彼との思い出
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フレイム・フレイア王国の宮廷医師ホルザックの娘、アリエルは幼い頃から医師を志していた。
父の助手として王宮にも出入りし、城の医療班にも有力な人員の一人だと認められるまでになっていて。その日も足りなくなった包帯を届けにフレイム・フレイア王宮へやって来たのだ。
フレイム王アルヴィオスはとても若いが、反乱王と呼ばれているように武力行使で王となり、燃えるような髪の美丈夫ながらも、その勇猛果敢さで戦場を駆け回っては傷を作ってくる。アリエルと父の仕事も多かった。
「急がなきゃ…きゃあ!」
角を曲がった途端、向こうから走って来た誰かにぶつかった。咄嗟に握り込んだ籠からは、幸い医療道具は零れ落ちなかったようだ。
「っと、あっぶないじゃない!」
顔を上げて抗議したなら、相手は驚いたようにアリエルを凝視している。
「え、えと」
「ごめんなさい、でしょ。ここは」
口を尖らせて──気付いた。砂漠の王国フレイム・フレイアの民にしては日焼けしていない肌。ミルクティ色の髪に緑の瞳、端正な顔。恐ろしく上質な服に、そこらへんの貴族達より明らかに育ちのいい、洗練された姿。以前ちらっと見かけただけだが、これは。
「し、失礼しました、アディリスの王太子殿下」
(留学中のアディリス王国の王子様だ!)
相手の素性に気づき、アリエルは飛び上がって頭を下げる。彼はいきなり怒られたあげく謝られて、ひどく面食らったようで。
「っえ、いやあの、待て」
「今のはレオンのせいだよね。アリエル、君は間違ってないから気にしなくていいよ」
慌てる王子の背後でクスリと笑う声と、柔らかな声音。楽器を鳴らしたように艶やかな音を聞いたような気がして、アリエルは一瞬動きを止めた。
「おい、クレス……」
「クレスさん!」
二人の声はそこに現れたもう一人を呼んだ。アリエルは慌てて乱れた髪や裾を直す。なにせ、そこに居たのは宮廷中の女性の人気を王と二分する、宰相の養子クレスだったからだ。
黒髪と神秘的な紫水晶の瞳をしていて、じっと見ていると引き込まれそうなほど魅力的に見える。穏やかで冷静な反面、実は結構頑固で、時には父親や王さえも相手に口論するほどだというが、普段は物静かだ。アリエルよりは二つ年下ではあるが、彼の落ち着いた雰囲気はとても年下に見えず、アリエルも密かに憧れていた。
「レオン『ごめんなさい』は?」
「あー、わかったっての。悪かったよ、お嬢さん。ちょっと急いでたもんで」
レオンハルト王子がしぶしぶ謝って、素直なその態度にも、王族らしからぬ口調にも驚く。レオンハルト殿下は数日前から滞在しているのだが、アルヴィオス王は戦続きのため、もっぱらアディリスの王子の相手はクレスの仕事らしい。見た感じ性格は正反対のようだが、こんなにも打ち解けている二人にアリエルは意外で仕方なかった。
「お詫びに、ちょっとお茶に付き合え。こいつと二人で華がないと退屈していたところだ」
「ええ!?」
レオンハルトが思いついたようにそんなことを言い出し、彼女の腕を取る。
「ひどいなあ、レオン。アリエルはアルヴィオス陛下の手当てに来たんだろう?終わったら時間、とれるかな」
にっこりと微笑まれて、断ることなどできなかった。
「ええ。クレスさん……」
「クレス、と。君の方が歳上でしょう?」
クスリと笑う仕草から、目が離せなかった。それが、アリエルが彼らと接し始めたきっかけだったのだ──
それから数ヶ月。
三人で図書館にこもったり、お忍びで城下町の珍しい市を見に行ったり。いつだって楽しくて、幸せな時間だった。
「アルヴィオス王ってちょっと怖くない?よくクレスは話せるわよね」
ある時、王の手当から戻って来たアリエルが、クレスにそう言えば。
「ああ、あの方も幼い頃に妹君と生き別れていてね。共通点があるからか、僕にもとても良くしてくれる」
「あなたの妹……戦争で生き別れたっていう?」
「そう。僕と同じ、紫の瞳の──優しい子なんだ」
彼は寂しそうに笑って──そのときに一粒だけ、アリエルの前で涙を零した。レオンハルトには内緒だよ、なんて言っていたけれど。いずれ異国に帰る友人を心配させたくなかったのは分かっていた。
今思えば、彼は妹を探していた反面、会おうとはしていなかったように思える。クレスが家族を失ったのは14歳のとき。何もわからない子供では無かったはずだ。アディリス王国は確かに広大な国で人口も多いが、暮らしていた街が分かればアルヴィオス王やレオンハルト王子の力を借りて、妹の行方などわかりそうなものなのに。
ましてや後から聞けば、青の聖国には身元も所在も確かなディオリオという彼の叔父が居た。そちらに連絡を取れば、親族と共に居られただろう。
クレスは、妹を探しては居たが、なぜか自分を見つけてもらおうとはしていなかったのだ。
──その答えは、数日後にわかった。
季節が変わる頃には、痛みをこらえるように城の片隅でうずくまる彼を見かけるようになって、それが皆の知るところになると、王はホルザック医師にクレスを診せたのだ。彼を診断した父は苦い顔で娘に告げた。
「──クレスは、もう長くない。彼は自分の身体がもたないと、ずっと前から知って居たんだ」
ああ。だから、妹に会おうとはしなかったのか。
アリエルは動揺の中にも、やっと納得した。
彼は死ぬ前に一目会いたいと考えるより、一緒に生きていけないからこそ、妹に束の間でしかない喜びなど、無責任に与えられなかったのか。家族を何度も失う苦しみを味合わせたくなくて。
──それくらい、優しくて。臆病な、人だったのだ。
そして、彼がアリエルを避け始めたのもこの頃からだった。だからこそ分かってしまった。
──彼にとってはアリエルもまた、特別な存在なのだと。
父の診断を聞いたアリエルは、有無を言わせずクレスの部屋に飛び込んで、彼の前に仁王立ちになった。
「クレス、私に出来る事は無い?」
「……無いよ。僕の事は放っておいて」
「いいえ、無理よ。何も出来なくても傍に居たい。私あなたの事が好きだもの」
まっすぐな告白に、クレスは頬を染めて──けれど哀しげな顔をした。
「僕に、未来は無いんだ。君は君を大事にしてくれる人と幸せになって」
その綺麗な瞳に、胸が詰まった。
そんなことを言われても、無理だ。
「あなたが一番、私を大事にしてくれる人よ」
クレスからの答えは、二度目の涙と共に──諦めたように、どこか安堵したかのように、静かにキスをしてくれた。
それから、ずっと傍に居た。
二人の付き合いをレオンハルトに報告したら、「うまくやったな、クレス」とくしゃくしゃの笑顔で笑ってくれて。三人でひたすら、考えつく限り楽しい事をして。
そのときは、静かに、けれど唐突に訪れた。心の準備はしていたから、むしろああこの時が来たんだなと妙に安堵したのを覚えている。
もう二度と、彼は苦しまずに済むのだと──




