偽りの王子
それは。
──“ザンッ……!”
目を疑う程の一瞬の出来事。
彼女の剣がカーシの首元を差し貫いていた。
吼え、暴れまわるカーシを更にディアナの剣が凪ぎ払う。彼女の倍以上もの体躯の魔獣が翻弄され、転がった。その凄まじさに、誰も動けずに。
「ディアナ」
茫然と呟いたイールが、堰を切ったように彼女を呼んだ。
「ディアナ、ディアナ!駄目だ!溺れないで、しっかりして!!」
彼の言葉に、アランがハッと目を剥いた。彼の感知能力で目を凝らせば、月の女神から溢れ出る異様な力が、彼女を食いつぶすように広がって見える。
「あれは、月の力に彼女が支配されそうになってるのか?」
アランの言葉に、泣きそうな声でイールが少女を振り返り、自分の声が届かないと分かると青の王子に助けを求めた。
「セイ!ディアナを止めて!」
──ディアナ。
イールの声に、セイは愛おしい女神の姿を目に捉えた。いつもの彼女ではない。瞳は鋭いのにどこか虚ろで、誰の声も耳に届いていない。魔獣に向かい、その剣を振るい続けている。
月の力を孕んだペンダントの力が強過ぎて、ディアナを暴走させているのか。
それだけ自分の怪我が彼女の心を揺らがせたのかと思うと、どこか言いようの無い嬉しさもあるが──それ以上に彼女の姿が痛々しくてたまらなくなる。恐れを知らず戦うというのは、自らが傷つくことすら厭わないということだ。いつもなら避けるような魔物の攻撃も、多少の傷など構わないつもりか、そのまま突っ込んで行く。
「ディアナ」
セイは身体を駆け巡る不快な苦痛を、無理矢理抑え込んだ。フォルレインからの浄化はまだ続いている。毒は残っているが、今はそれどころではない。退魔の剣を握りしめた。ふらつく身体で立ち上がる。
アランが気付いて支えようとするが、主は片手でそれを制した。キルスは彼の意図に気付いて首を振る。
「ラセイン、今の彼女には君も見えてない。危ないって」
「それでも、彼女を止められるのは僕だけです」
まっすぐにディアナだけを見つめて、セイは剣を構えた。
「フォルレイン、月の力を抑え込め」
『一瞬だけだ。力が強過ぎてもたない』
「かまわない」
剣の精霊と短く言葉を交わし、彼は地面を蹴った。月の女神と息も絶え絶えの魔獣の間に滑り込み──彼女の剣をフォルレインで受け止める。彼女を傷つけぬように、その剣は鞘の内のまま。それでもあまりの衝撃に、両者の剣に火花が散った。
「ディアナ、それ以上はいけません。あなたが力に食いつぶされる。止まりなさい!」
常なら彼がディアナに命じる事など無い。けれど今は、強い言葉が必要なのだ。
王者の声に一瞬躊躇いを見せたものの、彼女はなおも剣を押し込もうとし──フォルレインから光が溢れた。
「ディアナ」
ギリギリと力を込めて彼を押しつぶそうとする剣を片手に合わせたまま、セイはディアナに囁く。
「愛していますよ──僕の女神」
もう片方の腕で紫水晶の瞳を引き寄せて──その唇を重ねた。
「僕は大丈夫ですから、泣かないで」
──感情の見えない顔をした少女の目からは、涙が零れていた。
「決して独りにはしません。あなたの力も全て、僕が受け止めますから。怖がらないで」
やんわりとなだめるような口調で言葉を継げば、それが青年の手に零れ落ちて。
──ディアナの瞳に光が戻る。
「セ、イ……」
微笑みを返して彼女の髪を撫で、王子はもう一度キスを落とし──その身体が沈んだ。
「セイ!」
「ラセイン様!」
咄嗟に支えたディアナと、駆け寄ったアランの間で、セイは地に膝をついて荒い息を吐く。完治しないままに動いたせいで、残った毒が回ったのか。イールが彼の顔色に焦りを浮かべて。
「ど、どうしよう。キラキラやばい。剣の治癒魔法は?」
フォルレインが切羽詰まった声で呟いた。
『月の力を抑え込む事に魔力を使い果たしてしまった。治癒魔法がうまく働かない』
「そんな」
ディアナは助けを求めて周りを見回し──ハッと魔導師を見る。視線を受けた魔導師はたじろぐが、畏れを感じて動けないでいた。ゆっくりと、ディアナは魔導師へ近付く。
「う」
未だ圧倒的な存在感の残る彼女の姿に、魔導師が腰を抜かしてへたり込んだ。その姿を見下ろし、ディアナは色のない声で言う。
「セイの傷を癒やして」
キルスは我に返る。魔導師へと声をかけた。
「頼む、あいつは本物の王子なんだ。助けてくれ。あんたの獲物は俺だろう」
魔導師は青ざめて頷いた。このやり取りで事情を理解したのだろう。魔導師の手から淡い光が溢れ、青年へと注がれてゆく。セイはフォルレインを杖代わりに、地に片膝をついてはいたが、今度は倒れ伏すことはなく意識も辛うじて保っていた。それが女神を心配させないようにとの、彼なりの意地であることに、近衛騎士だけは気づいている。
──本当に、もう。ウチの王子様は。良い男になっちゃって。
ラセイン王子の誇り高さを知るアランには、だからこそキルスにあまり良い印象を抱けないのだが。
治癒魔法によってセイの体内から完全に毒を浄化されると、彼は少女に戻った女神へと手を伸ばした。
「情けないところを、見られてしまいましたね」
苦笑するセイに、ディアナは首を横に振る。安心させるように彼女の頬を撫でるセイの手に、自分の手を重ねてディアナは息を吐いた。
「私……私こそ、あんな」
「いいえ、僕の力不足のせいですよ。すみません」
「そんなんじゃない。私、強い力に溺れたの。セイを失うのが怖くて、魔物を殺す力が欲しくて欲しくて」
怒りと哀しみに我を忘れる月の女神の力は、ディアナ自身にも恐怖を残した。こんなふうに使わせてしまったことに、王子は心が痛む。
「それでもあなたがいなければ、僕もキルスも命を落としていましたよ。それに、どんなに恐ろしい力であってもあなたを守ってくれるものなら、僕はそれでいいんです。……でももし、この力があなたの心を守らないのなら」
指先でディアナの首に下がるアメジストに触れ、彼女を気遣うように「僕が預かりますか?」と問うた。けれど少女は首を横に振る。
「今回は私が弱かったのよ。これからはちゃんとする。セイを守れるならこの力にも感謝するわ」
逃げない、と言い切る彼女。静かで強いディアナの瞳に、セイは愛おしさを感じて、その頭を抱き寄せた。
「ならあなたの心は僕が護ります。だからあなたは僕の心を護ってくださいね」
「……私が、セイの心を護るの?」
「そうです。あなたに何かあったら僕の心は壊れますから。月の女神以上に暴走することは間違いありませんよ。フォルレインを掲げた青の聖国の王子の乱心なんて、魔王降臨レベルなんですからね?」
冗談混じりでディアナに言い含めるセイに、イールもどこかホッとしたように乗った。
「自分で言っちゃうの、キラキラ。たち悪いよね、キミって。ああ、ラスボスっぽいもんね」
「その時はイールも一緒でしょう?ほら、クレスの力も加わったら世界が壊滅するかもしれませんよ」
「え、ちょっと待って下さいよ、それ止めるの俺ですよね!うわ嫌だ、絶対無理。ディアナさん、頼みますから無傷でいて下さいね!」
アランも加わって、落ち込んでいたはずのディアナは笑みを誘われながら。気に病まないようにと気遣ってくれる皆がありがたかった。
「私は、どうなるのでしょうか」
治癒を終えた魔導師は、動かなくなった魔獣を見て諦めたように己の処遇を問うた。ディアナはキルスを見て、魔導師へと問いかける。
「……あなたの仕える方が、キルスさんを殺せと命じたの?」
魔導師は項垂れ、女神に答えた。
「お嬢様は大変心を痛めておいででした。その方に心から尽くしたというのに、キルス……様は使用人などに手を出し、お嬢様を侮辱した。けれど彼はそれを悔やむ事も無く次々と他の女性を求め、お嬢様はその存在すら忘れ去られたのかと嘆いておられました」
「……」
アランがじとりとキルスを見た。自業自得じゃないか、女性の敵。ついでにうちの王子に迷惑をかけるなと全身で訴えている。キルスは気まずそうに呟いた。
「……忘れてないよ。ローズ・ディアスの香りの令嬢。僕が初めて作った香水をつけてくれていたひとだ」
確かにその時は、自分の生み出した香水が彼女の微笑みに輝くような美しさを添えていて。嬉しかったのだ。単純に。けれど、意図して作り出した『キルスウェル』は遊び人で、お調子者。広く浅く、美しい花の間を飛び回る。同じように、彼女の事も一夜の遊びと心から追い出してしまった。
しかし──ディアナとセイ、二人の姿を見て。今は自分のしたことの愚かさに、後悔している。
キルスの代わりにカーシーに傷つけられた従兄弟は、それでも自分の身体を張って愛しい少女を止めた。これほどに彼女を想うからこそ、彼もまた同じ想いを返してもらえるのだ。キルスが欲しくて羨んだものは、全てラセインとて最初から手にしていたわけではない。望んで、得ようと努力したから。知っていたのに。
キルスは顔を上げた。
「謝るよ、彼女に。許してもらえないだろうし、まあ格好悪いけれど」
「だそうです。取り次ぎをお願いできますか」
処分はしないと暗に含ませた青の王子に、魔導師は深々と頭を下げて闇に消えて行った。
セイはディアナを抱き締めたまま、従兄弟に呼びかける。
「キルス。あなたが僕を羨んでわざと気に障るように行動しているのは知っていますよ。けれど羨む意味など無いんです」
キルスは目を見開いた。
「あなたには魔導の才能がある。人々に喜ばれる商品を作り出せる才能が。そうだ、詩の授業もあなたの方が成績が良かった。……もっともそちらは女性を口説くことにしか発揮されない才能のようですがね」
少しだけ呆れた顔で付け足す。
「もう僕になりすましたりするのはやめなさい。あなたにはあなたの魅力がある。僕にとっては大事な従兄弟だし……本当の僕を知る、数少ない友人だ」
自分を『僕』などと呼ぶのは、ラセイン王子の真似だ。ディアナが目を見張った、王子に似たその笑顔の作り方も。偽物の愛を囁く時は、偽りの王子を演じていた。敵わないと知りながら、彼を貶めたくて、でもずっと憧れて。
「ああ、そうだね。僕……俺には、青の王子なんて無理だったんだ」
諦めの言葉は、なぜかとても清々しかった。




