第三十一話
陸地は掠れ、既に遠き存在となっていた。ウォルムは出船時に寝過ごした訳ではない。上甲板は風を掴む為に帆を操る水夫達が動き回っており、ウォルムを始めとする乗客達は慎ましく中甲板で暇を潰すしかなかったのだ。
風を掴み、港を離れてようやく上甲板に這い出た乗客は、思い思いの場所で暇を潰していた。ウォルムもその中に混じり、海面や風を楽しんでいたが、それもそう長く楽しめる訳ではない。
ぼやいてはいるが、ウォルムは恵まれていた。風を受けて進む帆船は常に船体が傾き揺れている。早いことに陸地に慣れ親しんだ乗客達の中には、舷縁から胃の内容物を撒き散らし、海を汚染し続ける者まで居た。波の音に紛れ、下水が詰まったような音が響く。
「気の毒に」
今はどうにか堪えているが、既に決壊寸前な者もおり、桶と共に時を過ごしていた。これが港に着くまで続く。無神論者ですら神に祈りたくなるに違いないとウォルムは彼らを憐れんだ。
船が離岸してから風を掴むまでは、水夫達が動索により帆の調整に勤しみ、船体とマストを支える横静索を駆け上がっていた。それらが静まった今は、嘔吐に忙しい客を除けば、甲板上は至って平和であった。マスト上部に設けられた檣楼には、監視や操帆の為に水夫が張り付く。ウォルムは先人から船上での暇潰しを学ぶことにした。そうして当直を逃れた乗組員の観察を始める。
樽の隙間に挟まり昼寝に耽る者、ナイフで何かを削り出す者など様々だ。そんな中で、ウォルムの興味を惹いたのは上甲板や船尾楼から釣り糸を伸ばす船員達だった。何せ、引き縄釣りに興じる船員の中に、見知った男が大はしゃぎしている。
「サーシェフ、釣れたのか?」
「おう、大物とは言わないが、食いごたえのあるソードフィッシュだろう」
額から汗を飛ばしたサーシェフは満面の笑みで応えた。数人掛かりで釣り上げた回遊魚は、上顎が剣のように鋭く発達している。ウォルムの知るところのカジキのような魚であったが、随分と上顎が禍々しい。
「美味そうだ。しかし、随分と顎が鋭いな」
「こいつの顎はよく切れるんだ。たまに喉や手足の動脈を裂かれて死ぬ奴も居るから、トドメはしっかり入れとかないといけない」
サーシェフの言葉通り、エラに深々と銛を刺されたソードフィッシュは、夥しい血を流し、抵抗虚しく力尽きていた。
「ウォルムも食べるか? 積み込んだ食料じゃないから、安くできるぜ」
「安くしてくれるなら歓迎だ」
海魚と無縁の生活をしてきたウォルムにとって、新鮮なカジキもどきは最高の食事だった。多少ぼられたとしても是非、胃袋に収めておきたい。
「流すぞ。汚しすぎると甲板長にどやされる」
「料理長のとこに持ってこう」
「針外すぞ」
釣り上げる手伝いをしていた他の船員達は、手慣れた様子で上甲板に流れ出た血を洗い流し、ソードフィッシュから針を外す。金属で全体が構成されているとウォルムは予想していたが、外された針こそは金属であったが、大部分は金属特有の光沢を帯びていない。
「擬似餌、骨……か?」
ウォルムの問い掛けに、船員が答える。
「惜しいな。柄は牛の角だ。それに海鳥の羽毛を使ってる。骨を削って作る奴もいるがな」
ウォルムはまじまじと擬似餌を見て納得する。船内の暇潰しの一環で、手作りの擬似餌作りは盛んなようであった。
「このソードフィッシュの上顎も柄に使える。無駄なとこがない魚だよ」
乗組員は自慢するようにウォルムに言った。そんなソードフィッシュは荒縄で縛られると、巻き上げ機で倉口から最下層甲板へと運ばれていく。
「台所は上にあるんじゃないんだな」
「上じゃ揺れて料理にならないよ。台所はギャレーって呼んでて最下層甲板にある。かまどで周りも石造りだ。万が一、船体に燃え移っても水には困らないからな。煙も甲板に開いた倉口や専用の換気口から出してる」
サーシェフの説明を受けたウォルムは改めて倉口に目を向ける。縄や樽が擦れた跡に混じり、煤汚れも混じっていた。換気の役目を果たしている証拠であろう。
「サーシェフは説明が上手いな」
ウォルムの漏らした本音にサーシェフは真顔で答える。
「褒めても、ソードフィッシュしか出ない」
「そりゃいい」
最下層甲板に吊り下ろされるソードフィッシュに目を奪われながら、ウォルムは呟いた。
◆
海面が双子月に照らされながら揺れ動く。檣楼で見張り役を命じられた男は、代わり映えのない光景にため息を漏らす。
男はリベリトア商業連邦所属の商船の乗組員の一人であった。現在男が乗るメイジャー号が航行する海域は、群島諸国外縁部の危険海域とは異なり、航路が開拓され長い歴史を持ち、安全とされている。
大型の魔物は、軍船や群島諸国が誇る海龍により討伐されるか、縄張りを追い出されている。居るとすれば海の小鬼の異名を持つサハギン、名称も無い雑多な肉食魚ぐらいなものであった。
懐に仕舞い込んでいたラム酒を口に含み、勢い良く飲み込む。まるで熱を持ったような酒精が食道から胃に流れ込む。息を吐き出し、監視を再開した男だったが、不意に海面に影が走ったのを感じ取った。
「なんだ……?」
男が鐘楼から身を乗り出し注視するが、影など存在せず、海は穏やかなままだった。
「ちっ、飲み過ぎたか」
ラム酒が詰まった酒瓶をまじまじと睨んだ男が、懐に仕舞い込もうとした時であった。船体に衝撃が走り、身体が床に投げ出される。
「座礁!? いや、有り得ない」
沿岸部ではない外洋だ。頻繁に船が往来する航路であり、座礁する岩礁も存在しない。だが現実には船は激しく揺れ動き、衝撃は強くなっていく。
そんな時、男の鼻腔は耐え難い悪臭を吸い込んだ。まるで炎天下で魚を何日も放置したかのような腐敗臭――その臭いに男は心当たりがあった。船乗りであれば誰しも知っている。
「まさか、そんな」
深まる疑念は、甲板からの悲鳴により裏付けられた。怒号に混じり、船尾楼の早鐘が打ち鳴らされる。
「離せぇぇえ、あ、ぁああ゛ぁあ!?」
「襲撃だ、起きろ、起きろォ!!」
見知った仲間の悲鳴が耳にこびり付く。やっとの思いで起き上がった男は、襲撃者の全容をようやく掴んだ。
「畜生っ、よりにもよって――」
男は据え付けられた弩を取り出し、装填用の輪を踏み付け装填を試みるが、急速に身体が傾く。メインマストを支えていた横静索が次々と破断していた。荒縄は切れた反動で乗組員を巻き込み、甲板上を踊り狂う。既に男の仲間達は碌な抵抗も出来ず、鏖殺されていた。
半数以上の横静索を失い、マストは傾斜していく。弩や酒瓶が虚空に投げ出され、耐え切れなくなった男もそれに続いた。
「ぁ、あっ、ああ゛ぁああ!!」
手足をばたつかせ滑落する男であったが、檣楼までの足場である段索に引っ掛かり減速する。それでも落下は免れなかった。
中途半端に引っ掛かった手足は捻じ曲がり、甲板に叩き付けられたことによって、肋骨が広範囲に及び粉砕する。破砕された甲板の残骸が脇腹に食い込み、息も儘ならない男は、どうにか浅く呼吸を繰り返すが、それも長くは続かなかった。
「ひぃ、ァぁ、く、来る、なぁ」
腐敗臭の源が、そこに居た。男は恐怖で身体を動かそうとするが重傷を負い、芋虫にも劣る動きではなす術もない。もはや男が出来ることは、甲板を引っ掻き、叫び声を上げることだけだった。
断末魔の叫びが一つ、また一つと途絶え、海は何事もなく静けさを取り戻す。そうしてメイジャー号の船乗りは、残らず海から消え失せた。




