急変
そして、白瀬が目を覚まさなくなって四年が経った。
もはや変わったことなど起こらないとほぼ諦めに似た境地で、和季は白瀬の病室に足を運んでいた。
だが今日は、
『面会謝絶』
赤い文字が大きく書かれた紙が、見慣れたドアに貼られていた。
息が止まった。
目を閉じて、開ける。
その紙は、まだそこにある。
『御用の方はスタッフステーションまでお越しください』
面会謝絶の横にある、それほど小さくない文字にもしばらく気付かなかった。
以前にも面会謝絶だったことはある。白瀬が病院に運ばれてすぐの頃だ。
あの時は白瀬が目覚めなくなるなんて、思ってもいなかった。数日間は心配だったが、命を取り留めたと聞いて安心したことを覚えている。
すぐに意識を取り戻して、しばらく入院して、職場に戻ってくる。そして、いつもと変わらない日常が戻ってくると思っていた。
今の和季には、植物状態になった患者の容態が急に変わることもあり得るのだという知識はある。
が、それが白瀬に降りかかるのは別の話だ。
何も変わらないと思っていた。白瀬の状態はずっと変わらないのだと、長く植物状態が続きすぎて目覚める以外の変化があることを忘れていた。
こういうことが起こりうるのだと知ってはいたが、信じないように、考えないようにしていたのかもしれない。
ようやく辿り着いたスタッフステーションにいた看護師は、今は容態が悪くなっているので面会は出来ないと教えてくれただけだった。白瀬が今どんな状態なのか詳しく聞くことも出来なかった。
頭ではわかる。個人情報の問題がある。
和季は白瀬の家族ではない。恋人ですらない。
そんな人間に詳しいことを話せるわけがない。
和季がいつも白瀬の見舞いに来ていることは知っているらしく、すまなそうな顔はしていたが、それだけだった。
すがりついて聞きたいと思ったが、そこまでは出来なかった。
答えられないものは答えられない。それくらい、わかっている。
気付けば和季は再び白瀬の病室の前に立っていた。スタッフステーションからここに来るまで歩いた記憶が無い。どうやって辿り着いたのだろう。
その場で立ち尽くす。
こんなところに立っていても、出来ることなんて何も無いのに。
不意に、白瀬の病室の中から物音がした。
白瀬が動けるわけがないのに。
意識を取り戻しさえしなければ。
まさかと思いドアに手を掛けたとき、中からドアが開いた。
中が見える。
ベッドの上に白瀬はいる。
姿が見えただけで、ほんの少しだがほっとした。
あれは白瀬、なのだろう。
いつものもベッドに横たわっている白瀬は、チューブや人工呼吸器などが付けられて、まるで人間ではない別の生き物のようだった。
思わずふらふらと部屋に足を踏み入れてしまいそうになって、鼻先でドアが閉まる。
出てきたのは、白瀬の母だった。
白瀬の母は無言でどこかを見ている。
虚ろな目だった。
白瀬の母は、病室で会うことがあれば表面上はいつも元気そうにしていた。見舞いに来た和季にも優しく接してくれていた。
無理をしているのだと、わかってはいた。娘がこんなことになって平気な親がいるはずない。
だからこそ、強い人だと和樹は思っていた。
だが、今は、
「大丈夫、ですか?」
白瀬がどうなっているのか知りたくてたまらなかった和季ですら、思わず心配になって声を掛けてしまったくらいだ。
「……あ、あら、萩本君?」
「はい」
ようやく和季だと気付いてくれたようだが、声は弱々しかった。
「ごめなさい。ちょっと気が動転してて」
「いえ」
掛けるべき言葉が見つからない。だが、
「あの。白瀬さんは、今どんな状態なんですか?」
聞かずにはいられなかった。
「……っ」
白瀬の母が両手で顔を覆う。話せるような心理状態ではないのだ。
「すみません。でも、僕も白瀬さんが心配で……」
「本当に、ごめんなさいね。そうね、萩本君だって、あれから二年も経つのにいつも娘を見舞ってくれているのだものね」
白瀬の母が顔から手を離す。和季の顔は見ない。
「藤乃は今、合併症で肺炎にかかってしまっていてね。危険な状態なの。だから、会わせてはあげられないのだけれど……」
和季もネットで調べているときに、そういう情報を見たことがある。長期間、植物状態に陥っていると合併症にかかって死に至る場合が多い、というようなことが書かれていたはずだ。
死に至る。
そんなことは無いと信じたい。
信じるしかない。
「……そう、ですか。そんなときに来てしまって申し訳ありません」
「いえ、突然だったから。入れてあげられなくて申し訳ないけれど。また元気になったら来てくれるかしら」
「……はい」
力なく笑う白瀬の母に詰め寄ることも出来なくて、和季は素直に首を縦に振った。
「来てくれてありがとうね」
「いえ。では、今日は失礼します」
小さく頭を下げる。
姿も見ることが出来ないのは辛いが、仕方が無い。
白瀬の母も、どこかへ行くつもりだったのか軽く頭を下げてからおぼつかない足取りで歩き出した。その背中はいつもより小さく見える。
和季は病室のドアに向き直った。
目の前にはドアがある。その向こうには白瀬がいる。
だが、和季にはドアは開けられない。
こんなにも病院に通っていても、白瀬にとって和季は他人なのだ。
何かあっても、一番に知らせが来るわけでもない。
『元気になったら』
普通の病気ならば、なんということもなく使える言葉が今はおかしく思えた。
もしも今を乗り越えたとしても、白瀬が意識を取り戻す訳ではない。
あの状態を元気だと言えるのだろうか。
が、それしか言いようがなかったことはわかる。
持ち直して欲しい。
せめて、生きていて欲しい。
病室の前で、和季は祈る。




