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月の女神  作者: 実月アヤ
第四章 奪われた女神
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囚われた月

 頬を撫でる指の感触に、少女は身じろいだ。不快感に、それから逃れようとする。

 だって、いつもの優しい指先ではない。彼の、手ではない。


──そう思い当たってハッと覚醒し、飛び起きた。身を起こすと共に寝台から飛び降りて構え、視線で剣を探す。獣の様に一気に警戒態勢になった月の女神に、愉しげな笑い声が浴びせられた。


「はは、さすがに戦いの女神。懐いてはくれなさそうだ」


 寝台の端に腰掛け、おそらくディアナの頬に触れていたその相手。

 一番最初に目についたのはその髪だった。漆黒のまっすぐな長い髪。瞳も黒に見える。顔立ちは端正だが──意志の強そうな力強い圧迫感をひしひしと感じる。体つきもがっしりとして鍛え上げられているのが一目で分かった。力で抑え込まれたなら勝てそうにない。なまじ顔が整っているために年齢はよくわからない。20代後半から30半ばといったところか。精悍で、猛禽類のような鋭さを持つこの男は──


「皇帝陛下」


 いつの間に部屋に入ってきたのか、アレイルと双子の片割れが彼の前に膝をついた。


「ドフェーロの皇帝……?」


 ディアナは茫然と呟く。


「……っ」


 我に返り、自分の周りを確認する。深い色の天蓋のついた寝台。一目でわかるほどの豪奢な部屋なのに、人の生活している気配がない。窓の外を見てくらりと眩暈がした。

──石造りの要塞。所々に配置された兵士は皇国の国旗である深緑のマントを羽織っている。遠くまで良く見渡せ、隠れる場所も無い広大な石原はアディリスとは全く違う景色。


「ここは、どこ?」


 ディアナの問いに、アレイルが答えた。


「ドフェーロの国境の砦、グウェロブランだ」


 どうやらアディリスとドフェーロの国境らしい。なぜ皇帝自らこんなところに居るのだろう。逃げ出してアディリス王国にどうにか助けを求められないだろうか。

 彼女の思考に気付いたのか、皇帝はくつくつと笑った。


「そなたが逃げたなら、あの白い鳥は焼いて喰らってしまおうか」


 イール!


 顔色の変わったディアナに満足し、皇帝は彼女に近づきその手を伸ばした。頬に触れようとしたそれを反射的に振り払ってしまえば「おい!」と、アレイルの片割れが血相を変える。


「いい、リエイル」


 皇帝はさらりと彼を止めた。どうやら双子のもう一人はリエイルというらしい。しかし皇帝の瞳は貫くように、ディアナを捕らえる。黒い瞳だと思っていたが、虹彩の中に赤い色を含んでいるのか、陽の加減によって赤い光が浮かび上がった。


──魔物の血が流れているのね……!


 ドフェーロの歴史の中には魔物と契った王もいると言われている。だからこそ残虐な気性を抑えられないのだと。おとぎ話ではなかったのだ。それに気付いたディアナを皇帝は面白そうに眺め、言う。


「私に逆らえば、殺す。あの鳥も──聖国の王子も」

「──!」


 息が止まった。


「あの恐ろしく綺麗な姿をした化け物共の中でも、かの王子は特に目障りだからな。聡明過ぎて敵にも味方にも出来ぬ厄介な若造よ。そなたが呼ぶならば止めぬ。きっとそなたのために、喜んで私に首を晒してくれるだろうよ」


 そう言って彼はカツン、と指先でディアナの腕輪に触れる。

 これが通信装置だと知っているのだ。知っていて、そのままに──。


「おや、呼ばぬのか。愛しい男を」


 近づく皇帝の顔を、今度は避けない。その唇が自分に触れることも──歯を食いしばって耐えた。

 彼はそれだけで離れる。もし口の中まで侵入されたら、噛みちぎっていたかもしれない。


「儀式は満月の夜だ。その身も心も、私に捧げてもらう。──楽しみだな、月の女神よ」


 歌うように掛けられた言葉一つ残して、彼らは部屋を出て行く。ディアナは苦しげに瞳を閉じた。


 冷酷無比な武力行使で知られる皇国の皇帝が、あんな若い男であったことに驚いた。

 前皇帝は壮年の武人だった。近隣諸国を力で押さえつけようとする、その強行すぎる政策は外部にも内部にも多く敵を作った。7年前のアディリス王国との戦でも、結局は大国との戦いに疲弊した民からの内乱によって大敗し、その時に実の息子に皇位を奪われ処刑されたのだ。

──その前皇帝を処刑し、皇帝位についたのが、彼。


 何人もいた父の妾妃と腹違いの兄弟達を追い落とし、親を殺した──血みどろ王。ディアナのような森に住む娘でも知っているような、その悪評。多くを欲して血を流した前皇帝ではないにしろ、それ以上に冷酷非道さを世に知らしめて、いま彼女を捕らえている相手。

 もし、セイに助けを求めれば、ドフェーロ皇国とセインティア王国の戦争になるかもしれない……。


「そんなこと、させられない……!」


 少女は背中に冷たい汗が流れるのを感じた。



**



「こんな、はずではなかった」


 呻くように呟く友人の肩を抱えながら、セイは唇を噛んだ。

 今まさに、ある事件がセインティア王国を揺るがせていた。銀の大魔導士シーファの弟子、アルティスの秘石の器である少女リティアをセアラ姫の元で修行させるようになって数日。ある一人の侵入者が現れ、彼はリティアの兄と名乗った。彼は生き別れた妹を探し、花嫁として迎えるつもりだった。彼の国は近親婚が認められているのである。

 もちろん弟子を手放すことなど大魔導士は許さず、リティア自身のシーファへの恋情から兄のその想いは叶わぬはずだった。しかし、侵入者があるやんごとなき身分であったこと──リティアへ執拗な執着心を持った事から、事態は悪い方向へ流れた。

 彼はシーファとセインティア王国を盾に、少女を脅し──リティアは彼らを護る為に、魔法で兄と共にセインティア王国を去ったのだ。愛おしい少女を失った大魔導士は暴走しかけ、我を忘れて身の危険も顧みず転移魔法を使おうとした。アランがその身を張って、セアラ姫が説得して、その場を収めたものの──今彼は俯いたままセイの肩に身を預けている。


「大丈夫、必ずリティアさんを取り戻しましょう」


 ポンポンとなだめるように彼の肩を叩けば、シーファは頷いた。


「ああ……すまない、ラセイン」


 普段は大胆で不遜な魔導士がこんなにも打ちひしがれているのは初めてだ。彼をその場に残し、続き部屋の執務室に側近を呼ぶ。


「アラン、お前がついていけ。あのままだと、シーファはまたいつ暴走するかわからない」

「あーあの破壊神に任せてたら、一気に戦争ですもんね。熱砂の国の王様とはやりあいたくないなー」

「フレイム・フレイアか……」


 弟子の少女が居るのは砂漠の国、フレイム・フレイア王国だ。外交問題になりかねない為にセインティアの王子であるセイは直接は動けない。


──クレスは確か、彼の国の宰相の養子だったはずだ。王とも面識がある。イール伝いに、取りなしてもらう事はできないだろうか。


 腕輪に触れて、ディアナを呼ぼうとし──微かに違和感を感じた。もう深夜を回っている。だというのに今日はディアナから連絡がない。大抵はセイから連絡をするが、それもほぼ決まった時間で、もし執務などで彼がそれに遅れるような事があれば彼女から連絡をしてくれるのだ。それが、今夜は一度も無い。もう数時間過ぎているというのに。


「ディアナ……?」


 腕輪に呼びかけても、応答しない。ハッとして、彼は退魔の剣を取る。


「フォルレイン、腕輪のある場所──ディアナの居場所が分かるか」


 剣から精霊が現れた。水色と金色の入り交じった髪を揺らし、セイの腕にある同じ腕輪に触れ、その顔をしかめる。アランには精霊の姿は見えないし、声も聞こえない。ただその存在を感知するだけだ。


『セレーネではない。……神竜の護りの外、ドフェーロに居る』

「──!!」


 思わずガタン、と音を立てて椅子から立ち上がった。倒れたそれを気にする事も出来ずに。


「ラセイン様?」


 怪訝な顔をするアランに、主は蒼白な顔を向ける。


「ディアナがドフェーロに居る」


 その意味を正しく理解して、アランも顔色を変えた。


「何故このタイミングで……!」


 セイは執務机に拳を叩き付ける。そのままそれを額に当てた。その下でアクアマリンの瞳が剣呑に光る。


「──この、タイミングだからか?」


 一番の戦力になるはずのシーファもアランも手放さざるを得ない。フレイム・フレイア王国との一触即発の状態。今ドフェーロ皇国にまで手を出されたら、いかに魔法大国といえど無事に済むわけが無い。だからこそ、こちらも迂闊に手出しの出来ない状態。となれば、フレイム・フレイアでさえも皇国に組している可能性がある。


「アラン、注意しろ。フレイム・フレイアにドフェーロの手が及んでいるかもしれない。人か、魔物か、精霊か」

「ちょっ、ラセイン様、この事態でまだ俺をシーファにつけるおつもりですか!?ディアナさんのことは」


 てっきり王子が命令を撤回して、共に女神の救出に回るかと思っていたアランは、主に食って掛かる。


「セインティア王国としてアルティスの秘石を放っておくわけにいかない。僕個人として友人を破滅させられない。アラン、僕の代わりが出来るのはお前だけだ。全力でシーファを支え、リティア嬢を救出しろ」


 青の王子は腹心にそう命じ、拳を握りしめた。紫水晶の瞳の恋人を思い浮かべ。


「ディアナのことは──僕が必ず取り戻す」


 その腕輪に触れて、瞳を強く閉じた。

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