番外編 3.過去の夢、未来への光
美しい湖を見下ろして、彼女は目を伏せた。
もう枯れるほど涙を零した紫水晶の瞳は、それでも未だに潤んで。握りしめた白い手が、後ろからそっと大きな男の手に包まれた。
「ディアナ」
振り返れば、誰よりも愛おしいその人が居る。
彼の握る剣──フォルレインが、カタカタとその存在を現した。けれど精霊は黙して語らない。哀しみの波動だけが伝わってくる。
彼女の手を包み込んだ彼は、ディアナの前に立って。アクアマリンの瞳が彼女と同じ感情を浮かべていた。
「本当に、行ってしまうのですか?」
彼の問いに、彼女は涙を零す──それが答え。
「ええ。私はここに居てはいけないの」
──彼とは、二度と逢えない。
「ごめんなさい……あなたの傍に居たい。でも、私の存在は世界を崩す。ここにいてはいけなかったの。だというのに、私はあなたを──」
言いかけて、ディアナは首を振った。
駄目だ。未練を告げることなど。彼を苦しませるだけだ。このままずっと彼の傍に居たいと──言えるわけがない。
「どうか幸せになって。あなたに相応しい妻を迎えて、家族を作って。この地を守り続けて」
彼女が絞り出したその言葉に、彼は苦しげに囁く。
「無理だ。私はあなた以外の妻など欲しくない。誰も要らない。この心は、あなたのもの。生涯あなたを想ってゆきます」
「それではこの魔導の民が絶えてしまう。あなたは王として、力を残して」
反論した彼女を抱き寄せ、彼は金色の髪を揺らしてその顔を覗き込んだ。
「王の血は弟夫婦が繋いでくれます。だからディアナ、私はあなた以外を娶らない。生ある間はもう会えないなら、私の命が尽きたときには、魂だけでもあなたの元へ行きます。その時は、月に迎えてくれますか?」
彼の想いに、ディアナはとうとう泣き出した。何度も頷く。そんな彼女を強く抱きしめて、彼は微笑んだ。
「愛している、ディアナ。私の女神」
唇を重ねて。何度も愛を告げた。別れの瞬間まで。そして──
「愛しているわ、フォルディアス」
月の女神は人の地から消えた。
彼女のぬくもりは、直ぐに失ってしまう。けれど、青の騎士はそれを忘れることはない。
嘆くことなどない。いつか、彼女の元に行く。きっとこの腕に、取り戻してみせる。
魂になっても。生まれ変わっても。
彼は自分に付き従う人間と、精霊達へ宣言した。
「女神より賜わりしこの地を、セインティアと名付ける。魔導の活きる地、精霊と人を繋ぐ地として、永く栄えることを」
*
「夢……」
セイはふと目を覚ました。
木々の間から漏れる穏やかな光。晴れ渡る空に、爽やかな風。精霊の踊る美しきフォルディアス湖のほとり。大樹に寄りかかったまま、眠り込んでしまっていたらしい。
「あんな夢を見たのは、場所のせいかな。それとも──この身にかかる魔法のせいか」
女神が与えし愛の証。彼女の涙から生まれたと言われる湖だからか。青の騎士の記憶が見せたものなのか。
それとも。
「あなたと居るからでしょうか」
自分の膝で眠る少女を見下ろした。
栗色の豊かに波打つ髪。今は閉じた瞼に隠されている、紫水晶の瞳。しなやかな指が、無意識にかセイの上着の裾を掴んでいる。
「僕は、絶対に失いませんよ」
その指を愛おしそうに撫でて落とされた彼の呟きに、傍に置かれた剣が淡く光った。
『我ももう、女神を黙って見送ることなどしたくはない。我が主よ』
「ええ。もう君にもそんな想いはさせませんよ、フォルレイン」
アクアマリンの瞳を精霊に向けて、彼は微笑む。
その時、眠る彼女の瞳から涙が一筋零れ落ちて。
「フォル、ディア……ス」
呟かれた名に、同じ夢を見ているのだと知る。
セイはその頬を指で拭うと、身を屈めてディアナの額に唇を落とした。そのまま涙の跡が残る目尻にも。唇へもその熱を触れさせると、ディアナはやっと目を覚まして。一瞬目を見開いてから──微笑んだ。
「セイ」
フォルディアスと呼ばれなくて良かった、と彼は密かに安堵する。夢で見た彼は、自分にそっくりだったからだ。
「同じ夢を見るのは嬉しいですが、あなたが他の男の名を呼ぶのは嫌ですね」
セイの複雑そうな表情に、彼の月の女神は戸惑いを見せて──けれど結局は苦笑した。
「誰の夢を見たって、誰を呼んだって、私が愛しているのはあなたよ。私はフォルディアスのディアナではなく、あなたのものなのだから」
セイは息を呑んで。未だに自分の膝に預けたままの彼女の髪を撫でる。
「ああ、参ったな。普段はとても恥ずかしがるくせに、こんなときばかり。あなたは僕の扱いが本当に上手ですね」
「……あなたを見習ってるの」
無邪気に笑って見上げる彼女に唇を寄せて。いつかと同じ台詞をそっと囁いた。
「僕は生まれる前から約束されているんです。“運命の相手に出会ったなら、一目で恋に落ちるだろう”と」
フォルディアス、あなたの遺した想いは、もう形を変えて。けれどここに残っている。
でもそれはもう、僕のものだ。青の騎士ではなく、彼の女神でもなく。セイと、ディアナの恋。
「だから、ディアナ。僕と結婚してくれませんか」
花が綻ぶように、彼女は微笑んだ。あの日とは違う言葉を紡いで。
「ええ──喜んで」
過去の甘くて苦い夢ではなく。
在るのは、未来への光。
fin.
「月の女神」完結です。ありがとうございます。
続編「暁の巫女 -月の女神2-」も宜しくお願い致します。(作者・シリーズリンクよりアクセス頂けます)




