夢の中の逢瀬
刻一刻と過ぎていく時間はいつもより妙に長く感じて。作戦会議室で面々は重い息を吐く。ラクロアはディオリオと今後の戦術について話し合いながら、月の女神の厳しい表情を思い浮かべていた。
ディアナはひとり、通信装置の前にいた。キルティカ側の状況は分からない。いつ通信が繋がるのかも分からない。何時間待ったのだろう。それでもここに居たかった。一番に、彼の声の聴ける場所に。
「どうか。アランさんを助けて……」
シーファという、セイの友人の大魔導士も海に消えたままだ。アランの様子では彼の安否も定かではない。恋人だという、あの魔導士見習いの少女がどれだけ胸を痛めているかと思うと、やるせない。
“パアッ──”
不意に鏡の表面が光輝いた。ディアナはハッと顔を上げる。そこに映ったセイの姿に、息を吞んだ。
「セイ……」
『ディアナ。そこに、居てくれたんですね』
虚ろな瞳で、何とか彼女を捉えたセイが溜息混じりに言う。
『アランは、危険な状態です。今も銀の魔導士の弟子が治癒魔法を掛け続けてくれています』
淡々と告げる彼だが、その瞳は酷く傷ついたように打ち拉がれていて──微妙に、逸らされた視線。鏡に身を寄せるディアナとは一線を引くように、一歩離れたまま動かない。
「セイ?」
『僕は』
彼がよろめくように下がった。額を押さえた片手がその表情を隠し、乱暴にぐしゃりと金色の前髪を乱す。
『僕は、自分の立場をもっと考えるべきだった』
囁くように、微かな声で呟かれた言葉に。ディアナは目を見開いた。
「セイ!ねえ、聴いて!」
『僕は……』
彼の視線が装置に向けられて、ディアナはセイによって通信が切られそうになっていることに気付く。
「駄目!お願い、待ってセイ──!」
ふつっと。唐突に映像は途絶え、鏡に映るのは自分の姿。切られてしまった通信装置の前で、ディアナは拳を叩き付ける。
今、彼を独りにしては駄目だ。酷く傷ついて、自分を責めている。なのにディアナに弱みを見せようとしない。このままでは、壊れてしまう。
「セイ……!!」
今すぐに彼の傍に行きたい。彼を抱き締めたい。そう思うのに、身体はここから動けない。強く強く握りしめた拳を照らすように、胸元の紫水晶が輝いた。
「……っ、これって」
「ディアナ」
いつの間にか部屋へと入ってきたイールが彼女の肩へ降り立った。
「ボクとその紫水晶の力で、夢の中なら、キミを送ってあげられる。少しの間だけだけど」
広げた翼の白さに、ディアナは目を閉じる。心のままに叫んだ。
「何でもいい!何でもいいから!セイに、逢わせて」
暗闇の中。ラセインはゆるりと顔を上げる。
独りきり、何も頼れない。右腕と信頼してきたアランも居ない。
自分の立場を見誤って、かけがえの無い側近の命を失いかけて。大切な友人は生死すら定かではない。彼らが王子である自分を護ろうとすることなど、分かっていたのに。
「僕のせいだ」
その場に膝をついて、両手で顔を覆う。
もし彼らが死んだら、どう償えばいい?彼らを失って、どんな顔をして民の前に、姉の前に立てばいい?──できるわけがない。
王太子として、次期王として、家臣を失う覚悟は少なからずしてきた。けれどそうならないために強くあろうとしてきたはずなのに。自分が護ろうとしたものが、自分を護って死ぬなどと。受け入れられるわけもない。
「──ひとりで苦しまないで」
ふわりと、自分を抱き締めた腕に、セイは目を見開いた。
「ディアナ……?」
恐る恐る両手をどかせば、そこにいるのは確かに愛おしい月の女神で。彼を見つめる紫水晶の瞳が気遣わしげに揺れていた。
「どうしてあなたが……夢?」
「そう。イールが送ってくれたの。これはあなたと、私の夢」
ディアナは自分の胸にセイを引き寄せて、その頭を抱え込む。
「あなた独りで苦しまないで。私の弱音は聞いたくせに、自分の苦しみは隠してしまうの?」
セイを抱き締めたディアナはそう言って彼の髪を優しく撫でた。その感触に彼は箍が外れる。張りつめた糸が切れるように。セイは思わず彼女の背中に腕を回して、細い身体を引き寄せて強く掻き抱いた。
「僕が、もっと考えていたら……!」
「あなたは最善を尽くしてる。あなたのせいじゃない。誰のせいでもないわ」
ディアナの肩に顔を埋めた彼が微かに震えているのを感じて、少女は愛おしさを込めて囁く。
「アランさんが、私のせいじゃないって言ってくれたの。だからあなたのせいでもない。それにあなたの友人は大魔導士なんでしょう?大丈夫、きっと海竜なんかにやられてはいないわ。私達に出来るのは、信じてただ祈るだけ」
彼らの無事を信じて、祈って、そして。
「アランさんが目を覚ましたら、シーファさんが戻ったら。セイを護ってくれてありがとうって、伝えるわ」
「ディアナ……」
「だから、信じて。皆を……私を」
セイのアクアマリンの瞳からひとすじ伝った涙を、指を伸ばして拭った。彼も同じように、いつの間にか溢れていたディアナの涙に触れる。
「愛してる、ディアナ。あなたはやっぱり、僕を導く月の女神だ」
苦しげな光は消えることはなかったけれど。それでもセイは微かに微笑んだ。
「あなたが私を導いてくれたからよ」
それを見て、ディアナもまた微笑み返す。
「夢じゃなくて、今度は現実で逢いましょう。あなたはあなたの為すべきことをしてきて。私はいつまでも待っているから」
そう言ってから、セイの頬に両手をあてて──自分からキスをした。
「もうあなたの隣に立つ覚悟はできたから。私を迎えにきて、ラセイン王子。あなたの近衛騎士と共に」
アクアマリンの瞳が見開かれた後に──わずかに赤く染まる目元で、しっかりと頷くのを見届けて。
近づく彼の唇に、月の女神はもう一度、瞳を閉じた。
**
セインティアの王宮にその知らせが届いた時、王女セアライリアは自室に居た。
『報告します。ラセイン王子一行はキルティカにて双竜と戦闘。銀の魔導士シーファが負傷し行方不明、近衛騎士アラン・フォルニールが海竜の牙を受け重体。アルティスの秘石の器リティアは魔力を暴走しかけています』
王族だけに聴こえる声で、精霊が知らせた内容に、セアラは手元のカップを滑り落とした。陶器が砕ける音に、女官が慌てて駆け寄る。
「姫様!どうなさいました」
「アラン……」
いま、何と言った。
「もう一度、報告なさい!アランがどうしたと!?」
中空の精霊に向かって命じれば、天井に微かな風が巻き起こった。
『フォルニールはラセイン王子を庇って海竜の牙に腹を貫かれました。姫様の治癒魔法石を発動させましたが、依然として危篤状態です。生存は、絶望的かと』
今度は周りにも聴こえる声だった。女官達が悲鳴を上げる。
ひっ、と息を吞んだのは、無意識だった。心臓がぎゅうっと掴まれたかのような痛みと、震え出す指先が自分のものではないようで。それを押し込めるように、セアラはそのまま部屋を飛び出そうとする。
「お待ち下さい!セアラ様!誰か!」
女官が慌てて衛兵を呼んだ。
行かなくては。きっと治癒魔法が、わたくしの魔法が要る。シーファが行方不明だと言った。リティアが暴走寸前とも聴こえた。彼に代わるほどの力を持つ者など他に居ない。早くしなくては、アランが死んでしまう──。
「セアラ様!落ち着いてくださいませ!なりません!」
「離して!離しなさい──!退いて!」
命じたはずの声は悲鳴にしか聞こえなかった。扇を握りしめる指先が真っ白になる。
「そんなの駄目よ、死んだら許さないわ、アラン──!」
自分を取り押さえようとする衛兵に、杖代わりの扇を一閃し、呪文も唱えずに魔法の壁を放った。
彼女は第一級魔導師だ。本気になった姫君を衛兵如きが取り押さえることなど到底出来ない。
「我は月の騎士の娘、魔導の光満つる聖国の王女。我が為に開け転移の門──」
定まらない転移魔法がどれほど危険かも忘れ、その呪文を唱えかけて──
「申し訳ありません、セアライリア王女殿下」
低く唸るような声と共に、身体に衝撃が走って意識が遠のく。
「何、を──」
王の魔法兵団によって、眠りの魔法を掛けられたのだと気付いた時には、王女の意識は沈んでいた。
「セアラ姫」
優しい声に、セアラはふとあたりを見回す。ゆらゆらと水の中を漂うような世界。
「これは夢、なの?」
「ええ。あなたの声が聴こえて、寄り道してしまいました」
いつの間にか目の前で微笑んでいるのは、真っ白なローブに身を包んだ、黒髪に紫水晶の瞳をした青年だった。柔らかなまなざしは、月の女神に重なって。
「クレス……?」
彼は頷いて、セアラへと口を開く。
「大丈夫です、セアラ姫。アランは命を取り留めます。あなたが彼に渡した魔法石が死を遅らせ、大魔導士の弟子の治癒魔法が間に合った。彼は大丈夫」
彼らが出発する前に、セアラはアランに自分の治癒魔法を閉じ込めた魔法石を渡していた。お護りのつもりで。そして確かにあの瞬間だけは、彼らはお互いの距離を一歩踏み越えようとしていた。
『無事に帰ったら、望みを一つだけ聞いて頂けますか』
そう言った騎士に、激励のつもりで答えた。
『ごめんですわ。アラン、そういうの世間で何ていうかご存知?死亡フラグ、ですわ。“それが彼の最期の言葉だった”ってやつよ。わたくし、そんなのはごめんですわ』
ひねくれた言葉の裏は、無事で帰って来いと。さもなければそんな願いなど知らぬと。弟王子にその忠誠を誓った近衛騎士を、受け入れずに拒まずに応えるのは難しくて。けれど、その身の無事を願わずにはいられなくて。
『あなたが全力で護ってくれるでしょう。──信じているわ』
『誓います。この身に代えても、あなたの弟君を護り抜くと。──そして、ここへ帰ると』
死亡フラグなんて、ポッキリ折ってみせますよ、と笑った彼の顔が、今でも鮮明に思い出せる。
「馬鹿アラン……やっぱり死亡フラグじゃないの。ほらみなさい……」
「泣かないで、セアライリア。アランはちゃんと約束を守る。ラセイン王子を護って、あなたの元へ帰ってくるよ」
微笑むクレスに、思わず気が抜けて。セアラはその場に崩れ落ちそうになる。それを抱きとめて、彼は姫君の顔を覗き込んだ。
「イールがあなたを心配している。あなたは近衛騎士との未来を諦めているようだけれど、本当にそれでいいの?今、彼を失いかけてどう思った?」
「それは!」
今まで近衛騎士が命の危険に晒されることなど、何度もあった。けれどいつだって帰って来ると思い込んで──曖昧な関係に甘えていた。魔導師である自分が、魔法感知能力のある彼の傍にいることが、少なからず負担になることも、気にしていた。
けれど今。本当に彼を喪いかけて──無くしたくないと。なりふり構わずに、彼の元へ行きたいと、思いはしなかったか。その顔を、その声を、失いたくないと願わなかったか。
「わたくし、は」
「イールから伝言。『そろそろ素直にならないと、損するよキラキラお姫様』……イールがディアナ以外をこんなに気にかけることなんてないんだよ?」
クレスは悪戯めいた微笑みで、セアラに手を差し伸べる。その姿に、白い鳥が重なった。
「聖国の金の薔薇、誇り高き美しき王女。でも心優しい、僕とイールの共犯者殿。僕達は一人の女性としての、あなたの幸せを願ってる」
その優しい不思議なまなざしは、確かに彼の妹に良く似ていた──。




