた。そんな爪は何かを掴むように閉じられ、隙間から圧縮された礫が漏れ出る。
「礫だ!! 避けろッ」
ウォルムの警告から間もなく腐骨龍の腕が薙ぎ払われ、その手から礫が投擲される。龍が用いた小技に回避行動を取る三人であったが、射角内にユナが囚われた。上部から角度を付けた無数の礫が散弾のように石畳に降り注ぐ。ごっ、がっと破片が床を転がり回り、遠方に消えていく中、ユナはゆっくりと崩れ落ちた。
「ゆ、ユナ!?」
「マリ、足を止めるなッ!!」
倒れ込むユナに気を取られたマリアンテは、切り返しで迫る腕への反応が遅れてしまう。上腕部に巻き込まれたマリアンテは、投石機に打ち出されたように投げ出され、受け身も取れぬまま横たわる。
二人を沈めて腐骨龍は気でも良くしたのか、同様に攻撃を繰り返す。ウォルムも、メリルも、倒れる仲間に心を囚われる事はなかった。人数が減った分、危険な攻めを繰り返してはすんでのところで離脱する。経過した時間など分からない。息は乱れ、手足が震える。剣を持つ握力も弱ってきていた。度々訪れる破綻の危機を、残り少ない魔力で先延ばしにする。腐骨龍の揺ぎ無かった魔力膜にも綻びは生じていた。それでもこのまま続ければ、先に地に伏せるのは、人であろう。
「このままじゃジリ貧だ。俺がスキルで焼き払う」
「ウォルム、眼は、持つのかい」
「眼が溶け出すほどの魔力は残ってない。……焼き切れるか、微妙なところ、だ」
途切れ途切れの会話の最中にも、猛攻は止むことを知らない。余裕のない呼吸の中で、ウォルムは会話を続ける。
「ふぅ、は、そう、なると、至近距離だねッ」
「ああ、飛び込む方法と、っぅ、隙が必要だ」
「風属性魔法で、打ち出すよ。そのあと魔力が切れるまで、援護をする」
「スキルが発動したら、すぐ離れろ。巻き込まれる」
どうにか意見を纏めたウォルムは、一時的に攻勢を中断すると腐骨龍から間合いを取り、メリルと合流を果たす。二人纏まったことで、喜々として腐骨龍は身を捩り迫り来る。
「ウォルム、行くよ! 突風」
無風の筈の迷宮の底に発現された突風が、ウォルムの身体を打ち出す。幸い、標的は持ち得る全速を以て接近していた。ウォルムを空中で払おうにも文字通り手が足りない。苦し紛れにウォルムを噛み千切ろうとするが、黒牙は虚空を砕くだけ。ウォルムが選んだ先は、《三魔撃》により穿たれた肩口の傷。逆手に持ち換えたロングソードの刀身全てが楔を打ち込むように入り込む。
「焼けぇえ゛ええ、ウォルムッ!!」
ウォルムの身体から蒼炎が溢れ、暴風が吹き荒れる。瞬く間に炎は腐骨龍の全身を包んだ。腐肉が焦げ付き、腐乱液と脂が音を立てて弾ける。まるで全身が溶け出しているかのようであった。焼けた釘で突かれたように、魔眼が騒ぎ出す。奥歯を砕けんばかりに食いしばり、痛みに耐える。少なくとも、ウォルムにこの痛みが続く限りは、腐龍は燃え続ける。
「ウォルムもう離れろ、掴まれる!!」
メリルの必死な呼び声も空しく、腐骨龍は痙攣した腕でウォルムを掴んだ。鎧がひしゃげ、全身が軋み上げる。左腕は呆気なく音を立てて折れ、有らぬ方向に曲がった。
「ご、はぁ、うっ、ぇぐっ、うぅ゛ううッゥ!!」
ウォルムは我慢比べだと言わんばかりに、蒼炎を流し続けた。鬼火はこの世ならざるモノも冥府へ誘う。腐骨龍の左半身は無残にも変色、ウォルムという爆炎地を掴む手は融解を始め、溶けた指先からは爪が剥がれ落ちる。耐え切れなかったのは腐骨龍であった。知性が失われた龍も、自身の喪失を本能的に恐れた。人を握りつぶすことさえ敵わないと悟り、僅かに腐肉が残る手でウォルムを投げ飛ばす。それは少しでも遠くへ危険物を遠ざけるようであった。
石畳が乾いた打撃音を伴い、ウォルムを迎え入れる。衝撃と激痛で鬼火は強制停止され、ウォルムの視界にノイズが走る。何もかも不鮮明であった。前後左右も分からない。ウォルムは接する地面を頼りに身を起こす。
腐骨龍の咆哮は止まず、メリルとの戦闘が続いていることを示唆していた。魔力は微かに残っている。まだ戦える。戦わなければならない。ウォルムは震える足を叱咤し、生まれたての小鹿のように立ち上がろうとするが、どうにも足がついてこない。視線を足元に落とせば、柔らかい長葱のように足首が曲がっていた。それでも残る片足を軸に立ち上がろうとするウォルムであったが、胸に耐えがたい痛みが走り倒れ込む。幾ら空気を吸おうが呼吸ができない。心臓が締め付けられる。
「あっ、っう、ぁ゛」
ウォルムは地上で溺れていた。視界の先ではメリルが剣を振るう。腐骨龍はその全身が爛れ溶けだしていたが、まだ生への執着を諦めてはいなかった。
「立つな、ウォルム!! 僕が、かたをつける。そこで待っていてくれ」
ウォルムは情けなくも最後の仲間に戦いの行く末を託した。数十、百にも届く攻防が繰り返される。切り取られる腐骨龍に対し、メリルも手傷を重ねていく。凄惨な戦闘だと言うのに、まるで剣舞のようであった。種族は違えど、両者は満身創痍、僅かな切っ掛けで天秤が容易に傾く。
「もう少しッ、なんだけど、な」
肩で呼吸を繰り返していたメリルの足が縺れた。その隙は余りにも大きく致命的。腐骨龍は最早腕とも呼べぬ骨を叩き下ろす。避けてくれと願うウォルムであったが、狂った耳管が聞き覚えのある風切り音を捉えた。直撃する筈だった腕は僅かに逸れ、無人の床に破壊を重ねるだけに終わる。
「かせい、する」
ウォルムは途切れ掛ける意識を振り絞り、首を傾けると、冒険者が二の矢を番えていた。頭部に投石を受け地に伏せたユナが、戦列に復帰していた。切れた額からは鮮血が溢れ目を朱色に染める。これ以上に無い悪条件にも関わらず、弓の名手は針に糸を通すかの如く、魔力膜が切れた腐骨龍の眼を射抜いてみせた。口腔に溜まった血反吐を噴き出しながら、ウォルムは笑みを浮かべる。
残る隻眼もユナは矢で穿つ。龍の巨躯が揺らぎ、態勢が崩れる。走り込んだメリルは特徴的な構えを取った。魔力は欠乏している。それでもメリルはその構えを選んだ。腕を伝い飛び上がったメリルは、最上段からロングソードを降り下ろす。《三魔撃》で深手を負わせた傷をなぞるように、眼孔から首を辿り、肩口を斬り裂く。着地は優雅なものではなかった。それでも誰が彼女を無様と侮れるものか。ウォルムが行く末を見届ける中で、メリルは見事に成し遂げたのだ。
腐骨龍の身体は、枯れ木が限界を迎えて腐り落ちるように倒れ込む。腐乱液が溝に流れ込み、臭気をまき散らすと、腐肉は一斉に溶け出した。骨だけとなった腐骨龍は、完全に死に絶えていた。気張っていたウォルムは安堵に、眼を瞑る。
「ユナは、ハリとマリアンテを、僕は、ウォルムを診る」
あれだけの戦闘を成し遂げ疲弊したというのに、メリルはウォルムの下に走り寄って来る。
「なんて無茶をするんだ!! 馬鹿、起きろ。意識を手放すな」
随分な無茶を言うな、とウォルムは答えたかったが振り絞っても声が出ない。正常な機能を放棄した肺には言葉すら至難の業であった。寝転ぶウォルムの衣服をメリルは剝いでいく。
「手足だけじゃなく、肋骨も折れて、胸が、膨らんでる。くそっ、胸腔に空気が溜まってるのか」
「メリル、無事ではないけど、ハリとマリアンテは生きてる」
暗闇から姿を見せずにユナが現状を報告する。派手にやられたにも関わらず、随分としぶとい仲間だ、と混濁する意識でウォルムは安堵する。
「ユナ、ハリの意識は!?」
「あるよ。回復魔法を自分で掛けていたから喋れる」
「連れてきてくれ、ウォルムの胸に空気が溜まり続けてる。このままだと圧迫された心臓が止まるかもしれない」
ユナに背負われたハリは、ウォルムと仲良く床へ並べられた。まるで港で大型魚の競りが開催されるようにユナとメリル、遅れて足を引き摺ったマリアンテが取り囲む。
「大怪我できついだろうけど、指示をくれないか、ハリ」
「仲間の為だ。このぐらい。大した、ことは無い。まず、道具袋から血抜き用の針管と蒸留酒を取りだせ。それだ。それで洗え、手もだ。ふっ、っうう、第二肋骨と、第三肋骨の間が穿刺部、だ。そこから針管を通せ。乳首の上、あたりだ。もう少し右、そこ、だ。垂直に刺せ、ゆっくりとだ。胸腔に入れば、噴射音と共に空気が、噴き出る」
ウォルムの胸に新たな痛みが加わるが、一定の深さに達すると、不思議と呼吸が楽になっていく。消え掛ける意識の中で、ウォルムはしゅうしゅうと胸元から空気が抜ける音を耳にする。
「良い音だ。空気が、抜けて、いる」
「良かっぁたァ。成功したよ、ウォルム」
メリルは身体を弛緩させると、心底疲れ果てた顔で微笑んだ。伝達手段の限られるウォルムは、震える腕を弱々しく突き上げ返答する。三魔撃のパーティがベルガナの大迷宮を制覇した瞬間であった。
力が証明できねば、天秤で命を図り、供物を捧げよ




