プロローグ
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その日、セレーネの森の小さな家に、ちょっとした事件が起こった。
「ラセイン、ごめんなさいね?どうしてもお父様があなたを連れて来いっておっしゃるの」
キラキラと輝く美貌で困ったように微笑む、聖国の金の薔薇こと、セアライリア王女と。
「ホンッットすんません!!力及ばず、すんませんっ!!」
地を這う勢いで謝る近衛騎士団の皆様と。
「ラセイン殿下、どうぞ城へお戻り下さい」
申し訳無さ全開で頭を下げる、魔法兵団の魔導師の皆様。
ちょっとした人数が、この小さい家をぐるりと取り囲んでいた。
「……何事ですか」
扉を開けたまま硬直する青の王子に、セアラ姫が微笑む。
「お父様が諸外国視察へ出かけられる間、あなたは王の代理として王城に戻れとのご命令よ。わたくしも王命には逆らえないわ。この場所を特定する探査魔法を、ちょっと銀の大魔導士にお願いしたの」
セイはああ、と遠い目をする。
「シーファめ。まだ約束の期限前だというのに」
セイの家出については傍観者でいてくれるはずの友人が、あっさりと姉姫に陥落されたと気付いて額を押さえた。第一級魔導師をも欺く結界と目くらましを掛けたはずだったが、あの大魔導士はやはり規格外らしい。
「セイ……」
彼の後ろから出てきたディアナは、心配そうに彼を見上げた。
「ごめんなさいね、ディアナ。しばらくラセインを借りますわ。王が不在の間だけ」
セアラも彼女の困惑した顔に弱いのか、眉を下げて言う。傍の木の上から様子を見ていたイールが、ニヤニヤと口を出した。
「とかいって。もう帰って来なくてもいいよ、キラキラ」
「酷い事を言わないで下さい、イール。僕がディアナと離れていられるわけがないでしょう」
さらりと言ってのける彼に、白い鳥はもう砂を吐きそうな表情だ。それを苦笑いして見ながら、ディアナはセイを見上げる。
「セイ、行って王族の務めを果たしてきて。私なら大丈夫よ、イールも居るし」
微笑む少女を、彼は複雑そうな顔で見た。彼女の手をとって、口元へ寄せる。
「あなたが僕の立場を慮ってくれているのは嬉しいのですが、それ以上に寂しいと思って欲しいのは、ワガママでしょうか」
「ワガママっすね、ラセイン様」
すかさずアランが突っ込んだ。騎士達が慌てて彼の口を押さえる。
「隊長、それ思ってても言っちゃ駄目なヤツです!」
「え、だってこの人突っ込まないと甘さ全開垂れ流しだよ?独身恋人無しの君たちの耳が汚染されないように、隊長のささやかな気遣いなんだけど」
「アラン隊長だって人の事言えないじゃないっすか!!彼女居ないくせに!ああ、モテる人は余裕ッスよね!」
「いくらモテてもねぇ、本命に相手にされなかったら意味ないでしょ」
「その発言がすでに勝ち組なんスよ!隊長の意地悪!」
……大分話が脱線してきた。目頭を押さえる騎士まで居る。
「ねえ、これ本当に世界一の結束を誇る最強騎士団?嘘だよね」
イールがぼそっと呟いたのは無理も無い。そんな一同に構わず、姫君は弟王子を見た。
「それにね、そのシーファがちょっと困った事になりそうなんですわ──かの秘宝と、操心の魔族がらみで」
セアラ姫が口にした名に、セイとディアナはそれぞれに反応した。
「今は何とも言えないわ。だからあなたには王城を任せたいの。もしかしたら、いずれディアナの剣も必要になるかもしれないけれど」
操心の魔族──タクナスあるいはレイウス。ディアナの養父ディオリオを操り、セインティア王国に入り込み、ディアナを覚醒させた魔族。
「セイ……」
紫水晶の瞳に強い光を浮かべた彼女の手を、王子は強く握る。あれが関わっているなら、セインティア王国の継承者である自分が城を離れるわけにはいかない。
「わかりました。城へ戻ります」
彼は頷いて、アクアマリンの瞳を少女に向ける。ディアナはその視線に頷いた。セイにさりげなく引き寄せられて額に落とされた唇を、人前なのに、と躊躇いながらも受け入れる。
「……ディアナ、必ず戻ります」
そうして王子は、月の女神の元を一時離れる事になったのだ。
**
セイが居なくても仕事は変わらない。ディアナはイールと共に魔物退治を続けていた。
ただ、セイは出発前の短時間のうちに、彼女が一人でも行えるものだけを選り分け、二人掛かりでないと困難そうな大型魔獣や高位の魔族らしき討伐依頼は、きちんと依頼主に保留にする旨の了解を得ていた。いつもながら見事な手腕だ。
仕事に没頭できれば、彼の不在も気が紛れる。以前彼に会えなかったときは不調続きだったが、今回はちゃんと事情も分かっている。
唯一の気がかりと言えば操心の魔族の存在だが、セアラ姫によれば存在を匂わせる事件があっただけだというから、まだ心配する段階でもないだろう。
それに──
「キラキラってば、通信できる魔法具を置いて行ってくれたんだって?」
水場で休憩していると、イールが羽ばたきながら問いかけてきた。ディアナは頷いて、自分の腕についた金色の腕輪を示す。表面に刻まれた繊細な装飾は全て魔法の呪文らしい。真ん中に青い宝石がはまっている。セイが姉姫に作ってもらったそれは、彼の名を呼ぶと起動する魔法を掛けられた道具だ。逆に彼から通信がある時には宝石が光り、それに触れると起動するらしい。
「そうなの。何かあったら知らせてって」
「あのキラキラの様子じゃ、何も無くてもウザいくらい連絡してきそうだけど」
これ自体が高価そうなので、ディアナは遠慮したが、セイに綺麗な瞳を伏せて哀しそうに、
「せめてあなたの声だけでも聞きたいんです」
などと言われては断るわけにもいかなかった。もちろん美貌の王子は確信犯だ。それでも頻繁に通信されてはお互いの仕事に差し障るため、毎夜眠る前のひとときだけだと確約させた。
──実はこの『毎日通信する』ことを承諾させることこそが、セイの目的だったのだが。心優しい女神は、敏腕王子の手にまんまとはまっている。
休憩を終えて、立ち上がったディアナは、ふと森の奥から険しい気配が近づいて来る事に気付いた。
「イール、下がって──」
剣を構えた彼女の声に、イールは空高く舞い上がった。それを確認し、前に向き直る。
“ザッ──
そのとき、草をかきわけ現れたのは──
「──エルフ?」
人に似て異なる者。橙にも似た赤毛の髪、金色の瞳、尖った耳、端正な顔立ちの男性──精霊族。
彼は目の前に立つ少女に驚いて立ちすくんだ。その後ろから“ギャア”とけたたましい音を立てて襲撃しようとする翼の生えた蛇──魔物が追ってくるのを見て、ディアナは咄嗟にエルフの手を引いた。
「こっちへ!」
彼を自分の背に庇って、剣を薙ぐ。魔物はまっぷたつに斬られ、地に落ちた。
「大丈夫ですか?怪我は?」
振り返って聞けば、彼は目を見開いたまま首を横に振った。外見はディアナよりもいくつか年上に見える──がエルフは長寿だから、実際には何百歳とかかもしれない。決して弱そうな体つきには見えないが、武器は何も持っていなかった。その脚に血が滲んでいるのを見て、ディアナは眉を寄せる。
「怪我、してるわね」
応急処置用の荷物を持って近づけば、手当をすると気付いたのか、エルフはいくらか警戒を解いて彼女の行動を見つめた。手当をしていると、やっと彼が息を吐いて口を開く。
「とても助かった。ありがとう」
その柔らかな声音に、出逢ったときのセイを思い出してディアナは微笑む。
「それなら良かった。私はディアナといいます。魔物の退治屋よ」
彼女の名乗りに、エルフは目を細めて見惚れるように少女を見つめた。
「ああ、君の名は知っている。──セレーネの月の女神。森の守護者、精霊の友」
「大袈裟だわ」
そんな大層な名がついているとは。ディアナは苦笑する。魔物の気配を探って問題ないと思ったのか、イールが降りてきた。
「エルフがこんなところまで?珍しいね」
喋る鳥から魔法の気配を感じたのか、精霊族の青年は驚きもせずに頷き──ディアナの手をとった。
「俺の願いを叶えて欲しい。月の女神よ。──どうか、我が妻に」
「……は?」
「……どっかで見たな、この光景」
と、イールがげんなりと呟いた……。




