失ったもの、捨てたもの
「……聖国の王子」
皇帝が苦々しく声を掛ける。セイはディアナを片腕に抱いたまま、彼へと向き直った。
「誰が聖国の王子だと?ちゃんと王子はセインティアに居る。監視させていたのだろう?」
──ドフェーロ皇国の精霊はセインティア王国を監視していた。ラセイン王子は今も公務中で、国からは一歩も出ていないと、今この瞬間も告げている。もちろんそれは、セイも知っていてわざと見張らせていたのだが。
「どういうこと?」
ディアナの小さな問いに、セイは耳元でこっそり種明かしをした。
「キルスです。僕の物真似が得意のようですから」
セインティア王国で王子として監視されているのはラセイン王子の従兄弟なのだと。しかし皇帝もそれはすぐに思い当たったようだ。
「ふ、影武者か。まさか精霊と融合して単身で乗り込んでくるとはな。それで?公式には“ドフェーロ皇国にラセイン王子は居ない”ことになっているなら、ここでお前を殺しても、私は誰にも咎められないということだな」
「できるものなら。──けれど言っておくが、これこそがフォルレインの真の力だ」
フォルレインの姿をした王子はふ、と不敵に笑う。
精霊と人との融合で、その能力を飛躍的に高める秘技。フォルレインの歴代の持ち主の中でも、使えたものはほとんど居ない。が、難しいからこそその力は絶大だ。
「月の女神を地に落とそうとした愚かな皇帝。その命で償うが良い」
セイの口調が違うのは──形式だけとはいえ姿を偽っているためか、敬語を使うような相手ではないと判断したのか。おそらく後者だろう。セイは本気で怒っている。今までに無いほど。
──私の暴走より、本当に聖国王子の魔王降臨を心配した方がいいのかも。
ディアナはふとそんなことを考えてしまって、身震いした。
「陛下、ここは我らが」
アレイルが手を伸ばして皇帝を庇う。それを見てリエイルは鳥籠に向かって走り、気付いたディアナが叫んだ。
「止めてっ」
“バシュッ!”
「ぐぁっ!」
セイが退魔の剣から稲妻を発生させてハーフエルフを撃つ。リエイルはイールに届かず床に崩れ落ちた。
「卑怯な真似は感心しないな」
彼の冷たい視線に射竦められ、リエイルは床から悔しげに呻く。アレイルがその手に水球を発生させた。彼がそれを撃ち込む前に、セイが剣を構えた。それを見た精霊は、金色に水色の光が混じり始めた不思議な色の瞳に、怖れを抱いて動けなくなる。セイはその色をアレイルの背後の男へと向けた。
「ドフェーロの皇帝。お前がセインティア王国を引っ掻き回すのは──母君の復讐のつもりか」
セイの言葉は、ディアナの知らない事情だった。戸惑いながら問いかける。
「皇帝の、母君?」
セイは頷いてディアナへと視線を向けた。
「ドフェーロの前王妃、ライアフィリナ様はセインティア王の妹──僕の叔母です」
「ええっ!?」
ということは。
驚愕にディアナは思わず皇帝を見てしまう。セイと見比べてその相似を探す。
「そう、彼と僕は父方の従兄弟同士なんですよ」
「そ、そんな」
血縁同士だというのに、争っていたのか。母方の従兄弟キルスウェルとの関係性とは全く違う。
「ディアナ、覚えていますか?話しましたよね、我が国は王以外の王族の政略結婚を繰り返してきたと」
青の聖国の王子は、苦しそうに眉根を寄せた。
「叔母上、ライアフィリナ様は幼いうちに政略結婚によってドフェーロに嫁いだ。そして息子を産み……心を病んで──亡くなりました」
彼の言葉に息を吞む。それに答えたのは皇帝だった。
「我が父は残虐な王でな。他国から人質の様に嫁いできた妻に愛情を注ぐことはなかった。跡継ぎを産ませたらもう用無しで、自分は愛人のもとを渡り歩いていた。一方で母は王の寵愛も受けられず、民の怒りと恨みを王妃としてその身に受け続け──気が触れたのだ」
「事情を知った父上は何度も妹姫を取り戻そうとしていましたが……間に合わなかった。ドフェーロ皇帝よ、お前の恨みはそこに向いているのではないのか」
“セインティア王の一目惚れ”の犠牲になった姫君の復讐。魂の伴侶たる女神を奪うことで、セインティアの王位継承者を害するため。
セイの問いに、皇帝は喉を震わせた──笑っている。
「愚かなことを。私はそんなことはどうでも良い。母は弱い人だったというだけだ。それ以上に父は愚かだったがな。私はただ欲しいだけだ。全てを手にする力を──月の女神を」
肉親の情などはないと。血みどろ皇帝は言い放った。彼の表情にはどこにも苦しみなどはない。むしろ嘲笑うかのように。そうして皇帝はディアナを見つめた。昏く赤い光に少女は気圧されそうになって、それでも気丈に睨み返す。
もう怖くはない。セイがいる。どんな事情があろうと、何も出来ないまま皇帝の思い通りになどならない。しかし、血の繋がりがある彼らを争わせても良いのだろうか。それくらいなら、私が──
戦おうとする彼女の意志を感じ取ったのか、彼は笑い出した。
「は!ますます気に入ったよ、月の女神。アレイルが欲しがるわけだ」
皇帝の言葉に、彼を支えていたハーフエルフが顔を上げた。ディアナに縋るような視線を向けるが、厳しい表情をした青の王子によって彼女はその背に隠されてしまう。
「ディアナを欺いたお前には、彼女の視線一つやるつもりはない」
セイは退魔の剣を握り直した。
「聖国への恨みだというなら僕もセインティアの次期王として責任がある。けれど、そうではないなら遠慮は要らないな。どちらにしろディアナを傷つけることは許さない」
『我が主と我から女神を奪うものは許さぬ。その身に触れることすら大罪だ。なにせ我らは嫉妬深い』
王子の声に混じるように、ディアナにはフォルレインの声が聴こえる。
いまや金色と水色が完全に混じり合った精霊の瞳が、氷のように冷ややかに彼らを見下ろした。怒りの波動が渦を巻き、その剣が強く輝くのを見て、アレイルが気圧されたように一歩下がる。
「ディアナを苦しめる者など、生かしておく気はない!」
「セイ……」
ディアナは自分を護ろうとするセイの背中を見つめた。
本気で、青の王子は皇帝を殺すつもりだ。ディアナの為に、従兄弟である彼を。
「待って、セイ──」
「いいや、賢明だ。私は生きている限り、女神を求め続ける」
向けられているのは並々ならぬ殺気だというのに、皇帝は愉し気に口の端をつり上げた。
「──っ」
セイが薙いだ剣から、赤い稲妻が彼に向かって放たれる──
「陛下っ──「転移──」」
アレイルとリエイルの切羽詰まった声と共に、二人が声を揃えて呪文を唱えた──。
光の残滓が消えた時、そこに残ったのはセイとディアナ、鳥籠の中に眠るイールだけだった。
「……逃がして、しまいましたね。すみません」
唇を噛むセイがポツリと呟く。ディアナはそんな彼を抱き締めた。
「……良いのよ。皇帝を殺していたら、きっとあなたは苦しんだから」
セイは目を見開いて──哀しそうに笑うと、ディアナを強く抱き締め返した。セイの手がディアナの首もとを撫で、紫水晶に触れた。
「クレスの指輪は、取り返せませんでしたね……」
皇帝が指にはめたまま、彼と共に消えてしまった月長石の指輪。月の力を込めた、彼の遺品。
「いつかまた、あの人と向き合わなくてはならないときが来るわ。その時には必ず取り返す」
ディアナの呟きにセイは頷き、少女を抱き締める腕に力を込めた。
主を失ったことにまだ気付かないのだろうか。ドフェーロの砦の外の気配はとても静かだ。慣れた場所へ戻るだけの転移魔法ならばちゃんと用意してきている。しばらくこうしていても危険はないだろう。そう判断して、セイはそのままにしていたが。
「ん……うわ、何だよコレもー」
「イール!大丈夫?」
鳥籠の中のイールが目を覚ましたことに気づき、ディアナは駆け寄った。そこから出してやると、白い鳥はディアナの背後にいるセイに気付く。
「うわっ!キラキラ!ますますド派手キラキラになってんじゃん!なにそれっ!」
わなわなと翼を震わせるイールは、どうやらちゃんとセイと分かったようだ。しかし緊張感のないツッコミに、ディアナとセイは苦笑する。女神の相棒に、王子が微笑みを返して答えた。
「無事で良かったですよ、イール。これはちょっとフォルレインと融合しまして」
「“ちょっと”!?そんな希少すぎる高等魔法が出来る人間なんて聞いたことないよ!だいたいそんなことしたら、寿命縮まるじゃな──」
わめくイールのくちばしを、セイが咄嗟に押さえる。けれどディアナの耳にはしっかりと先ほどの言葉が届いてしまった。
「寿命が、縮まる?命の危険があるの!?」
「ディアナ、いえ、あの」
珍しく焦りの表情を浮かべ、口ごもるセイにじれて、ディアナは精霊へと矛先を変える。
「フォルレイン!そうなの!?」
『いや、女神。確かにそのとおりなのだが、我は悪くないぞ。我が主がどうしてもと』
「フォルレイン……裏切り者め」
真相を隠しておくつもりだったのだろう。視線を向けられて困ったように微笑むセイの胸ぐらを、女神が掴む。王子に対する所業ではないが、この際仕方ない。
「今すぐ融合を解いて!早く!」
そう言えばそうなのだ。こんな技が使えるのなら、今までいくらでも機会があった。けれどそれをしなかったということは、それなりの危険性があるからで──。
彼の姿がフォルレインからセイに戻ってゆく。それを待ちきれずにディアナは問いつめた。
「どうしてそんなことを!」
「さすがにエルフ付きの他国の砦に僕一人で乗り込むには、時間と力が足りなかったので。我が国の兵を使えばセインティアとドフェーロの全面戦争になってしまいますし」
何でもないことのように言う彼に、ディアナは言葉を失って──その瞳からぽろりと涙が溢れた。
「ディアナ!?」
驚いたセイが彼女を覗き込んだ。
「あーあー!キラキラがディアナを泣かせたあ!」
イールがセイの手から逃れ、ディアナの肩の上でここぞとばかりに攻撃する。王子は慌てて少女を呼んだ。
「あの、ディアナ」
「わたしのせい」
少女は掴んでいた彼の襟首を引き寄せて、そこに額を当てる。流れ落ちる涙に構わずに。
「私の為に、あなたを犠牲にしないで。お願いよ。あなたは聖国の民にとっても、私にとっても、かけがえない人なのよ」
国とディアナ、両方の為に生きると言ったくせに。彼は最後にはやはりディアナを優先するのだ──してしまうのだ。
「私の為にあなたが傷つくのは、絶対に嫌よ!お願い……」
王子は息を呑んで。ディアナの手に自分の手を重ねた。
「ディアナ」
その名を呼んで、顔を上げさせる。
「あなたの願いなら、どんなことをしても叶えたい。けれど僕にとっても、あなたはかけがえのない存在なんです。あなただって逆の立場だったら、こうしてくれたんじゃないですか?」
護りたい相手がいて。その手段があるなら。たとえ、この身が滅んでも。
──想いは、同じだ。
「……なら私はもっと強くなるわ」
「あなたならそう言うと思いました。でもたまには僕にも、愛しい女神を護る騎士として、格好つけさせてくださいね」
涙を零しながら微笑んだ彼女を見つめて。セイはディアナの肩のイールの目を片手で覆った。そして愛しい女神へ唇を重ねる。ディアナは皇帝にされたくちづけを思い出して一瞬身を固くしたが──
(……セイは、違う)
優しく触れる彼に嫌悪感など一つもない。
最初は気遣わしげだった彼が、ディアナの様子に大丈夫だと分かったのか、少しずつ熱を込めて繰り返す。
「好きですよ、ディアナ……」
「……私も」
彼女も赤い顔でこくりと頷いて、それに精一杯応えた。
「ちょっと!何してるんだよキラキラ!想像つくけどムカつく!」
騒ぐイールに構わずに、セイは唇を離すと至近距離でディアナをじっと見る。
「……あのド変態皇帝に触られたのはどこですか。僕が全部上書きしますから」
「はぁ!?」
美貌の王子にさらりと告げられたとんでもない台詞に、ディアナは思わず素っ頓狂な声を上げた。
「あいつに触られたところは、僕が全部キスします。まずはここから?」
「セ、セイ!?ちょっ、そんなとこ触られてない……!」
「そんなお約束な!今一番ド変態まっしぐらなのは自分だって、そろそろ気付こうよ、王子様!!!あああ、あの王子飼育係の近衛騎士はどこ行ったんだよ、もうッ!!」
『ずるいぞ主よ、もう一度融合しようではないか』
「キサマもか、ド変態──!!」
二人のやり取りに、どこかズレた精霊と、呆れと怒りの混じったイールの叫びが加わって。
彼らがアディリスに戻るのは、もう少し後のことだった──。




