聖国の王子
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空気が変わる。神竜の国とは違う、生まれてからずっと慣れ親しんだ、瑞々しい魔法の息吹。身を取り巻く精霊の気配と、わずかに震えた退魔の剣。
セイは閉じていた瞳を開けた。
先ほどまで腕に抱いていた少女の温もりはもう消え、柔らかな唇の感触も無い。彼女に触れていたはずの手をギュ、と握りしめた。
──魔法大国セインティア、フォルディアス城。転移魔法の門を設置した、離れの一部屋。
彼の目の前には、それを管理する魔導師と、彼の腹心である近衛騎士が片膝を付き、礼をとっていた。
「おかえりなさいませ、我が君」
無言のままそれをじっと見つめていると、騎士は小首を傾げる。
「……何でしょうか」
「いや。操心の魔族が入り込んでいると聞いたからな。お前は正気か図りかねた」
ディアナに向ける笑みではない、もう少し遠慮のないセイの態度と口調に、彼の部下はにやりと笑った。
「なるほど!近衛騎士の俺の目を盗んで、勝手に他所様の国にお邪魔してた世継ぎの王子様を、今すっげえ殴りたいんですけど。この気持ちはきっと魔族に操られてるんスね!」
「いつも通りで安心したよ、アラン」
ふう、と溜息を吐いて、王子は彼と共に部屋を出る。並んで王子の部屋へと向かいながら、騎士はセイの顔を眺めた。他の家臣や民の前では穏和で柔らかな笑顔をたたえる美貌のラセイン王子は、“聖国の太陽”と称されるほどで、国民人気は絶大だ──敵には容赦ない冷静冷酷な一面もあるのだが。
だが少なくとも今のように、多少疲れたような顔をして、眉を寄せる彼を私室以外で見ることは珍しい。
「……何すかラセイン様、その顔。あ、振られちゃいました?昨日から通信が無いと思ったら」
「うるさい」
幼馴染で兄のような近衛騎士は遠慮が無い。半年前からの経緯も、今回のディアナとの出会いも知っている。だからこそ痛いところを突いてくるのだ。
「そんな顔をするくらいなら、お連れになれば良かったじゃないですか」
彼の言葉に一瞬、迷う。
勘違いでなければ、確かにディアナはセイを受け入れてくれようとしていた。抱き締めれば同じように返してくれたし、キスも避けなかった。触れた時には、愛おしさでいっぱいになった。けれど。だからこそ。
「……彼女には幸せになって欲しい」
取り繕うことすらしないセイの心からの言葉に、アランは微笑んで。
「ったく、ウチの王子様は。損な性分ですね」
一度だけ主君の肩を軽く叩いた。それに頷いて──セイは『ラセイン王子』の顔を取り戻す。強く息を吐いて、自らに従う精霊たちを呼び集め、城内の異変について確認するように命じた。
「操心の魔族はすでに王城に入り込んでいる。古代魔法の封印に変化は」
「ありません。ただお帰りになる直前に一度封印に揺らぎが。おそらくは手を出したものの、開呪に失敗して弾かれたのかと」
先ほどの軽口が無かったかの様に、アランも一転して厳しい表情で報告する。
セインティアに戻ればその瞬間にでも、魔族との戦いになるかと思ったが──どうやらどこかに潜伏しているらしい。
「ディオリオが言うには、そいつは派手好きの馬鹿で、人に化けて諍いを起こすのが好きらしい。最近動向のおかしい貴族を洗え」
「御意」
てきぱきと指示をしながら、それでもセイの頭から消えない、彼女の姿。最後に見たその紫水晶の瞳。
そう言えば、と思い出して苦笑する。
「……ディアナの心からの笑顔は、一度も見られなかったな……」




