第六十三話
寝台から起き上がったメリルは、腕を天井へと掲げ凝り固まった身体を伸ばす。起き上がり窓を開け放てば、外気と共に都市の喧騒が部屋に飛び込んでくる。人々は小鳥の囀りのように言葉を交わし、蹄が石畳を叩き、商人がしゃがれた声で客を呼び込む。メリルが城壁都市で生まれ育ち十八年、変わらない光景であった。
「今日は素敵な一日になりそうだ」
椅子を手繰り寄せたメリルは浅く腰掛け、水瓶から汲んだ水を飲み干す。普段であれば水属性魔法により水を生成するが、僅かな魔力も消耗する訳にはいかない。何せ、今日は迷宮の底に挑む日であった。これまでの冒険者、探索者としての経験全てが問われる。メリルは仲間達との迷宮の日々を回想する。その中でも、最近加入したばかりの傭兵の存在は、迷宮の内外で日に日に大きくなっていった。
出会いは迷宮中層部だった。中層を単独で潜る珍しい探索者に目を引かれたメリルは、その日初めて傭兵の存在を知った。偶然、視線を交えただけ、それだけでメリルは身震いを起こす。その傭兵が身に纏う空気をメリルは知らなかった。燃えるような強靭さを連想させる一方で、退廃的で、人を拒む雰囲気を併せ持つ。メリルは餓狼のような男だと思った。
次にメリルが傭兵と再会を果たしたのは流血の海の中。ギルド支部でも最古参のパーティーと殺し合いに興じた傭兵の身体は刻まれ、砕かれ、血反吐を吐き出す。重傷を負った身だと言うのに、その濁ったとしか形容できない金色の眼からは、一切の戦意が失われていない。メリルがファウストと問答を始めなければ、そのままどちらかが力尽きるまで殺し合いに興じていただろう。
メリルはこの傭兵こそが、前衛不足のパーティに必要だと直感した。誤算と言えば、傭兵が軟禁が明けて直ぐに迷宮に飛び込んだことだ。俗に言う迷宮狂いですら休息期間を設ける。それをまるで僅かな時間ですら惜しいとばかりに、その身を迷宮に投じてしまう。幸い、目指す先は同じ。後を追う形でメリルはパーティメンバーとともに、迷宮を潜った。予想は的中する。上位と称される探索者でも入念に装備を整え徒党を組み、漸く到達し得る階層に傭兵は一人佇んでいた。
偶然出会ったふりをして、パーティ加入の口説き文句を口にするメリルは、実に滑稽であったに違いない。何せ、これまでメリルは恋仲ができたこともないというのに、一人の男を懸命に口説き落とそうというのだ。
そんなメリルの思惑も、良くも悪くもがさつなドワーフ達の乱入によりご破算。思わずメリルは額に手を当てそうになったほどだ。どうにか立て直したメリルは、馴染みの店にまで傭兵を誘い込み、利害と目的の一致で無事に加入の流れとなったのは、幸運としか言いようがない。
ウォルムを交えた迷宮潜りでは、期待以上の働きをメリルに見せてくれた。接敵までに二属性魔法で敵を制圧、牽制。肉薄されても巧みに斧槍を使い分け魔物を寄せ付けず、実戦に基づいた粘り強さを発揮している。その上、時に《強撃》による力業で敵を打ち倒す。その眼が万全であれば更に広範囲に作用するスキルまで使えるというのだから、メリルは呆れ果ててしまう。
そんなウォルムであったが、初対面では餓狼を連想させた印象も、直ぐに塗り替えられた。一定の懐に入った者に関しては、ウォルムは社交的であった。陰鬱な迷宮内ではユーモアを発揮してくれ、パーティメンバーとも良好な関係を保っている。ハリに関しては言うまでもない。
見知らぬ者への距離感、拒絶は北部諸国の大崩れに起因するものではないかとメリルは考えるようになった。尤も、それはメリルの予想に過ぎない。ギルドに三魔撃と祭り上げられているメリルだが、戦働きの経験は皆無であった。踏み込んで聞くほど無配慮にも、無謀にもメリルはなれない。
前衛と中衛の役割を熟すウォルムを得た今、メリルの魔力は温存可能となった。三魔撃と呼ばれる所以にもなったスキルは、一度放つだけで半分の魔力を持っていかれてしまう。底では大物が待ち受ける。スキルを如何に節約できるかが、攻略の鍵に繋がるだろう。
「う、お、おおおォ、あ゛ァああ!?」
「え、ウォルム!?」
思案の海に潜っていたメリルであったが、廊下から悲鳴が轟く。声の主はウォルムのものであった。廊下に飛び出れば、それぞれの部屋からマリアンテ、ユナが顔を覗かせる。足りないメンバーはウォルムとハリであった。メリルのパーティが所有する借家には空き部屋があり、パーティへ加入したウォルムも同じ屋根の下で寝泊まりを始めている。
「ハリとウォルムが居ない」
「ま、まさか、ついにやったんじゃ」
マリアンテが声を震わせた。冗談混じりとは言え恐れていた事態。表情が乏しいユナでさえ、何処か落ち着かない。気が重いがパーティの責任者として、確かめなければいけない。メリルはウォルムに割り当てた一室のドアを押し開いていく。普段以上に丁番と板材が軋みを上げ耳に残る。
三人がゆっくりと顔を覗かせると、絡み合った二人の男が床を転がり回っている。メリルの意識は一瞬遠退く。マリアンテが絶叫を上げ、ユナはあんぐりと口を開いたまま。
「ナニやってんのよッ!?」
「ぬ、ぐぅうう゛うぅうッ、助けてくれ、誤解だ」
ハリが冤罪だと主張するが常日頃の行いから、誰も擁護する気は起きない。三者がどう後始末をつければいいのかと顔を見合わせる。
「おっ、おォ、落ち、おち、る」
ハリの苦悶の声に、メリルは漸くウォルムの右腕がハリの首に回りながら左上腕部を掴み、左手を後頭部に当て締め上げていることに気付く。所謂、裸締めでハリの意識は急速に失われようとしていた。
「ウォルム、それ以上は駄目だ!」
「ハリでも流石に死んじゃうわよ!?」
駆け寄ったメリルとマリアンテは両者を引き剥がす。正気を取り戻したウォルムと新鮮な空気を得たハリを座らせ、痛む頭でメリルは事情聴取を始める。
「あー、何があったんだい。まずはウォルムから」
促されたウォルムはバツが悪そうに説明を始めた。
「起きたらハリの顔が目の前にあって、驚きと恐怖でつい締め上げてしまった」
「有罪っ、やっぱりやってんじゃないの!!」
「ハリ、君は……」
マリアンテは断罪の声を上げ、メリルは悲しみに言葉を詰まらせる。ハリは慌てたように弁解を口にする。
「誤解だ。呻き声が聞こえて部屋を覗くと、ウォルムが魘されていたから、揺すって起こしたのだ」
事情を察したメリル達は、安堵に息を吐き出した。同時に大事な日の早朝だと言うのに、なんてことをしてくれるんだ、と怒りが沸々と込み上げる。
「……確かにさ。ウォルムはよく魘されているね」
「それでも、距離感ってものがあるでしょうが。ウォルムも締め落とすのはやり過ぎよ」
床に座らされた男達は、頭を垂れまま、申し訳なさそうに謝罪を口にする。
「すまん。騒がしてしまったな。次からは距離感に気を付けよう。ついつい身体が前に出てしまった」
「俺も条件反射で、身体が動いた。すまない」
ハリの謝罪に引っ掛かりを覚えるメリルであるが、取り敢えずは解決と言えた。制覇者となるべく迷宮の底を目指す日に、パーティー解散など冗談にもならない。
「お腹空いたね」
ユナの気の抜けた声に、気疲れしたメリルは笑みを零した。
「ふふ、そうだね。朝食にしよう。今日は大事な日だ。まあ、笑い話で済んで良かったよ」
「本当ね。大事に至ったかと思ったわ。ああでも、ハリでも締め技は効くのね。勉強になったわ」
一団がぞろぞろと廊下に出る中、マリアンテはウォルムの絞め技を見様見真似で始める。弛緩する訳にもいかないが、緊張で凝り固まる訳にもいかない。迷宮に潜る前であれば、肩の力を抜くのに役立った。メリルは誰に告げるでもなく、内心に想いを仕舞い込む。開け放たれた窓からは風が抜け、暖かな陽光が射す。迷宮の底に挑むには、良い日であった。




