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それはしてはいけないこと

 もうすぐ警察がここに来て昇は保護される。何事もなく仕事は終わる。

 そうして、親子は二度と会えなくなる。

 母親が逃走した理由はわからないが、昇に会うためだと和季は確信していた。他のことを一切望まない昇が、会いたいと思っている母親なのだ。

 昇が待っている部屋のドアを開ける。

 和季が部屋に入っても、やはり昇はこちらを見ることもしなかった。

 小さく深呼吸して、昇の元へ歩み寄る。まだ迷っている。足取りがゆっくりになる。

 昇の目線と同じになるようにしゃがむ。


「昇君」


 優しく呼びかけようとしたのに、ぎこちない声になってしまった。思ったより緊張している。

 誰が聞いているかわからないので、声を潜める。


「今から僕がびっくりするようなことを言っても、大声は出さないでね」


 昇は相変わらず和季のことを見ない。驚かせるようなことなんか言えないくせに、と思っているのがわかる。

 口に出してしまえば、もう後戻りは出来ない。これ以上、昇をがっかりさせたくない。

 決めた。

 もう後戻りをしないために、言ってしまおう。


「お母さんに会いに行こう」


 言った。言ってしまった。

 心がすっと軽くなったような、とんでもない不安がのしかかってきたような、どちらが大きいのか和季にもわからない。

 これまで動かなかった昇の表情が変わった。ぱっと顔を輝かせる。こんな顔が出来るなんて知らなかった。いつだって昇は諦めたような顔をしていた。

 きっと、この決断は間違っていない。


「これから、お母さんに内緒で会いに行こう。誰かに見つかると止められちゃうから、誰にも見つからないようにしないといけないんだ。もし誰かに見つかっても、お母さんに会いに行くことは言っちゃだめだよ。わかった?」


 理解してくれたのか、黙ってこくこくと昇は頷く。

 ちらりと、廊下が見える窓を確認する。誰もいない。警戒はされていない。

 当たり前だ。まだ、この施設の職員には、昇の母のことを伝えていない。和季が伝えない限り知られることはない。警察が来るまでの間の話だが。

 だから、今しかない。


「行こうか」


 和季は立ち上がって、昇の手を握ろうとした。だが、昇は上目遣いに見上げてくるだけで、その手を取ってくれない。

 当たり前だが、信用されていないようだ。一瞬は喜んだものの、本当に会えるのか不安なのだろう。

 こんなところでぐずぐずしているわけにはいかない。急がなければ、警察が来て身動きが取れなくなってしまう。

 強引に昇の手を引くのは躊躇われた。力業で言うことを聞かせることは出来る。だが、それでは信用してもらえなくなりそうな気がした。


「うそじゃない?」

「嘘じゃないよ。今まで昇君の願いを聞いてあげられなくてごめん。今は信じて欲しい。すぐに行かないと間に合わなくなるんだ」


 子ども相手に取り繕っても仕方が無い。素直に話すのが、きっと一番いい。しっかりと昇の目を見る。小さな目が、和季を試すように見ていた。


「……わかった」


 少し迷っていたようだが、最後の可能性に賭けようと思ったのか、昇はこくんと頷いてくれた。小さな手が和季の手に触れた。その柔らかい手を握り返す。


「行こう、昇君」

「うん」


 昇が走り出そうとする。


「走らないで。気付かれないように、いつも通りの顔をしていこう」

「……ないしょ、だもんね。見つかったらたいへんだもんね?」


 わかってくれないかと思いきや、昇は素直だ。母親に会えるのを期待しているのか、いつもより饒舌だ。そのこと自体が珍しいので、様子が違うことに気付かれないか心配になる。

 短い廊下のはずなのに、永遠に続くくらい長い気がした。今にも角を曲がってきた誰かに見つかってしまう。そんな気がする。いや、見つかってもごまかせればそれでいい。

 走り出したいのは、本当は和季の方だ。


「あ、昇君。どうしたんですか? お出掛けですか?」


 後から声を掛けられて、心臓が跳ね上がった。振り返る。この施設の職員だ。

 まだ気付かれていないはずだ。普通に話さなくては怪しまれる。


「昇君が外に行きたいと言い出したもので。連れて行くことにしたんです」

「そうですか。気を付けて。昇君、行ってらっしゃい」


 何も知らない女性は、にこにこと手を振って見送ってくれる。

 和季は昇が何か言うかと内心ひやひやしていた。だが、状況をわかっているのか、昇は何も言わないで和季の手をぎゅっと握っている。


「行ってきます」


 和季はなんとか笑って手を振ってみせる。

 警察が来てしまえば、それまでだ。

 急がなくてはならない。

 見慣れた市役所のロゴが入った車に辿り着いたときには少しほっとした。だが、ここで気を抜いている場合では無い。これからが本番だ。

 昇を助手席に乗せ、カーナビに昇の母が入っていたという拘置所の場所を入力する。そこで和季は手を止めた。


「お母さんの行きそうなところって、わかるかな」


 少しでも手掛かりになりそうなことがあるのなら、聞いておいた方がいい。母親のことを一番わかっているのは、きっと昇だ。


「ぼくのとこ」


 昇が即答する。


「お母さんはぜったい、ぼくのところに来るよ!」

「そうだね。だけど、お母さんは昇君がここにいることを知らないんだ」

「そうなの?」

「だから、行きそうなところを探さなきゃいけない。……行くとしたら、どこだろう?」

「おうち?」

「家の場所はわかる?」

「わかる」


 昇が住所を告げる。番地まではまだ覚えてはいなかったが、行ってみればわかるだろう。留置所の近くまで行って、そこから昇の家までの道沿いを探す。頭の中でシミュレーションしてみる。

 なんだか本当に会えるのか不安になってくる。無計画すぎただろうか。

 だが、


「まずは出発しようか」


 こうしている間にも、警察が到着するかもしれない。昇を保護されてしまえば、もう和季が手出しをすることは出来なくなる。


「うん、はやく行こう!」


 車を発進させる。アクセルを踏む足が、少し震えた。


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