忘れていたこと
翌日、再び和季は昇と向き合っていた。
相変わらず、昇は何も話さない。挨拶をしても返事すらしてくれなかった。
「私たちも気になってはいますよ。出来るだけのことはしてあげたいとは思ってはいるんです。でも、他の子の面倒も見なくちゃいけないですし。正直、どう接していいのかわからないというか……」
この施設の職員も、昇の扱いには困っているようだった。
「他の子も、最初は話し掛けていたんですが、返事もしてくれないって、興味が無くなったみたいで」
子どもをいつも見ている人たちも、同じ子どもにすらどうしていいかわからない子を、和季がどうにか出来るとは思わない。
今日も早々に引き上げた方がよさそうだ。
昇は所在なさげに、子ども用の小さな椅子に座っている。
その椅子が大きく見えてしまうほど、昇は小さい。
あまり子どもと接したことがない和季には、小学生がどれくらいの大きさなのかもわからない。
それでも、和季から見て昇は小さかった。
じっと黙って下を向いている昇の顔は無表情だ。子どもはもっと笑っているものではないのだろうか。
昨日、大西が話してくれたことを思い出す。この子は暴力を振るわれていた。
触るとすぐに怪我でもさせてしまうのではないかと思えるほど細い肩。風にでも吹き飛んでしまいそうな小さな身体。
どうしたら、この存在に向かって暴力を振るえるのだろうか。
昇がちらりと上目遣いに和季を見て、すぐに視線を外した。和季にすら怯えているのかもしれない。よく見ると、小刻みに肩が震えている。
そうだ。
この子は、和季が守ってあげなければならいような存在なのだ。それを、和季はいつものように事務的に扱おうとしていた。
昇は加害者ではない。
確かに、白瀬は生き返りのせいで目覚めなくなってしまった。けれど、それは和季が昇を冷たく扱う理由にはならない。
生き返り全てが、憎悪の対象ではないのだ。
ずっと忘れていた。
白瀬が母親に嬉しそうに話してくれた和季は、こんなではなかったはずだ。
白瀬が信じてくれた和季は、もっと……。
和季は顔を上げて天井を見た。空気が、肺の中に行き渡る。
なんだかとても久しぶりに、頭がすっきりとした。
和季は昇を真っ直ぐに見据える。
そして、考える。
白瀬ならどうやって、この子の心をほぐすのだろう。白瀬のことだ。実は子どもが苦手というのもあり得る。昇を前にどう振る舞えばいいのか困っている姿を思い浮かべると、少しだけ頬が緩んだ。
もう一度、息を吸い込む。
昇が肩をびくりと震わせて上目遣いで和季を見た。その目は何かを恐れている。さっきまでの無表情と少し違う。
「……もしかして」
何かが引っ掛かった。
「ため息が怖いの?」
恐る恐るという様子で、昇が頷いた。そして、小さく言った。
「ごめんね。ため息を吐いたんじゃないんだ。大丈夫だよ」
まだ、疑っているような眼差しで昇は和季を見ている。
和季も人にため息を吐かれると、何か気に障ることをしたのではないかと不安になる。昇の歳でそんなことを気にするということは、余程嫌なことがあったのだろう。
「昇君は何も悪いことなんてしてないから、大丈夫」
無表情に見えて、昇は和季の小さな仕草さえも気にしている。そして、怯えている。
和季はそんな子どもを生き返りの一人だと一括りにして、何もしないまま見捨てようとしていた。
それでも、問題自体は無いのだろう。
だが、きっと白瀬はそうしない。
三日後には死に還るとわかっていても、白瀬ならその間に出来る何かをしたいと思うだろう。ましてや、今回担当しているのは自分で何かしようにも難しい、まだ小さな子どもだ。和季がやらなくて誰が助けられるというのだろう。
白瀬のいない、今。




