渡したい、渡せない
「そろそろ帰った方がいいんじゃないかな」
松下に声を掛けられて、顔を上げる。
「帰れるときには帰って、きちんと身体を休めるのも仕事のうちだよ」
部下を気遣って帰りなさいと声を掛けてくれる上司は、有り難い存在だと思う。白瀬も松下に声を掛けられて帰っていることが多い。白瀬は定時になったことにすら気付かない程、仕事に没頭していることがある。放っておくといつまでも帰らなさそうなので、いつも松下が声を掛けてくれることに内心ほっとしていた。最初は、自分が帰れることに安堵していたのだが、いつの間にか白瀬のことが気になるようになっていた。
今日は定時を過ぎても、その白瀬は帰ってきていない。そもそも、定時までに戻ってくるかはわからなかった。霧島ならすぐに帰ってきたかもしれないが、白瀬のことだ。今回も丁寧に対応しているに違いない。
「白瀬さんを待っているの?」
「あ、ええと、その……」
ストレートに聞かれて言葉に詰まる。気にしているのが松下にすらバレているのだろうか。それはまずい。すごくまずい。恥ずかしい。
「白瀬さんも萩本君が担当しているときは待っているけどね。それは君のことをサポートしたいからだからね。でも、今の萩本君が出来るのはちゃんと身体を休めて自分の仕事をこなすことだよ。出来る仕事は人それぞれなんだからね。だから、今日は帰りなさい」
「……わかりました」
別におかしな意味で言われていたのではないとわかって、ほっとする。一体何を考えているのだろう。
大人しく帰り支度をして部屋を出る。ここで食い下がるのも変だ。
そもそも待っていたのは今日中にマグネットを渡してしまおうと思ったからだ。あまりぐるぐると考えすぎていると頭が爆発しそうだ。
悩んでいないで、思い切って渡してしまった方がきっと楽だ。
明日会ったら、明日が駄目だったら明後日、もしそれでも駄目なら明明後日に渡す。この考えだと無限に先延ばししてしまいそうだ。
生き返りを担当しているときの白瀬はいつも忙しそうだから、担当が終わった日に渡すのがいいかもしれない。生き返りを担当しているとき以外でも忙しそうだが、渡すタイミングとしては悪くないはずだ。
お疲れ様です、と声を掛けながら渡せば自然だ。疲れてぼんやりしているときなら、好きなものを見れば素直に喜んで受け取ってくれるかもしれない。帰り際に廊下で生き返り課の誰かがいないときならなおいい。タイミングを合わせれば可能だろう。
我ながらいい作戦だ。
よし、と和季は拳を握る。
そもそも生き返りの担当中は白瀬の姿を見ないことが多い。時間が経てば少しは心が落ち着いているだろう。きっと自然に渡せる。
今日渡そうと思っていたものの、こんな状態で白瀬の顔を見ると絶対に挙動不審になってしまうに違いない。今はあまり顔を合わせなくて済むことがありがたい。
で、心を落ち着かせている時間なんか全然無かった。
昨日の今日で早速チャンスが訪れてしまった。昼過ぎには戻ってくるなんて聞いていない。
「あれ? 今、萩本君だけなんだ」
ドアを開けて白瀬が入ってきたときには硬直してしまった。
「あ、えと。安原さんは休みで、課長は休憩中で、霧島さんは出張中です」
「そっか」
こんなに早く、二人きりになるなんて予想もしていなかった。たまたま、他の職員は席を外している。
疲れた顔で白瀬は自分の席に座る。心なしか、足取りも重そうだ。
「あの、お疲れ様です。大丈夫ですか?」
突然二人きりになって心の中は少しパニック状態だが、疲れた様子なのがもっと気になった。
「大丈夫って、何が?」
「あ、いえ、なんだか疲れた顔じゃないですか?」
「そんな風に見えるかな」
「はい。なんとなく、顔色が良くないような気がして」
「うわ、わかる?」
「なんとなくですけど」
白瀬が鞄から小さな鏡を取り出して自分の顔を見ている。
担当を持っているときにはいつも全力で走っている白瀬だから疲れているのは当たり前なのだが、今日は早く戻ってきているのだからもう少し余裕のある顔をしていてもいいと思う。
「コーヒー、淹れます?」
「いいよ。そんな、気使わなくて」
微笑みも弱々しい。
松下も最初に言っていたとおり、大変な仕事なのだろう。
こんな時こそ何か力になりたいのだが、仕事に関して白瀬の相談に乗るほどの力量が今の和季には無い。むしろ、教えてもらう立場の方だ。
悔しい。
そんな和季にでも出来ることといえば……。




