満月の儀式
とうとう今夜は満月だ。
何度も隙を見て逃げようとしたが、扉や窓は魔法によって施錠されており、食事や浴室の湯は精霊によっていつの間にか用意されている。
イールの様子も分からない。使用人や兵士が彼女の前に姿を現すことは無かった──今日までは。
しかし今日、夕刻にディアナを尋ねてきたのは、アレイルだった。
「ディアナ、皇帝陛下は強い方だ。きっと君もその力になれる喜びを感じることが出来るよ」
ハーフエルフの妄信的な信頼に、少女は硬い表情を返す。
「アレイル、私に妻になって欲しいと言ったのは、セイの言葉を否定するため?」
ひとめ惚れだと求婚し、一族の生き残りという重い事情を匂わせて、ディアナの同情を誘って。青の王子と同じような状況を作り出すことで、ディアナの心を揺らがせようとした。
ラセイン王子と同じことを言う者はいくらでも居る、ただ彼が一番最初だっただけだと。
「君の彼への想いは、ただの同情か……女神の運命というお伽噺に酔った気の迷いだと、そう気付いて欲しかったんだ。君は皇帝陛下のものになるんだから」
「私の心は私のものよ。そして私はセイを好きなの。ドフェーロの皇帝には屈しない」
真っ直ぐなディアナの言葉にアレイルは口を噤んだ。迷うように言葉を選ぶ。
「……俺も君が欲しいんだ、ディアナ。その類希なる美しい力。俺達は皇帝陛下の力を分け与えられて生きながらえている。君が皇帝のものになることは、俺達のものになるのと同じだ」
「勝手なことを……!」
怒りに震える姿でさえ美しくて、アレイルは彼女から目を離せずにいた。
彼ら兄弟はハーフエルフであるためにエルフからも人間からも見放され、両親は迫害を受けて死んだ。どうやって生き延びたかもわからないほど、彷徨い続けた末に皇帝に拾われた。
アレイルやリエイルにとって皇帝は絶対の存在だ。だからこそ彼が望む月の女神を差し出したかった。けれど女神の心をも望むのは、アレイルの願望なのだ。
女神の愛が欲しい。皇帝と──自分達に。
そう気付いて、どうにか青の王子から彼女の心を引き離したかったというのに。
「私の全ては、セイと共にあるの」
どうして。どうしてそんなことを言う。
女神の強い瞳に、ハーフエルフの魔性の性が囁く。手に入らないなら──壊してしまえ。
「──っ」
アレイルはディアナの腕を掴んだ。そこに光る腕輪をむしり取る。
「やめて、それは──」
今のディアナとセイを繋ぐ、唯一のもの。少女が息を吞んだことに昏い喜びを覚えて、その腕輪を壁に叩き付けた。ついでに小さな魔法を撃ち込んだなら、それは簡単にひしゃげて壊れてしまう。
「そう言っていられるのも、今のうちだ。君は今夜、皇帝陛下に犯され、その力を捧げ、心を縛られ、人形になる。もう一生、我らの傍から離れられない」
「……っ!」
ディアナの瞳に、抵抗する意志に隠れて、微かな恐怖を浮かべさせることに成功して、アレイルは嘲笑う。歪んだ喜びを感じてしまうのは、彼もまた皇帝の影響を受けているからか、半魔だからか。
「アレイル、あまり女神を苛めてはならぬよ。私の愉しみが無くなる」
不届きなことを言ったのはドフェーロの皇帝で、彼は腕組みをして開いた扉に寄りかかり、愉しそうにアレイルとディアナを見ていた。少女が気付いて、キッと彼を睨むが、その視線にも動じず、皇帝は悠然と彼女の敵意を受け止める。そして、彼女の顔色を変える企みをさらりと暴露してみせた。
「フレイム・フレイア王国に操心の魔族を放り込んだ。そいつがフレイム王を唆し、青の聖国に火種をばらまいてくれてな。セインティア王国は今、彼の国に正面から剣を向けられているのと同じだ。そなたの為に動く余裕などないだろうよ。──その隙に我らが後ろから忍びよって、聖国の太陽を撃ち落としてやろう」
タクナス──あるいはレイウス。
あの魔族の案件でセイが青の聖国に連れ戻されたのだ。それも元はこの皇帝が企んだことなのか。
──いや、そもそもどこから、この皇帝の企みだった?
「タクナス…いえ、レイウスが聖国で私を待っていたのは…あなたの差し金?」
ディアナの疑念に彼はクスクスと笑みを零す。
「秘石を求めるレイウスに、私がそなたへの興味を煽ったのだ。彼奴は見事に私の望み通り、そなたを月の女神として覚醒させた。まあ、あの魔族は自らの意志で動いているつもりで居るだろうがな」
自分の手を汚さず、安全な場所から高見の見物をしていたということか。操心の魔族が、人間に操られているなんて。
ディアナは痛烈な皮肉に沈んだ。
「私に思い通りにならぬものなどない。そなたもだ、月の女神」
皇帝は腕を解いて部屋へと入ってきた。身を固くするディアナへと近づき、傲然と笑う。
「さあ、儀式の時間だ。月の女神」
*
身体に沿うように流れ落ちる白いドレスは、何の装飾も無い分、ディアナの鮮烈な美しさを浮き立たせて。その深く開いた胸元と背中から覗く白い肌は、艶めかしさよりも神聖さを感じさせる。
けれど今、その手足首には重々しい枷が掛けられていた。
砦の一番高い場所にある部屋。部屋の中央に描かれた魔法陣と、その上に置かれた祭壇を見た瞬間、彼女はざわりと肌が泡立つのを感じた。
ディアナに魔法の知識など無い。けれどこれが禍々しいものだとは分かる。
「何なの、これは……」
思わず退きそうになった彼女の身体を、アレイルが強引に手枷の鎖を引いて止めた。部屋の片隅ではリエイルが鳥籠を持って立っていて、その中にぐったりと倒れているイールが見え、ディアナは目を見開く。
「イール!イールッ!」
駆け寄ろうとしたが、アレイルに掴まれたままの鎖では近寄れない。怒りに彼の手を叩き落そうとしたが、ハーフエルフは力任せに鎖でディアナを引きずると、祭壇に引き倒した。
暴れる彼女の手枷を頭の上で祭壇に固定し、足枷も同じようにすると、彼は女神の顔を覗き込む。
「イールは生きている。眠らせてあるだけだ。俺だって彼に親切にして貰った恩があるからな。君さえ大人しくしていれば殺さない」
眉根を寄せるその言葉に真実を感じて、ディアナは暴れるのを止めた。けれどアレイルにその気がなくても、皇帝がイールの命の保証をしてくれるとは限らない。彼女が拘束されるのをただじっと見ていた皇帝は、ゆっくりと女神に近寄った。その昏い笑みを浮かべた端正な顔から、少しでも逃れたくて、彼女は顔を背ける。
彼の手がディアナの頬に触れ、首へ指を滑らせた──紫水晶のペンダントに。
「やっと私のものになる──月の力よ」
皇帝のその指には、乳白色の石の指輪が嵌っていて、それは少しずつ虹色に光り出していた。それに見覚えがあって、ディアナは目を見開く。月の民の末裔である母親がクレスへ渡した、月長石の指輪。
そうだ、戦争のあったあの時。ドフェーロの兵士が家を取り囲み、異変を察した両親によって子供達は魔法で隠された。しかし両親が殺され、クレスは妹を守るために囮になろうと飛び出していったのだ。その指にあった指輪。
「長く待った甲斐があったな。月の民を殺し損ねたと思っていたが、このように美しい女だとは。今となっては僥倖だ」
皇帝の言葉でディアナは気づいた。両親はただ戦争で死んだのではなく、月の力を奪うために殺されたのだ。戦争を起こした前皇帝ではなく、目の前にいる現皇帝──当時の皇子の命令によって、リエイルが殺したのだと。
そして兄から奪った指輪を、この男が、ディアナを支配するために使おうとしている。
「い、やッ……!」
ディアナは暗闇がじわじわと迫るような魔法の気配に、思わず悲鳴を上げる。これは、危険だ。近づいてはいけない力。少女の怯えを知って、ますます皇帝は笑みを深めた。
「我は強き力にて地を奪い、統べる者。古き尊き月の女神を我に与えよ、その全てを」
彼が呪文を詠唱するにつれ、床の魔法陣の光が強くなり、紫水晶と月長石の波動もディアナから力を奪うように輝く。
身体が重い。息苦しい。闇に引き摺り込まれてしまう。月の力を暴走させた時のような、自分では制御できない圧力を感じて、ディアナは抗おうとした。
「月の女神──我が花嫁よ」
皇帝の笑みが近づき、紫水晶を撫でていた手が、鎖骨を降りて白いドレスの肩を掴んで引き下ろした。
「やめて!」
──嫌だ。
反射的に零れ落ちた悲鳴と、拒否反応にディアナは息を吞む。
今まで命のやり取りなら何度もしてきた。危険なことはいくらでもあった。そのどれも、こんなには恐ろしくなかった。力で叶わないと知っていたが、戦いではなく──こんな、一方的に踏みにじられるような、昏い欲望に満ちた瞳で。
怖い。
初めて、そう思った。
「嫌……!」
身を捩って逃れようとして、けれど叶わず。せめて近づく唇を避けたら、露わになった首に皇帝が吸い付く。嫌悪感に涙が滲んだ。
「やめて、離して!」
嫌だ、嫌だ、こんなのは。私に触れるのは、たった一人が良い。
もう頭は恐怖で真っ白になり、無意識に叫んでしまう。
「嫌ぁっ!助けて、セイ──」
呼びたくても、呼べなかった名を。とうとう口にしてしまって。
「ディアナ!」
返ってきた声に、息が止まった。
こんなところに居るはずが無い。こんなところに居て良いはずが無い。青の聖国の世継ぎの王子が。
──けれど、今の声は。
“ザンッ!”
涙ににじんだディアナの視界に赤い光が横切り、身体から重みが消えた。目を見開いてその軌跡を追えば、赤く輝く剣。
それは皇帝に向かって何の容赦もせず振り下ろされ──彼はディアナの身体から離れてそれを避けた。しかしわずかに間に合わず剣先が彼の肩を切り裂く。
「「皇帝陛下!」」
突然の強襲に茫然としたハーフエルフ達は揃って叫び、彼の元へ駆け寄った。
皇帝は舌打ちし、溢れた血を押さえる。いきなりその場に現れた侵入者を睨みつけた。
「お前は……」
視線の先──赤い光を放つ剣の刃を皇帝へと向けたのは、紺色のローブを纏い、深くフードを被った人物。その顔は口元しか見えないが、手にしているのは確かに退魔の剣だ。
「セ、イ?」
ディアナの震える声に、その人が彼女を──痛々しく囚われた姿を見た。
フードから覗く口元がギリッと歯を食いしばる。彼から発せられた強い怒りの波動に剣が反応し、空気がビリビリと震えた。
「よくも、こんなことを」
目にも留まらぬ一閃で、女神の手足の枷を彼の剣が打ち砕く。その様子に、皇帝は眉をしかめた。
「青の王子か。国から出たという報告は上がっていないが」
「青の王子?誰のことだ?」
ローブに手を掛けて──彼はそれを一気に引き脱いだ。その中から現れたのは。
金と水色の入り交じった、流れる滝のような豪奢な髪。金色の瞳、キラキラと纏わり付く魔力の粒子。美しく幻想的なその姿。
「フォルレイン?」
ディアナは目を瞬かせた。この姿は、退魔の剣の精霊のものだ。いつもの剣に溶けているような姿ではなく、足はある。しかし精霊の姿はラセインとディアナ以外には見えないし、なによりこの気配は──
「……っ」
違う。彼はセイだ。フォルレインの姿をした、セイ。
ローブをはぎ取った彼は、それをディアナの身体に掛けた。少女は自分の服が乱されたことを思い出して、ビクリと震える。セイはそっとくるむように彼女を包んで、視線を合わせて彼女にだけ分かるように頷いた。
「もう大丈夫ですよ、ディアナ。遅くなってすみません」
「セイ……」
彼女の溢れた涙に唇を寄せて、セイはディアナの瞼に口付けた。思わず縋り付いてしまえば、彼はしっかりと彼女を抱き締めてくれる。
もともと主と精霊であるセイとフォルレインの姿は似通っているが、その表情は確かにセイのもので。ディアナは彼だと確信して、ためらいなくその腕に身を任せた。
セイだ。呼んだら本当に来てくれるなんて。
戸惑いと安堵と嬉しさに、“強き戦いの女神”はあっけなく壊れた。涙が止まらない。
「怖かった……怖かった……!私、あなたじゃなきゃ駄目。あなた以外に触れられるのはいや。心も身体も命も、あげるのはセイじゃなきゃ嫌なの……!」
素直に溢れたディアナの言葉に、彼は女神を抱く腕に力を込めた。彼女の恐怖を和らげるように、愛おしげに何度もその髪を撫でる。
「ええ、僕もです。あなたじゃなきゃ駄目だ。僕の全てはあなたのもので、あなたの全ては僕のもの。他の誰にも、もう触らせない」




