おとぎ話の真実
ちょうどそこは王子の執務室の扉の前だったのだろう。公務を終えて出て来たらしい。扉の前に居た警備兵に軽く手を振って下がらせると、彼はディアナへと微笑んだ。優しい声で彼女へ問う。
「どうしたんです?」
彼は上質な生地と繊細な刺繍に彩られた、華美過ぎず上品な深い紺色の衣裳を身にまとっていて、いつも首の後ろで一つに纏めている艶やかな金色の髪は、今は肩に下ろされていた。その王子姿に、ディアナは胸が詰まる。美しくて、気高くて──遠くに感じる。
セイは近寄りかけるが、ディアナの表情に気が付き、立ち止まった。
「セイ。話が、あるの」
息を吸って。彼女は固く、緊張した面持ちで口を開く。
「セイはここに居るべき人だわ。大勢の人に必要とされているし、あなたも民を愛している。あなたの生きる場所はここよ。でも私は、父さんと……兄さんが帰ってくるまであそこに、セレーネの森に居たいの」
ディアナの言わんとしていることが分かったのか、セイはその表情を凍らせる。
「女神の力に覚醒して、ひとつ分かった事があるのよ」
少女はなるべく淡々と聴こえるように、静かに言葉を継いだ。
「青の聖騎士──フォルディアス・セインティアの魔法は死をもたらすものではないの」
『──魂に刻まれた運命の人を知る我らは、一目で恋に落ちるだろう。その相手を愛し結ばれよ。もし想いが叶わぬときは、魔導の命を失うだろう』
「魔導の命──魔法の力、魔力を失うって言っているのよ。もちろん、魔導大国の王族に生まれるからには、魔力は命と同じくらい大切かもしれないけれど。けれど、セイは死なないわ」
だから、と囁いた彼女の声は震えていた。
「私と離れても、あなたは生きて行ける」
それが、ディアナの知った伝説の真実だった。女神の記憶が彼女に教えてくれたこと。
「死の危険が無いなら、私のような身分も無い娘はきっと王子様には相応しくない。たとえ魔力を失っても、フォルレインはもうあなたを主と認めている。あなたには色々な力があるし、誰もが魅了される素晴らしい王になるわ」
青の聖騎士の魔法が無効ならば、ディアナに価値は無いはずだと。彼女にこだわる必要は無いと。彼女はそう言っているのだ。セイは愕然とする。
確かに手が届きそうだったというのに。だけど彼女が居なくては生きられないと、あの言葉が少女を追いつめたのだと気がついた。本当はそうではないと知ってしまったからこそ、ディアナはセイから離れようとしている。
「ディアナ……」
「ごめんなさい。私は……ここには居られない」
『もし想いが叶わぬときは、魔導の命を失うだろう』というのなら、叶っている。ディアナは確かにセイの想いを受けて、彼に恋をしているのだから。
あなたにどうしようもないくらいに惹かれている。だけど『もう』、それとも『今は』──それを伝える事は出来ない。
彼と離れたら、ディアナだって引き裂かれるように辛い。けれど──“ラセイン王子“の為に、この先全てのセインティアの王の為に、黙っていることはできなかった。
本来なら王子である彼は、身分に相応しい王女や令嬢を娶る権利があるはずだ。村娘に惹かれた事など、気の迷いにしてしまえるほどに魅力的な女性に。
確かにディアナは月の女神だ。セインティアの崇拝の対象になり得るかもしれない。けれど──人間の世に必要なのは、お伽噺の存在ではなくて、世継ぎの王子の利となりえる身分の女性ではないのか。
剣を捧げよというのならいくらでも彼のために戦う。けれど小さな街に生まれ、森の家に育った娘には、王宮は荷が重い。彼女はあの森で生きているのだ。自然と獣と精霊と──魔物の生きるあの場所に。
そして女神の力は戦うためのもの。王宮に囲われていては、ディアナは生きてはいけない。少なくとも、覚悟の出来ていない今は。こんな気持ちで、彼に想ってもらうのは──辛い。
ディアナがセイに背を向けた。彼の目に入ったのは、その華奢な肩。剣を手に戦っている時には、想像もつかないほど、頼りない後ろ姿。
「もう身体も大丈夫だし、私は明日セレーネに帰るわね。色々、ありがとう」
ディアナは小さな声で言った。
「さよなら、ラセイン王子」
──セイは立ち尽くす。
彼女の言葉は衝撃的だった。けれどどこかで──本当は分かっていたのだ。セインティア王家で、失恋で死んだ者がいるなんて記録はどこにもないのだから。代々受け継がれ聴かされたセインティア王の物語が、歴史の中で少しずつ歪んでいる事など分かっていた。
歩き出し彼から離れていく彼女を、じっと見つめながら、セイは手を握り締める。
今まで何度、こうして自分を抑えただろう。
──けれどもう、何よりも譲れない大切な存在を、失いたくはなかった。
彼女を忘れて、他の誰かを隣に置く?──できるわけがない。
「ディアナ」
彼女の背に呼び掛けた。ディアナは立ち止まるが、振り返らない。
「──僕の意志は、どうなるんですか。あなたには、僕の気持ちは軽く聴こえましたか?」
責めるような、縋るような響きになってしまうのは、セイも動揺しているからなのか。
「──っ!そうじゃない!そうじゃないから、私は」
彼の想いが軽くはないからこそ、ここでディアナから身を引かなければならないと思ったのに──。
背を向けたときに零れ落ちた涙が、頬を伝って落ちる。けれどセイに、泣き顔を見せたくはなかった。
ディアナが彼の意志も聞かずに勝手に決心したことで、彼を傷つけているのはわかる。そんな人の前で、泣くわけにはいかない。きっと、心を痛めるから。




