番外編1.王子の誕生日
三章と四章の間くらいのお話。
*
「ディアナさん、招待状です」
アディリス王国、セレーネの森の家。
ある晴れた日、セインティア王国近衛騎士のアランがそう言って、ディアナに封筒を差し出した。白地に金色の装飾のされたその封筒を受け取って、彼女は首を傾げる。
「招待状って、何の?」
それを開いて、中のカードを取り出し、文面を読んで目を見開いた。
「……青の聖国王子の生誕記念パーティ?セイ、お誕生日なの?」
「あれ?知りませんでした?」
アランはキョトンと聞き返す。少女は頷いて「言ってくれれば良いのに」と呟いて。しかしパッと近衛騎士を見た。
「アランさん、誕生日プレゼントってどうしたらいいかしら。セイの欲しいものとか、知ってる?」
彼女の言葉に、アランは素直に答えた──正直すぎるほどに。
「え、そんなのディアナさんにリボンかけて『私がプレゼント』てやられたら一発でイケると、あ痛っ!」
「ディアナに何を吹き込んでるんだ、ヘラヘラ騎士!」
彼の頭をくちばしで突きながら、イールが呆れた声を上げる。アランはすみませんと謝りながら笑った。
「……まあそりゃ極端だとしてもですよ。ラセイン様ならディアナさんの笑顔だけで充分舞い上がるんじゃないっすか?」
近衛騎士の意見はそれとして。
ディアナがセイの部屋に行くと、彼は剣の手入れをしていた。魔法に護られて曇り一つないフォルレインの刀身だが、それでも丁寧に見る彼がとても好きだと思う。扉は開いていたが、一応ノックすると彼は顔を上げて微笑んだ。
「ディアナ」
「もうすぐセイの誕生日だなんて、私知らなかったわ」
彼女の手にした招待状に、セイはああ、と笑って。
「すみません。つい忘れていて」
と言った。
「……私、何かあなたにしてあげられることある?」
王子である彼に、何かを贈ろうと思っても思いつかない。気後れして聞くと、セイはディアナの心を読んだかの様に、柔らかく微笑む。
「一緒に城でのパーティに来て下さいますか?誕生日はあなたと過ごしたい。あなたがいてくれて、隣で笑っていてくれたら、それが僕には素敵なプレゼントですよ」
ディアナは先ほどのアランの言葉を思い出した。
『ディアナさんの笑顔だけで』
……そう、よね。アランさんの言うとおりかもしれない。せめて、彼の目に映る私が、いつも笑顔であるように。
ディアナは微笑んで頷いた。
*
セインティア王国は自慢の美貌の王子の誕生日とあって、国内がお祭りムード一色になる。特にフォルディアス城内は色とりどりの花や、精霊の祝福の光で煌びやかに飾られていた。
「わあ……」
転移魔法でセイとともに城へとやって来たディアナは、魔導師達がそれぞれの魔法で虹や花火を打ち出す様を見て、感嘆の声を上げる。
「イール、見て!綺麗……!」
「凄い!ディアナ、あれあれ!」
娯楽向きの魔法を見慣れない彼女達の素直な反応に、セイはニコニコとそれを見守っていた。彼の視線にディアナが小首を傾げると、柔らかく微笑まれて。
「いや……可愛いなと思いまして。あなたがそんな風にはしゃぐのは珍しいから」
愛おしげに見つめられて、ディアナの頬が赤く染まった。
「こ、子供っぽいわよね。あんな魔法、初めて見たから」
「そういうあなたも僕は好きですよ。もっとその可愛い顔を見せて下さい。あなたに喜んでもらえるなら、我が国に来て頂いた甲斐があるというものです」
甘い言葉と共に彼女の腰を抱き寄せて、その額に唇を落とす王子に、女神の相棒はあきれ顔を向ける。
「全く、キラキラ王子は減量皆無の甘ったるさだね。なんだかどっちの誕生日だかわからないよ」
「良いんですよ。ディアナの笑顔が僕へのプレゼントでしょう?僕は欲張りですから、たくさん下さいね」
クスクス笑う彼に、ディアナは申し訳なくなりながらも、けれどやはりいつもと違う雰囲気には浮かれてしまう。行き交う城の者達も、心無しか楽しそうなのは、さすが結束固い青の聖国か。
「ラセイン様、こちらでお支度を。ディアナさん、ようこそセインティアへ。セアラ様がお待ちですよ」
後ろで彼らを見守っていたアランが、悪戯めいた瞳で少女に言った。
「さあお二人とも、お着替えタイムですよ」
*
身支度以上に色々と準備のある王子を残して、ディアナとイールは侍女と共にセアラ姫の部屋へ向かう。リリーナというこの侍女は、ディアナがセインティア王国に初めて来た時も世話をしてくれた、気さくなお姉さんだ。
「ディアナ様、今夜の舞踏パーティは楽しみですわね。ワルツのステップはまだ覚えていらっしゃる?」
「……どうかしら。リリーナさん、後でもう一度教えてくれませんか?」
「あら、でしたらフォルニール隊長にお相手をさせたら宜しいわ。彼なら足を踏んでも良いと、セアラ様からお許しが出ておりますわよ」
「ええっ、それはちょっと」
二人でたわいもない話をしながら、廊下を進んでいると。その先から豪奢なドレスを着た若い女性が、数人の侍女を伴って歩いて来た。ディアナに気付くと、不愉快そうに眉を上げる。
「皇国からのお客様ですわ。貴族のご令嬢とか」
密やかにリリーナが耳打ちしてくれた。ディアナは令嬢をやり過ごそうと、廊下の端に避けようとしたが。
「あら、何故こんなところに平民がいるの」
突然に投げつけられた、高圧的な言葉と蔑みの視線。令嬢は侮蔑を隠そうともせずにディアナを睨みつけた。リリーナが眉を顰める。
「恐れながら、メイレーデ男爵令嬢。ディアナ様は我が主の大切なお客様であり、我がセインティアの英雄でございます」
彼女の言葉に、令嬢は態度を改めるどころかますます嘲笑う。
「ああ、月の女神とかいう……女の身で剣を振るうとは野蛮ですこと」
「ちょっ……」
思わず口を開きかけたイールは、相棒が小さく首を横に振るのを見て、しぶしぶ黙った。ディアナはただ黙ってそれを聞き、彼女から反応が無いことに、相手はつまらなそうに鼻を鳴らして。言うだけ言ったら気が済んだのか、侍女を引き連れて離れていった。すぐさま侍女はディアナを振り返る。
「ディアナ様、申し訳ありません、ご不快な思いをさせて。全く、他国の王宮であのような……品性が知れますわ」
リリーナはディアナ以上に憤慨してくれる。けれど彼女は苦笑した。
「私が平民なのは本当だもの」
「けれどセインティアにとってはディアナ様は救世主です!月の女神は我が国では敬い、尊ぶもの。それをあんな風に、許せませんわ」
侍女の剣幕に、イールも頷いて。
「何なんだよあれ!あんなのまでキラキラ王子のお客様なの?」
リリーナは溜息をついて、頷く。
「ラセイン王子を結婚相手にと狙って乗り込んできたご令嬢の一人ですわ。セインティア王の一目惚れ体質は国内では公然の秘密ですけれど、他国には知らせていませんから、ああやって見当違いな望みを抱く阿呆令嬢がやって来るのです」
「リリーナ、阿呆令嬢とか言っちゃってる、言っちゃってるよ」
さすがにイールが突っ込んだ。
「あらやだわたくしったら。阿呆では足りませんわね。躾のなっていない、頭の足りない困ったちゃん、と申し上げるべきでしたわ」
「リリーナ、危険!その発言危険!」
かなり本音がだだ漏れている気さくすぎる侍女に、ディアナはいいのかしらと思いつつ、けれど彼女の話を聞いていた。
「他国でもお見合いを打診されたら、アディリス王国のフローラ様のようにちゃんと事情を説明しているのですよ。それを知らずにディアナ様にあんな態度をとれると言うことは、あの方が王子とのお見合いも持ち上がらないレベルの令嬢だと、そのまま証明しているようなものです。こうやってパーティには潜り込んで来たかもしれませんが、わたくし達セインティアの民は、ディアナ様の味方ですからね!!」
力強く拳を握ってそう言うリリーナに、ディアナは苦笑しつつ……けれど自分を認めてもらえるのは、嬉しい。あの令嬢の言葉にそれほど傷つかなかったのは、こんな風に味方になってくれる優しい人たちがいるからだ。
「ええ、ありがとう。リリーナさん」
──それに。セイはきっと、どんな私でも必要としてくれるから。
セアラ姫の部屋に着いて、リリーナから事の次第を聞いた王子の姉姫は憤慨した。
「そんな小娘をのさばらせておくなんて、王宮警備班の失態ね。あら今日の担当は誰かしら、まあアランね。これはお仕置きしなくては」
流れるように息継ぎ無く言い切って、セアラ姫は扇を打ち鳴らす。空中に魔法が舞った気配がしたが、ディアナが止める暇もない。数分もしないうちにアランが走ってやって来た。
「ちょっと強制召喚で呼び出そうとしたのどなたですか!っていうかどうせセアラ様だとは分かってますけど!俺が魔法耐性無いの知っててやるって苛めですか!苛め反対!!」
こちらも忙しさのあまり妙なテンションになっている近衛騎士に、セアラ姫は扇で口元を隠して上品に笑う。
「あら、だってわたくしの大事なお友達が侮辱されたのよ。小ネズミの管理はあなたの仕事でしょう、アラン」
「そうですわ、そうですわ!」
リリーナもうんうんと頷き、女性二人の結束に彼はがっくりと肩を落とした。
「どうせ言い負かされるんだ。女性には逆らうなと言ったじいちゃんの言いつけが身にしみる」
「惚れた弱みでしょ」
イールがぼそりと呟いたが、アランは乾いた笑いで「あはははイールさんたら何言うんでしょうね~」とイールのくちばしを塞ぎ、幸いにも姫君の耳には入らない。しかし彼はちゃんと女性陣の訴えは聞いていた。その辺りは優秀な王子の補佐官ならではだ。
「いちゃもんつけられました?ゲイリス家かメイレーデ家ってとこですか。あそこのお嬢、まだ諦めてないのか。すみませんね、ディアナさん、嫌な思いさせて。ちゃんとラセイン様がやっつけてくれますから、心配しないで」
アランは苦笑して、ディアナの顔を覗き込んだ。彼女の瞳に、沈んだ色が無いか確かめるように。彼にまで気遣われて、彼女は微笑む。
「私は大丈夫です」
少女の控えめだが柔らかな表情を見て「そう」とアランは優しく微笑んだ。本当に“皆のお兄さん”のような彼に、自然と釣られて笑ってしまう。
「じゃあ、とびきり綺麗にしてもらってくださいね。ラセイン様喜びますから」
彼は数週間前に姉姫と額をくっつけて、ディアナのドレスを選んでいた主を思い出す。
『ほーら、ラセイン。これ見たくありませんこと?』
『あ、姉上……それはまさか、門外不出の』
『ほーほほほ、リエンカの未発表新作ドレスのカタログよ!』
二人の真剣さに、どこぞの失われた魔導書か、秘宝の地図でも発見したのかと思ったアランは、それを聞いて壁に向かって項垂れた。ああそりゃ、ラセイン様にとっちゃ何よりの宝でしょうよ。
彼女にはこの色が似合うだとか、もはやなんでも可愛いから選べないとか、露出がどうのとか、騎士団の若手には見せられないようなメロ甘っぷりだったのだ。公務の書類より真剣に見てたぞ、あれは。
アランの言葉に、侍女はぐっと拳を握りしめた。
「ディアナ様ならあんな子虫、敵ではありませんわ!」
「もはや虫!?リリーナ、危険発言!!」
イールのツッコミに、ディアナが苦笑しているのを見つつ、近衛騎士は姫君にそっと耳打ちする。
「……ラセイン様に報告しておきます」
「ええ。あの子も容赦無いから……まあ誕生日くらい、せいぜい派手におやりなさいと伝えて」
「御意」
年長者二人は視線を合わせるのみで意志を通じ合わせ──お互いの仕事を始める。
「さあ、聖国の太陽をもう一度恋に落としましょう、月の女神」
金の薔薇は美しい微笑みで言い放った。
*
舞踏会が始まると、人々は皆、今日の主役である美しい王子に釘付けになった。
20歳を迎えたラセイン王子は、もはや堂々たる青年であり、その姿は聖国の太陽という異名に相応しく燦然と輝いている。自他国問わず女性達は失神寸前に見惚れ、男性であっても目を奪われる有様だったが。
「ラセイン王子様、お誕生日おめでとうございます」
アドリス・メイレーデ男爵令嬢も彼に一目惚れをした一人だ。
一年ほど前に、青の聖国への短期留学と称した行楽に、たまたま病欠した令嬢の代わりに参加したのがアドリスだった。あの時はなぜこんな小さな島国に来なければならないと不満に思ったが、来てみたなら驚いた。セインティア王国は国そのものも豊かで美しく、得にこの美貌の王族を筆頭に、騎士団も見目麗しいものばかり。なかでもひときわ輝く王子は、田舎貴族の彼女が恋に落ちるなと言っても無理な話だ。
本来なら口も聞けないほど釣り合わないが、ラセイン王子は他国からの客人を丁重に扱った。その美貌と手腕で他国を取り込んで味方を増やすのは、小国セインティアの特性でもある。それを逆に利用して、アドリスは彼に近づこうとしていたのだが。
「ありがとうございます、メイレーデ男爵令嬢」
彼がにっこりと微笑んで、そう答えたのを見届けてから、アドリスは自慢の微笑みを浮かべて彼に身体を寄せた。
「ラセイン王子、どうかわたくしとダンスを」
誘惑しようと、その顔を覗き込む──が。その王子はフロア奥の階段を見つめて、微笑んだ。
「──やはり、あなたは何よりも美しい。僕の女神」
彼の視線の先を見て──アドリスは固まった。
そこにいたのは、一人の美姫。
彼女のために作られたと一目でわかるほどに美しくその身を彩る、瞳に合わせた紫色のドレス。端々に金糸で繊細な刺繍を施されたそれは、シャンデリアの灯りに幻想的に煌めいて。
深く艶のある栗色の髪は結い上げられ、細く白い首筋が艶めかしく、そこにアクアマリンをあしらった首飾りをしている。扇形に広がる睫毛の下の、紫水晶の瞳は吸い込まれそうなほど印象的で、化粧をされた唇は柔らかそうで視線を惹く。
「な……」
まさか。階段の上から微笑みを落とす彼女が、先ほど会った庶民だと、気付くのに数秒かかった。その美しさにあまりにも圧倒されたのだ。顔の美醜だけで言うなら、セインティアの王族に叶うものは居ないが──あの月の女神の存在感が、彼女自身にそれを凌駕するほどの美しさを与えていた。
彼女が現れた瞬間、ホールは静まり返り、人々が言葉を失うほど見惚れている。しかしすぐに「月の女神だ」「ディアナ様よ」などとざわめく声がアドリスの耳に入った。侍女が国の英雄などと言っていたが、どうやらアドリスが思っていた以上に、あの小娘は人気があるらしい。
「あ、あの」
気を取り直して彼女はもう一度王子を誘おうとしたが、彼は階段を降りてくる女神だけを見つめ、手を差し伸べた。
「どうか僕の誕生日を祝って下さいますか、我が護り神よ」
「──あなたが生を受けしこの良き日に祝福を。おめでとうございます、ラセイン王子」
女神は彼の手を取って微笑み、王子は女神の手を引き寄せてその甲に唇を落とす。見ていた者達からは羨望と感嘆の溜息が漏れた。
「僕と踊って頂けますか、美しき月の女神」
完全に無視された形となったアドリスは、憎々しげに踊る二人──月の女神を睨んだ。
「なによ、あんな庶民……」
苛立たしげにワイングラスを掴み、ひっそりと落とされた令嬢の呟きに、会場を護衛している近衛騎士団の騎士達は目配せしあう。その顔は一様に“ざまあみろ”だ。メイレーデ男爵令嬢の月の女神に対する態度は、騎士達も目撃していたし、彼女の厚かましい態度には辟易していた。令嬢の様子を見ていた王女殿下の傍にいた騎士は、同じく彼女の隣に立つ隊長に囁く。
「アラン隊長、どうやらあの小ネズミ嬢、かなりご立腹みたいですよ」
「そう。もうひとトラブル起こしてくれたら出入り禁止にするんだけどなー」
アランの物騒な呟きに、セアラ姫が楽しそうに笑った。
「あら、我が狡猾なる弟なら、そんなこと朝飯前ですわよ」
彼女の後ろにこっそり控えていたイールが、げんなりと呟いた。
「王国ってコワ~」
「それでもね、イールさん」
彼の言葉に、アランはクスリと笑って、ホールの中央を示した。
「今のお二人の顔は、本物ですよ。あんな幸せそうな恋人同士、誰に邪魔が出来ると思いますか?」
数曲踊って、さすがに休憩することにし、セイは飲み物を持ってきますとディアナから離れた。残されたディアナに男性陣が声を掛ける前に、王子の従兄弟が颯爽とその隣に立つ。
「ディアナ、今日も綺麗だね」
「キルスさん」
先日彼の依頼を終えてからその後会うことも無かったが、元気そうだ。ディアナは彼に微笑む。
「ダンス、俺とも踊ってよ……て言いたいけど、ラセインにそんなに派手にマーキングされてちゃねえ」
「え?」
彼の言葉に、少女は首を傾げた。ああやはり気付いていなかったか、とキルスは愉しげに笑う。
「その首飾り。王子の瞳と同じアクアマリンだろ。すなわち、王子が先約済みだから、他の誰も手を出すなっていう、威嚇と惚気」
は、と思わずそれに手で触れた。どうりで着替えの時にリリーナがニヤニヤしていたわけだ。間違いなく、セイの命令に違いない。
「は、恥ずかしい……」
真っ赤な頬で俯く彼女に、キルスは困った顔で笑ってみせる。
「もっと恥ずかしいこと、してんじゃないの?今更これくらいで照れるな、照れるな」
「なっ、何もしてませんたら」
ちなみに、王子がディアナから離れる時に、他の男共が近寄らぬように、従兄弟を防波堤に置いていったのもセイの指示だ。どこまでもあからさまな王子の独占欲は、いっそ微笑ましい。
一方で。クスクスと笑うキルスと頬を染めてはにかむ月の女神を見つめて、アドリスは頭に血が上る。王子だけじゃなく、従兄弟まで狙うつもりなのか。
「何なの、あの小娘……見てらっしゃい」
彼女は唇を噛み締め、少女の元へと歩き出した。
「月の女神、とおっしゃったかしら。先ほどお会いしましたわよね」
王子の従兄弟と話している月の女神を邪魔してはならないと、セインティア王国の者は敬意を払って距離を保っていたが、無作法にもその間を割って入った他国の令嬢に、皆が眉を顰めた。アドリスは頭に血が上っていたため、周りの目に全く気付くことも無い。
「随分と豪華に装われたようですけれど、先ほどのような姿の方があなたには似合っていてよ」
庶民の娘は庶民らしく引っ込んでいろと──そう侮蔑を込めて令嬢は彼女を睨んだ。キルスは微笑んだままの表情を崩さないが、その目には呆れの光が覗く。
(あーあ。誰に喧嘩売ってるのかな。聖国王子の想い人だぞ)
しかしディアナは悠然と微笑んだ。
「ええ。私もラセイン王子もそう思っています。そして彼はそんな私を好ましいと思って下さっているようですから」
「な──」
開き直った女神に、アドリスは言葉を失った。一瞬で怒りが膨れ上がる。
「庶民の分際で、厚かましい。お前のような卑しい身分の娘が、王子に想われているはずがないわ!」
手にしたグラスには赤ワインがまだ半分以上残っていた。アドリスは周りの目も、この状況もまったく目に入らないまま、激情に駆られ──それを月の女神に向かってぶちまけた。
──バシャッ!
広間に居た人々は凍り付く。騎士団は一斉に殺気立った。
「──え?」
生意気な小娘を罰したと思ったアドリスは、目の前で起こったことに、茫然と立ち尽くす。
彼女がワインを掛けたのは、女神ではなかった。ディアナを背に庇い、その肩に赤紫の染みを拡げていたのは──
「ラセイン王子!!」
金色の髪の、美しい王子で。今日の主役であるはずの彼が、そこに居た。そのアクアマリンの瞳が、剣呑に細められる。
「これはなんの騒ぎですか」
「あの、わたくし、その娘が」
しどろもどろに言い訳を重ねようとするが、あまりのことに言葉が出ない。そんな彼女を、セイは今まで向けたことも無い冷たい瞳で見下ろす。
「ディアナ嬢は我が国の英雄です。彼女を侮辱することは、我が国を侮辱することと同じ。皇国はセインティアに喧嘩を売るおつもりか」
「いいえっ……まさか!!」
とんでもないことをしでかしてしまった。今更アドリスは自分の愚かな振る舞いの重大さに気付く。
「っ、も、申し訳ありません。わたくしはただ、ラセイン様を」
慕っているのだと、そう言おうとして。
「──セイ。ここ、ついてる」
透明な声が、その場の空気を一気に変えた。
王子の頬まで飛んだワインの滴を、月の女神がそっと手を伸ばして拭い取る。引き戻そうとするディアナの指を、彼が咄嗟に掴んで、二人の視線が合い。彼女から目を離さぬまま、王子はそれを──ぺろりと舐めとったのだ。
ディアナがビクリと肩を震わせ、彼を見上げる。
「あなたに触れた酒なら──すぐに酔ってしまいそうですね」
艶やかな視線を向けられて、女神はわずかに赤く染まった頬に、潤んだ目を向けて。セイの頬からもう一滴溢れたワインが、見上げるディアナの頬に落ちた。王子はそのまま、滴を拭い取るように、彼女の頬に唇を寄せて──
「あなたも、味わってみますか?」
そのまま、ディアナへ唇を重ねた──。
「!」
その情熱的なキスシーンも、王子のディアナを見る目も間違いなく、幸せな恋に満ちていて。二人の艶めいた空気に、周りが何とも言えない、うっとりとした溜息を漏らした。騎士達も咳き込みながら、ほんのり染まった頬を隠すように姿勢を正す。
またもまるきり無視されたあげく、目の前でラブシーンを見せられたアドリスは、怒りと驚愕でぶるぶると身体を振るわせていたが。アランが彼女をそっと、しかし逃がさぬよう拘束して、囁いた。
「我らが王子への仕打ち、不敬とも取れる態度。セインティア王国はあなたを排除します、メイレーデ男爵令嬢。どうぞお国へお帰り下さい」
……こりゃまた派手にやりましたね、ラセイン様。まあ、聞いちゃいないだろうけど。
視界の隅に、楽しそうな姉姫と、今にも飛びかからんばかりに王子を睨むイールが見えた。
「大目に見てやって下さいよ、イールさん。何せお誕生日──ですから、ね?」
──そして青の王子は名実共に、月の女神こそが自分の想う恋人だと、国内外に知らしめた。
*
セイは着替えの為に私室に戻ることにしたが、美しく装ったディアナを舞踏会場で一人で待たせておくことを嫌がった。彼女も公衆の面前でされたキスによって、すっかり羞恥で隠れたい気分だったので、セイの続き部屋のテーブルで待たせて貰うことにした。近衛騎士は部屋の外で護衛についているものの、侍女も下がらせて今は二人きり。ディアナはお茶を入れて、ふう、と息を漏らす。
「疲れました?」
着替えの終わったセイは、またそれもよく似合う装飾の美しい服を身にまとっていて。これはこれで戻ったらまた淑女たちが見惚れるんだろうな、と思わせる。
「……疲れたのは、あなたのせいよ」
未だ赤みが残る頬で言ってやれば、セイは嬉しそうに笑った。
「すみません。あなたがいつも以上に綺麗で、僕だけを見ていてくれるのが嬉しくて。あなたに見惚れる男も多かったので、つい僕の愛しい恋人だと見せびらかしたくなってしまったんです」
だからどうしてそう、さらっと極甘なことを口にするのか。
セイでなければ胡散臭いと眉をしかめるところだが、このキラキラ王子には似合い過ぎるほど似合うのだからタチが悪い。しかもその表情を見れば、どうやらあれはメイレーデ男爵令嬢や周りへのパフォーマンスではなく、本気でやったのだということが分かる。
「あのご令嬢は、良かったの?」
ディアナは彼女を思い出す。過保護に育てられた故の、無知で傲慢な彼女ではあったが、セイを本気で想っていたのだとしたら少し可哀想な気もして。
けれどセイは頷いて、ディアナの前まで来てその手を引いて立たせると、部屋のバルコニーへと出た。夜も更けた空は、いつかのように無数の星が瞬いて、フォルディアス湖に宝石箱を作っている。二人を照らし出す月は白銀の三日月だ。
唐突に、セイはそこに片膝をつき、ディアナを見上げた──騎士のように。
「僕はあなただけを愛しています。他の人の想いになど応えられないし、あなたを傷つけるものなど決して許しはしない」
真摯な瞳は、何度も彼女に向けられて来たもの。
月の光に、彼の金色の髪が夜の闇でも輝いている。その手がディアナの片手をとって、その甲に唇を落とした。幻想的なほどに美しいその姿に、ディアナは釘付けになる。
やがて月の女神は、口を開いた。
「あなたが私を見つけ出してくれたこと、私を愛してくれたこと、全部ぜんぶ嬉しいわ。あなたが生まれてきてくれたことに、感謝したい」
広間で大勢の前で口にしたような、丁寧なばかりで形式的な祝いの言葉などではなく。心から。
「お誕生日おめでとう、セイ」
微笑みと共に、そう口にしたなら。彼は心から嬉しそうに、微笑み返した。
「ありがとう、ディアナ。──ああ、今日一番の笑顔ですね」
立ち上がった彼が、ディアナを引き寄せて。どちらともなく、唇を重ねた。目が合って、微笑み合えばもう一度。何度もキスをするうちに、セイは熱を込めた瞳でディアナを覗き込む。
「もうひとつだけ、欲しいものがあるんですが。……あなたにしか用意できないプレゼント」
「え?──あ」
彼は自分の髪を結っていたリボンを引き抜いて、ディアナの首に結ぶ。アクアマリンの首飾りの上に、彼の青色のリボンを揺らし、そこに唇を落とした。その意味深で艶めいた行動で、ディアナは彼の言いたいことを察してしまった。
知らないフリをしていれば良かったというのに。
思わず押さえた口元で、彼もまたディアナにきちんと意味が通じたのだと知る。ふ、と口元を緩ませた。その色気に満ちた視線に、ディアナは目を奪われたまま、動けずに──
「ねえ、ディアナ。僕に、下さいませんか──あなたの、すべてを」
「──お断りだ、キラキラ──!!!!」
結局は、闇夜の中から全力で突っ込んで来たイールによって、そのプレゼントはお預けとなり。
完璧な美しさだというのに全く目が笑ってない、冷気漂う笑顔のセイと。騒ぎを聞きつけて、心底気の毒そうな顔をする近衛騎士とが後に残された。羞恥に悶えて頭を抱えたディアナはひっそり思う。
……結局、セイの喜ぶプレゼントって、どっちもアランさんの言った通りだったのね、と。
「……えぇ、うん。いつかは、ね?」
Happy Birthday!




