金色の夜
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アディリス王国とドフェーロ皇国との間で戦が起きた7年前。
父である前皇帝が隣国への侵略に躍起になっている影で、当時19歳だった皇太子ゲオルグは密かに魔術の研究を行っていた。
物心ついた頃から、愚かしい父から皇帝位を簒奪することを計画し、世界を統べる力に焦がれ、拾ったハーフエルフの兄弟を己の手足として使って来た彼は、大国との戦に崩れた皇帝の隙を見逃さなかった。捕らえた魔族と精霊から月の一族について聞き出し、リエイルに指輪の力を奪わせ一族を根絶やしにして、その魔力で父を殺した。
ムーンストーンの指輪以外に女神の力を継ぐ娘が居ると知ったのは、皇帝位についた後のこと。
そして。殺し損ねた月の一族の娘は、手元にある指輪など霞むような煌めく力を持っていたのだ。
その姿を一目見て、欲しいと思った。力そのものも、女神たる娘も。
アレイルが焦がれた目で彼女を見るたびに、リエイルが苛立たしげに彼女を見るたびに。あの青の騎士の末裔が愛おしげに彼女を見るたびに。
「すべて、奪ってやる。あの女神は私のものだ。これがある限り、いつかあの娘はこの腕に堕ちる」
転移魔法の煌めきが消えたドフェーロの城──その玉座で。月長石の指輪を見つめて、皇帝は昏い笑みを浮かべていた。
*
ドフェーロから女神を奪還した次の日の夕刻、アディリス王城からセレーネの森の家に帰ってきた二人は、ディアナの部屋にいた。ジェイドからはディアナの身体には儀式の後遺症はないと診察されている。けれどセイは彼女に休むようにと告げて、温かいミルクを持ってきてくれた。
「ありがとう」
寝台に座ってそれを受け取って口を付けると、温かさと落とされた甘い蜂蜜の香りにほっと息を吐く。イールは精霊達の様子を見に森へと飛んで行った。今日はもうそちらにかかりっきりだろう。
「大丈夫ですか?」
隣に座って彼女を覗き込むセイはいつもの彼だ。けれどディアナはその瞳を見つめた。磨いたアクアマリンの水色。金色の光はない。
「セイは大丈夫なの?」
聞き返した彼女に、王子はもちろん、と頷いた。精霊との融合は負担がないわけではなかったが、それを心配している少女の前で晒すなど男としてあり得ない。それに今は、少しでも彼女の気落ちを減らしたかった。
「セイはまた、セインティアに戻らなくちゃならないのよね」
カップをサイドテーブルに置いて、ディアナはポツリと呟く。
彼の国での騒動は未だに進行中だ。世継ぎの王子なら少しでもそちらから離れてはいけなかったはずだ──けれど。珍しく漏れた心細げな声を、セイはしっかりと拾った。
「今夜は傍に居ますよ」
細い肩を引き寄せると、彼女は動揺も抗いもせずに彼に身を任せて寄りかかる。少女がふとセイを見上げて、その金色の髪に触れて口を開いた。
「私ね……両親を殺し、兄を死なせたリエイルが憎かった。皇帝の言いなりになるアレイルを悔しいと思った。でも……皇帝は、怖かった」
思い出すと、未だに指先が震える。セイは彼女と目を合わせて、それを聞いていた。
「あの人が怖い。力も、言葉も届かない。暴走したときと同じように、暗闇に引きずり込まれそうだった。あの人に触れられたのが、吐きそうなほど気持ち悪くて」
ディアナはぎゅ、と瞳を閉じる。
「でもね、セイが私を呼んでくれた。来てくれた。抱き締めてくれたでしょう?それが、とても嬉しかったの。光の中に引き上げられた気がして、あたたかくて、愛おしくて」
頬に触れた指先に、ディアナは目を開けた。アクアマリンの瞳が柔らかく少女に笑んでいる。それに勇気付けられて、言葉を継いだ。
「セイだけなの、私にこんな気持ちをくれるのは。私にはあなただけ。でも、あなたは?……アレイルにはセイが王族なら、跡継ぎの為に側妃や愛妾を迎えるかもしれないと言われたわ」
「あり得ません。僕はあなただけを愛している。あなた以外は要らない。セインティアの王は生涯ただ一人を愛し続けます。僕が伴侶に望むのはあなた一人だ、他の誰も傍に置かない」
セイの瞳は一つの陰りも偽りも無いまま、ディアナへとまっすぐ注がれる。
「僕にとってあなたは“一番”ではなくて、“唯一”だ」
視線を逸らすことなくきっぱりと言い切った彼に、少女は息を吐いた。
ああやはり、知っておくべきだった。聞いて良かった。セイはちゃんと答えてくれる。
「私の全てはあなたのもの、あなたの全ては私のもの。そう言ってくれたわよね?」
指に絡めた金色の光を追って、首の後ろでそれを束ねる紫色の髪紐が目に入った。いつもはセインティアの青だったそれが、いつの間にか変わっていることに気付く──ディアナの、瞳の色に。
「もう一度離れる前に、証が欲しい。それに、私もあなたに証したいの」
恐れでは無い、少女の震える声に。
見開かれた瞳は一瞬──すぐにそのアクアマリンが熱に染まった。
「……いくらでも。この身に誓います」
愛している、と。重なった唇はどちらからだったのか。何度も触れるうちにもう分からなくなった。
ディアナの手を掴んだまま、紫色の紐をセイの長い指が引き抜き、それは彼女の指に絡み付いたまま残る。そこに落とされたキスは、手首、腕、肩、とディアナの身体を辿って。首筋を滑って唇へ戻ってきた。
そこから深く深く、分け与えられる熱。それに優しく追われて、ゆっくりとその身体が寝台に沈む。
「愛してる、ディアナ。僕の月の女神」
いつもの台詞が、いつもより熱さと切なさをもって響いて。
「愛してるわ、セイ。私の王子様」
いつもなら恥ずかしくて口に出来ないような言葉まで、引き出してしまう。
いつの間にか日が沈んだ部屋は灯りをつけないままだったが、窓から差し込む十六夜の濃い月に照らされて、いつもより明るく。
自分に降り掛かる金色の光を、ディアナは微笑んで抱き締めた。
セイがふと目を覚ますと未だ深い夜のうちで。月光に照らされた自分の金色の髪と、彼女の栗色の髪が混じるように落ちているのが見えた。瞬きをして視線を下にずらせば、胸の中に愛おしい少女が眠っている。
自分の腕がしっかりと彼女を抱き締めているのを自覚して、眠っていてもなお離せないのだなと己に苦笑した。
指先でその白い肌を確かめる。滑らかで柔らかくて温かい。先ほどまでもっと強く触れていたのに、つい壊れ物の様にそっと扱ってしまう。
長い睫毛の下の紫色の瞳が見えないのは残念だが、せっかく眠っているならこのまま休ませてあげたかった。
悪戯心を起こして、背中から腰の曲線を辿って手を伸ばしても、彼女は目覚めない。珍しい。彼もだが、少女もまた剣士であるが故に誰かの傍で熟睡することはほとんど無い。
──信頼されていると、思って良いのかな。
そんなことを思って、そうでなければこんな華奢で可憐な少女が、身を任せてくれるはずがないと思い微笑んだ。
こうして彼女を腕の中に捕らえることは、彼の願望でもあったが──躊躇いでもあった。
ただでさえ離れがたいのだ。抱いてしまえばもう、彼女を置いて城に戻ることなどできそうになかった。けれど今の王宮は問題が多すぎる。ディアナは強い娘だが、同時に脆い。剣を取り戦う姿は誰よりも勇ましいが、向けられた悪意や欲望を真正面から受け止めようとして傷つく。
女神の暴走に震える姿、どこまでも強い闇に怯える姿、何よりも彼女自身がそれに負けそうになって打ち拉がれる姿を、もう見たくなかった。
彼女を迎える為には、本来の美しく魔法の生きるセインティア王国に戻さなければ。
ディアナのためだけではない。自分を信頼してくれる姉姫、家臣、友人、民、精霊……王子の立場で護れるもの全て。
「あなたが教えてくれたんだ、ディアナ」
僕なら出来ると。送り出す為に、証を残してくれた。
目を落として、自分の胸元につけられた痕に言いようもない高揚を覚える。おそらく首筋にも。彼女に強請ってつけてもらったものだ。言わずもがな、セイからは彼女にその倍以上の痕を残した。
「これが消える前に、戻りますから。待っていて下さいね」
彼女の首筋に残るそれに口付けると、さすがにディアナは目を覚ましてしまったらしい。
「……ん、セイ……?」
寝ぼけ眼でぼうっと彼を見つめてから、見る見るうちに羞恥に真っ赤に染まってゆく。
「あ、あの、私」
「はい。まだ夜中ですから、眠って。眠れないなら、もう一度疲れさせて差し上げます」
「!」
パクパクと声にならない声で慌てる、少女の可愛らしいその顔をたっぷり堪能して。セイは弾けるような笑顔で、女神にもう一度キスをした。
次の朝早く、青の王子は名残惜しそうに、女神の元を離れることを告げた。
「王子としての務めを果たしてきます。──全て片付けて、必ず戻りますから」
絡めた指先にキスと共に落とされた、穏やかだけれどどこか乞い願うような声音に、ディアナは彼の気持ちを悟る。
「ええ、ここで待ってる。約束するわ」
だから、必ず。ここに帰ってきて。
彼女の言葉が口から溢れるよりも先に、セイの唇がそれを受け止めて。
そしてそれは、恋人達にとって長い別れとなった。
──彼の密かな誓いは、守られることなく。
女神に残された赤い痕が消えてもなお、彼は彼女の元へ戻ることは出来なかったのだ──。
第四章:「奪われた女神」end.




