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月の女神  作者: 実月アヤ
第五章 王の資格
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忠誠を誓う者

『私は、生きている。まあ多少ヤバかったが──大丈夫だ』


 銀の魔導士シーファから携帯用の通信装置を通じて連絡があったのは、彼が行方不明になって二日後のことだった。

 有能なる大魔導士は海竜に襲われた瞬間に、致命傷にならないよう防御魔法を唱えていたらしい。一度は大幅に体力と魔力を失って意識をつなぐことも難しかったようで、その美貌に微かな疲労を浮かべてはいたものの、ちゃんと怪我も治癒し終えた状態まで回復していた。


「無事で良かった。水の精霊が現れて、リティアさんはあなたを迎えに行きましたが……」


 セイが数時間前のキルティカの状況を伝えると、彼はああ、と呻く。


『あの無鉄砲馬鹿。またころっと騙されてるな。ちょっと叱りに行ってくる。座標を送るから迎えに来い』

「大丈夫なんですか?魔力が尽きてるんじゃ」

『大丈夫だ。リティアは海竜を浄化するつもりなんだろう。手伝ってくる。……あいつは私が居ないと泣くからな』

「シーファ、気をつけて」


 通信を終わらせ、セイは深く息を吐いた。

 大魔導士が居れば、リティアは大丈夫だろう。あの時は油断したが、今度は一度は戦った相手に最初から備えていくのだ。今度こそ大魔導士が遅れをとることなどあり得ない。そして弟子の少女は愛しい恋人さえ居れば、絶大な魔力を持つアルティスの秘石を使いこなす。そして彼女だけが使える不思議な魔法──魔物を浄化してくれるに違いない。


「泣くから、か。大事に想われている自覚はあるんだな」


 リティアは彼が居ないと泣く──その通りだ。いや、実際は泣くことも出来ないほど憔悴していた。

 精霊が現れるまでのこの二日間、シーファの安否が分からず、倒れる直前まで眠ることもなく探査魔法を使っていたのだから。

 彼女自身の痛々しさもだが、それはどこかセイを求めるディアナの姿にも重なって、王子は胸を痛めていた。


「ちゃんと逢えているといいけれど」


 本当はリティア一人に行かせるつもりではなかった。けれど命の危機は脱したとはいえ、アランは未だ絶対安静であったし、セイ自身は海竜に目をつけられているために、また誰かを危険な目に遭わせる可能性がある。


「少し、臆病になったかな、僕は」


 自分に苦笑する。

 夢から覚めた瞬間は、穏やかな気持ちだった。しかも彼が起きるのを待っていたかのようにアランが目を覚ました。長い間臣下だった彼は、久しぶりに“兄”に戻ってセイの髪を撫でていたのだ。


「──姉上と間違えるな。愚か者」


 気恥ずかしいのと、罪悪感と、……嬉しさで。こちらもついひねくれた言い方をして──あれは甘えたといえるのだろうか。主君と側近としての壁はそこに無かった。幼馴染としての、柔らかな距離だけ。


「間違えてなんかいませんよ」


 アランのこれほど無防備な笑顔は、いつぶりだろう。

 最年少で騎士団の分隊長になり、王子の近衛騎士兼補佐官としてその剣を揮ってきた彼。簡単にのし上がれるわけが無い。周りのやっかみや妨害、圧力にも負けることなく、明るくて軽くて調子のいいことばかりを言う外面を装って、その激務と本心を押し隠してきたはずだ。姉のことだって──。


「……少しは、頼ってくれてもいいものを」


『俺が愛を捧げてるのはあの方ですけど、大事なのは唯一の主であるあなたなんですよ。俺の命はあなたのもので、こういう時に使わないでいつ使うんスか!』

『同期の誰よりも早く近衛騎士になって、あなたにお仕えしたかった。あなたが王になるのを、一番傍で見届けると誓いましたから』


 アランの言葉一つ一つが、決して軽いものではないと知っていた。けれど自分の行動が、あんなにも彼を追い詰めていたことなど、気づかなかった。

 王子として前ばかり見て、隣を信頼し過ぎていた。何をしても支持してくれると甘えていた──実際にアランはそうしてきてくれたが、それと彼自身の気持ちは別なのだ。


 けれどそれを悔やむのは違う。大事なのは、そうやって自分を大切に思ってくれる人がいることを自覚した上で行動することだ。自分に責任を持つというのは、そういうこと。それを教えてくれたのは彼女だ。


「ラセイン様。ディアナさんと夢で逢いましたか?」


 大分回復し、シーファとリティアを迎えに行く船の準備をしながら、ふとアランは主君に尋ねる。


「ああ。お前も?」

「俺の方にはイールさんですよ。夢に出てくれるなら可愛い女の子の方が良いって言ったら、早く起きろってくちばしでつっ突かれました」


 クスクス笑う従者に、セイも微笑む。

 ディアナのおかげで、余計なことを考えずに済んだのだ。あの少女は夢の中にまで追ってきてくれた。抱き締めてくれた。彼女に弱音を吐いて、涙を見せてしまったのは不覚ではあったが──それほどまでにセイの心に触れてくれる少女が愛しかった。


「セインティアに戻ったら、ディアナを迎えに行く。彼女が、そう望んでくれたから」


 主の言葉に、アランは目を見開いた。


「……やりましたね、ラセイン様。泣き落としたんですか?」

「……まあ、ある意味」


 この従者の、僕に対する評価ってどうなんだ、と疑問に思わずにはいられなかったが。


「さあ、銀の魔導士とその弟子を迎えに行こう」


 そして、セインティアに凱旋したならその後は。

 強く美しい、優しくて可愛い、愛おしい月の女神を得るのだ。妻として。唯一の伴侶として──。




 青の王子が騎士団を連れて小さな島へ到着した時には、銀の大魔導士シーファとその弟子リティアは見事に海竜を浄化していた。多少の犠牲はあったものの、二人は無事でいたし、


「あんなもの、楽勝で当然だ。私は大魔導士なのだからな。お人好しの馬鹿弟子が魔物ホイホイのごとく、妙な奴らに好かれたりしなければな」

「お師匠様、自慢ですか。それとも嫌味ですか」

「労働の対価が欲しい。ちょっとキスさせろ」

「っ!それ魔法じゃないですよね!!ちょっとした変態発言ですからね!」


 と、師匠が弟子にちょっかいをかけるなど、平和そのものの光景に、騎士達に「迎えに来るんじゃなかった。爆発しろ」と言わしめたとか。

 彼らはそのまま船でセインティア王国フォルディアス城へと帰路についた。

 それをアディリス王国リルフェン支部に自らラセイン王子が通信装置によって報告し、その際には月の女神との短いやり取りがあったようだが、公式記録はされていない。

 その場に居たすべての人間が顔を赤くし、気まずげに咳払いし、独身者に至っては壁に頭を打ち付ける事態となったため、意図的に記録されなかったものと思われる。


リルフェンの転移魔法はキルティカから漂流した騎士団の中に居た魔導師が担当することになった。アディリス王国の兵士もリルフェンの港の復興に力を入れ、両国の協力によって魔物の脅威は海の果てに去った。




「ディアナ嬢、ここにいらっしゃいましたか」


 ラクロアは王子側との通信を終えて、羞恥に頬を染めて逃げるように隠れてしまった女神を捜していた。

 彼女は支部の見張り台として使用されている塔にいた。ラクロアを見て申し訳なさそうに応える。


「ラクロアさん」

「そんなに恥ずかしがらずとも。我が君があなたを大切に想っているのは皆が良く存じておりますから」


 とはいえ、本国では冷静沈着な世継ぎの王子が、満点満開の美しい微笑みで、やれ好きだの愛してるだの可愛いだの早く逢いたいだの、しまいには衆人環視の中で女神に鏡越しに口づけをねだった時には、その場にいた全員が本気で逃げ出したくなった。ちなみにそこで実際に女神は逃げた。

 横で聞いていた保護者ディオリオは鏡を叩き割ろうとして、他の騎士に取り押さえられ、イールは「キラキラ攻撃力高すぎる!」と呆れて出て行った。

 鏡の向こう側でもちょっとした混沌状態が巻き起こっていたようで、王子の側近は悶えていた若い騎士に「鍛え方が足りないよ」などと平然と微笑んでいた。「こんなのどうやって鍛えるんスか!」と半泣きの騎士の気持ちには多いに同意する。前から感じていたが、アランはちょっとおかしい。ラクロアは遠い目でそう評した。

 銀の髪の魔導士は呆れた顔で「……ストッパー外れたな。ああいうタイプが実は一番やっかいなんだ」と冷静に頷いていた。ちなみにその場に弟子の少女は居なかった。王子の全開垂れ流しの色気に当てられないよう師匠が立ち会いを禁じたようだった。実は一番あいつが常識人かもしれない。



「っ、何だか色々、ごめんなさい……!」

「いやだな、あなたが謝ることでは。さあ、ここは冷えますから、戻りましょう」


 促せばディアナは素直に着いてきてくれた。塔の階段を下りながら、少女がラクロアへと問う。


「転移魔法陣が直ったら、ラクロアさん達はセインティア王国へ戻るんですよね?」

「ええ。私達はもともとキルティカ支部の騎士ですから」


 正直、ディアナと離れるのは名残惜しい。が、主はすぐに彼女をセインティアに迎えることだろう──ただしそれは、彼女がもう二度と手の届かない存在になることと同義だが。

 微かな胸の痛みに気づかないふりをして、ラクロアは女神へと微笑みかけた。



「では、おやすみなさい」

「はい。ありがとう、ラクロアさん。おやすみなさい」


 ディアナとディオリオはここの支部の客室を借りている。部屋の前まで送って、ラクロアは自分にあてがわれている部屋へと向かった。部屋に入り、鎧を外したところで、ぎくりと肩をこわばらせる。

 自分だけだと思っていた部屋に、誰かが居たのだ。


「誰だ……!」


 窓の傍に、ひっそりと立つローブの人物は、ラクロアが気づき警戒態勢を取ると、そっと顔を上げる。金色の瞳に走る虹彩は人のものではない。端正な線の細い顔立ちと、尖った耳はエルフだ。


「お前は、月の女神を欲しくないか」


 彼は押し殺した声で言う。けれど焦がれるような、切なさを秘めた声で。


「ディアナを欲しくないか。青の王子ではなく、自分の腕に抱き締めたいと思わないか?お前は彼女に好意をもっているだろう?」


 ラクロアは剣を抜き放って構えた。エルフの言葉に首を横に振る。


「思わぬ。私は青の聖国の騎士だ。ラセイン王子に忠誠を誓う者だ。月の女神は我が主がなによりも想う方。我らは王子の伴侶たるあの方をお守りするだけだ」


 どんなに想っても。それは間違えたりはしない。

 ラクロアにとっては、自分のほのかな恋心よりも、聖国の騎士である誇りの方が大事なのだ。

 ディアナは確かに好ましい。けれど、それ以上にラセイン王子は絶対的な主で、彼から何かを奪うなどあってはならない。


「世界一の結束を誇る騎士団、か……。あの王子が慕われているのは見た目だけではないということか」


 無礼なエルフの言葉に、ラクロアは怒りを込めて彼を睨みつける。


「我ら騎士団は最終試験の際に希望を出す。王の騎士になるか、王子の騎士になるか。私は自らラセイン様を選んだのだ。あの方の作る王国を見たくて。その忠誠は永遠に変わらない」


 アランだけではないのだ。セイを尊敬し、支えたいと考える者はセインティア王国にはそれこそ星の数ほど居る。


「ただ首輪で繋がれたお前のようなものには分からぬよ、ドフェーロのアレイル」


 正体を知られてアレイルは苦笑いした。


「操心の魔族はセインティアの民は操りにくいと言っていたが……本当のようだな。俺のことまで知っているとは」

「ラセイン様は、ご自分がいらっしゃらない間に、お前たちやドフェーロの皇帝がディアナ様に手を出すことをなにより警戒しておられた。ここに居る間はディオリオ殿と私で彼女を護るようにと仰せつかっている」


 セイはどこまでも用意周到だった。何重にもディアナに守護を張り巡らせ、離れていても彼女にそうと気付かれないまま護り通そうとしている。魔族や侵略者からは騎士と保護者、守護魔法で。彼女に懸想する悪い虫には、あからさまな愛情表現を見せつけて。

“青の聖国の世継ぎの王子が何よりも大事にする女性”と周囲に知らしめた。


 王子の側近であるアランも同様に、ディアナに対して敬意を払い、彼女にはすべてを許している。セイの助長したベタ甘な態度を、全く止めること無く静観してるのが良い証拠だ。

“ディアナは王子の寵を受けて当然の存在なのだ”と。


 その二人の対応を見て、王子に忠誠を誓う者たちは、もう既にディアナ自身を主として認めている。同様にラクロアにとって、ディアナはもう恋を告げる娘ではなく、慕うべき主だ。


「お前の罠にはかからぬよ、アレイル。私が女神を欲して王子に牙を向くとでも思ったなら、完全にお前の見込み違いだ」

「そのようだな」


 アレイルは深く息を吐いた。辛そうに細められた瞳に、ラクロアはいぶかしげに問う。


「お前……ここに来たのは皇帝の命ではないのか?彼女を欲するのはお前自身の望みなのか」


 問われたハーフエルフは苦々しく微笑んだ。


「俺だって彼女が欲しい。けれど俺がディアナをドフェーロに連れて行けば、皇帝陛下はディアナを壊してしまう。わからないんだ、どうしていいか──」


 彼の戸惑いにラクロアは目を見開いた。アレイルは、迷っている。


「アレイル。お前はドフェーロではない、新しい場所で生きるべきではないのか。皇帝の首輪はお前には苦痛のように見えるが」


 騎士の言葉にアレイルは戸惑うように視線を揺らした。


「そう、できたらどんなに……でも俺は、リエイルを置いて行けない」


 彼が窓を開け、入り込んだ風に大きくカーテンが揺らめいた。一瞬ラクロアの視界を奪ったそれに手をかければ、アレイルはもうそこには居なかった。

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